トイレ
足元のガクリという感覚に、お前は咄嗟に手すりにしがみついた。腐食した木製のそれは、指に嫌な湿り気を残した。階段の段差は、たしかに崩れたのだ。物理的に、足を踏み入れた場所が、一瞬だけ消え失せたかのような感触。心臓が跳ね上がり、呼吸がヒューヒューと喉を鳴らす。
声にならない問いが、乾いた喉に張り付く。どれだけ上ったのかも分からない階段の途中で、お前は立ち尽くした。背後のピアノの音はもう聞こえない。その代わりに、階段の吹き抜けから、奇妙な
唸り声のようなものが、再び微かに響いてくる。それは、風の音のようでもあり、あるいは、この校舎そのものが、深く呼吸している音のようにも聞こえた。
冷たい汗が、額から顎へと伝い落ちる。全身の皮膚が粟立ち、鳥肌が立つ。久留米の夏の夜だというのに、体温が急速に奪われていくような寒気がした。
ふと、上を見上げた。天井は、先ほど見たような脈動はしておらず、ただ闇の中にぼんやりと存在するのみだ。しかし、その天井の一部が、まるで
黒い染みのように見えることに気づいた。それは、水漏れにしては大きすぎ、形も不規則で、まるで墨を流したかのような不気味な広がりを見せていた。
その黒い染みから、ポタ……と、再び
水の滴る音が聞こえてきた。その音は、先ほど音楽室や階段で聞いたものと全く同じで、規則性がない。そして、その音には、単なる水とは違う、妙な粘り気と、微かな鉄のような匂いが混じっているような気がした。
お前は、階段の壁に目をやった。先ほどの黒い石材はもうなく、ごく普通のコンクリートと、剥げかけた塗料が見える。だが、そのコンクリートの表面に、かすかに
黒ずんだ指跡のようなものが、複数、垂直に伸びていることに気づいた。まるで、誰かが、這い上がろうとして、あるいは引きずり降ろされまいとして、必死に指を立てたかのようだ。
その指跡を避けながら、お前は残りの階段を上り切った。
辿り着いた先は、またしても薄暗い廊下だった。一階の廊下よりも、わずかに狭く、天井も低い。湿気を含んだ空気は変わらず、微かな土の匂いに、さらに
消毒液のようなツンとした匂いが混じり合っていた。
廊下の壁には、古びた掲示物が辛うじて張り付いている。今度は、生徒の書いた作文が貼られているようだ。「私の将来の夢」と書かれた表題が見えるが、内容は薄暗くて読み取れない。その横には、運動会の写真だろうか、生徒たちが並んで写っている写真が貼られていた。しかし、どの顔も、妙に
ぼやけていて、判別できない。まるで、顔の部分だけが、意識的に霞められているかのようだ。
廊下の奥から、かすかに
水の流れる音が聞こえてきた。それは、トイレの個室で、誰かが水を流したような音だった。
お前は、音のする方へと、ゆっくりと足を進めた。その廊下は、緩やかに右にカーブしていた。カーブの先には、開いたドアがあった。
そこは、
トイレだった。
薄暗い室内は、ひんやりとしていて、便器の冷たい陶器の匂いと、微かなカビ臭さが混じり合っている。床は薄汚れていて、タイルにはひびが入っている。
中の個室は三つ。一番奥の個室のドアが、
わずかに開いていた。そして、そこから、ごく微かに、水が滴り落ちる音が聞こえる。ポタ、ポタ……。それは、階段の壁で聞いた音と同じだ。
お前は、一番手前の個室の前に立ち止まった。そのドアも、完全に閉まってはいない。しかし、その個室の中から、微かに
すすり泣くような声が聞こえた気がした。いや、それは、ただの風の音か? だが、その声は、あまりにも生々しく、胸を締め付けるような響きを持っていた。
心臓がドクン、ドクン、と大きく脈打つ。呼吸が浅くなる。
お前は、ゆっくりと顔を上げた。目の前には、壁に掛けられた、古びた
鏡がある。
薄暗闇の中で、鏡に映る自分の顔は、青白く、まるで幽霊のようだった。恐怖に歪んだ自分の顔を直視する。その時、ふと、違和感を覚えた。
鏡の中の「自分」の顔が、
一瞬だけ、別の顔に見えたような気がした。
それは、女性の顔のようだった。髪が長く、顔は青白く、その目は、お前をじっと見つめている。そして、その顔は、ほんの一瞬で、また元の自分の顔に戻った。
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走った。幻覚だ。疲労と恐怖のせいだ。そう自分に言い聞かせるが、その像は、あまりにも鮮明だった。
鏡の中から、微かに、
低い囁き声が聞こえた気がした。「まだ、いるの……?」と、どこか悲しげな、そして、恨みがましい声。
お前は、鏡から視線を逸らし、一番奥の、少しだけ開いた個室に目を向けた。
その開いたドアの隙間から、何かが見えたような気がした。
白い、何か。
それは、まるで、
人の足首のように見えた。ひんやりとした陶器の床に、不自然なほど白い足首が、わずかに覗いている。
しかし、次の瞬間、その足首は、スッと闇の中に引っ込んだ。
お前は、息を呑んだ。全身の血液が、一瞬にして冷たくなったかのような感覚。
あの個室に、誰かがいる。
そして、その誰かは、今、お前が自分を見ていることを、知っている。
お前は、その場から一歩も動けなくなった。逃げなければ、という本能的な叫びと、恐怖で硬直した体が、激しくぶつかり合う。
その時、一番奥の個室から、再び
水の流れる音が聞こえた。
ゴォォ……と、勢いよく水が流れ、そして、ぴたりと止まる。
だが、その音の直後、
パタン、と、個室のドアが、内側から完全に閉まった音がした。
お前は、その閉まったドアを凝視した。そのドアの向こうに、何かがいる。確かに、何かが。
しかし、その個室からは、もう、何の音も聞こえてこない。ただ、重苦しい静寂が、お前を包み込んでいるだけだ。
冷たい空気が、肌に張り付く。微かな消毒液の匂いが、一層強くなったように感じられる。
お前は、ゆっくりと、その場を離れた。もう、ここにはいたくない。このトイレの空気は、あまりにも重すぎる。
廊下へと続くドアへと、足を進める。
しかし、トイレのドアノブに手をかけたその瞬間、背後から、
かすかな「カチッ」という音が聞こえた。
振り返ると、鏡が掛けられた壁の向かい側、使用されていないはずのもう一つの個室のドアが、
微かに開いているのが見えた。
お前は、再びその開いた個室を凝視した。さっき、一番奥の個室が開いていた時と、全く同じ光景だ。しかし、今回は、その開いた隙間の床に、何か黒い機械のようなものが転がっているのが見えた。それは、手のひらサイズの、まるで古びたスマホのような形をしているが、表面には複雑な回路のような文様が光り、微かに低い電子音のようなものが聞こえる。久留米の、ごく一般的な学校のトイレに、こんなものが転がっているのは、あまりにも不自然だ。
デジャヴュだ。まただ。お前は、この場所が、お前を同じ恐怖に引き戻そうとしているかのように感じた。廊下の掲示物に目をやる。先ほどの「私の将来の夢」の作文が、いつの間にか、「本日、臨時休校」という、また別の貼り紙に変わっている。文字の一部が掠れていて、まるで時間が経ちすぎたかのように古びて見える。そして、その貼られている位置も、先ほどよりもわずかにずれているような気がした。
お前は、その奇妙な機械へと、ゆっくりと足を踏み出した。その機械から放たれる微かな電子音が、まるで脈拍のように、静寂の中で響いている。それは、この世界の人々が、普段どのような機械を使い、それが彼らの生活にどう影響しているのかを示す、ほんの小さな断片のように思われた。便利さの裏に潜む、奇妙な不気味さ。
しかし、機械に手を伸ばそうとしたその瞬間、トイレの廊下全体が、まるで大きく息を吸い込むかのように、空間そのものが軋む音を立てた。ギシ、ギシ……。壁も床も、天井までもが、生き物のように歪み、お前の視界を揺らす。
そして、鏡の中の「自分」が、ゆっくりとこちらを向いた。その顔は、もうお前の顔ではない。先ほど見た、青白い女性の顔だ。その口元が、ゆっくりと弧を描き、笑みを浮かべる。
お前は、恐怖に足がすくみ、動けなくなった。