階段
音楽室のドアを背にしたまま、お前は廊下の奥へと足を進めた。背後で、再びピアノの音が響くのではないかという恐怖に駆られながらも、振り返ることはしなかった。あのデジャヴュのような感覚が、脳裏に焼き付いている。同じ光景、同じ音を繰り返す――それは、まるで時間の螺旋に囚われたかのようだった。
廊下の壁を伝い、異常なほど冷たい黒い石材に刻まれた奇妙な文様を指でなぞりながら進む。その石は、わずかに脈打つような感触があり、触れている指先から冷たい何かが体内に染み込んでくるかのようだった。久留米の古い校舎のはずなのに、こんな建築様式は見たことがない。この校舎は、一体いつから、こんな姿をしていたのだろうか。
やがて、お前は薄暗い廊下の突き当たりにたどり着いた。そこには、上階へと続く階段があった。一段一段が古びた木製で、踏みしめるたびにギィギィと軋む音がする。その音は、まるでこの校舎の骨が悲鳴を上げているかのようだ。湿気を帯びた埃と、微かな錆の匂いが混じり合った空気が、階段の吹き抜けからじわりと漂ってくる。
お前はゆっくりと、最初の段に足をかけた。一歩踏み出すたびに、足元から伝わる振動が、直接心臓に響く。段差は、見た目よりもわずかに高く、踏み込むたびにバランスを崩しそうになる。
一段、二段、三段……。
数を数えながら上っていく。自分を落ち着かせようと、意識的に呼吸を整える。しかし、数えるたびに、違和感が募っていった。
「あれ……今、何段目だ?」
たしか、五段目だったはずだ。しかし、足元にあるのは、まだ四段目のような気がする。いや、もう六段目かもしれない。視界が、ぐにゃりと歪む。階段の段数が、不規則に増減しているかのように感じられた。一段上るたびに、足元が予想外に深かったり、逆に浅かったりする。まるで、階段そのものが生きているかのように、お前を惑わせる。
足元から、微かな風の音が聞こえてきた。ヒュー……と、どこからともなく吹き付けてくる冷たい風が、お前の首筋を撫でる。しかし、ここには窓はない。どこから風が入り込んでいるのか、まるで理解できない。その風に乗って、古びた学校特有のチョークの匂いや、墨汁の匂いが混じり合い、過去の残滓が漂っているかのようだ。
上を見上げる。
吹き抜けの最上階。そこにあるはずの天井が、まるで生きているかのように、ゆっくりと動いているように見えた。薄暗闇の中に、天井の木目がぼんやりと浮かび上がっているのだが、その木目が、まるで波紋のように広がったり、収縮したりしている。空間そのものが、脈動しているかのようだ。
ゴゥ……と、遠くで低い唸り声のような音が聞こえた気がした。それは、風の音にも似ているが、もっと重く、深い。まるで、この校舎の地下から響いてくるかのような、底知れない響きだった。
恐怖に体が硬直する。しかし、立ち止まっている暇はない。お前は、混乱する意識の中で、さらに上へと足を進めた。
一段上るごとに、耳の奥で、微かな水の滴る音が聞こえ続ける。ポタ、ポタ……。それは、先ほどの音楽室で聞いた音と同じだ。だが、今は、その音が、まるで階段の壁の奥から響いてくるかのように、より近く、より生々しく聞こえた。湿った空気が、さらに肌に張り付く。
ふと、階段の踊り場に、白い何かが落ちているのが見えた。心臓が跳ね上がる。それは、一瞬、人間の歯のように見えた。だが、近づいてよく見ると、古びた鳥の骨らしきものだった。しかし、その骨は、異常なほど真っ白で、まるで最近まで生き物の体内にあったかのような生々しさを保っていた。その白い骨から、微かに腐敗臭が漂ってくる。
お前は、その骨を避けるように、足早に階段を上り続けた。段数を数えるのを諦めた。ただひたすらに、上へ、上へと。
しかし、どれだけ上っても、目的地にたどり着く気配がない。終わりが見えない。足は鉛のように重く、呼吸は乱れ、心臓は激しく打ち鳴らされている。汗が、冷たい雫となって全身を伝い落ちる。
そして、耳の奥で、またしても聞き覚えのある音が響いた。
ポツン、ポツン……。
それは、まるで、遠くでピアノの鍵盤を叩く音に似ていた。先ほど、音楽室の前で聞いた、あの不規則な単音。
お前は、思わず立ち止まった。
まさか。こんな高い場所まで、あの音が聞こえるはずがない。それに、この階段は、まるで螺旋階段のように、ずっと上へと続いているような感覚に陥っている。
だが、確かに、その音は聞こえた。そして、その音と同時に、かすかな歌声のようなものが聞こえた気がした。それは、子供の歌声のようでもあり、あるいは、ただの風の音のようでもあった。しかし、その歌声は、お前の名前を呼んでいるかのようにも聞こえた。
ぞわり、と全身の毛が逆立つ。
振り返る。
お前が上がってきたはずの階段が、どこまでも下へと続いているように見えた。そして、その遙か下には、先ほどまでいたはずの正面廊下が、まるで幻のように揺らいでいる。そこには、薄暗い廊下と、微かに開いた音楽室のドアが見える。
「まさか……」
お前は、自分が上ってきたはずなのに、まるで時間が逆行しているかのような感覚に陥った。あるいは、この階段そのものが、お前を同じ場所へと引き戻しているのだろうか。
天井が、再び大きく脈動した。ゴゥ……という唸り声が、一層大きく響き渡る。
お前は、自分自身の足元を確かめるように、もう一度、階段の段数を数えようとした。
一段、二段……。
しかし、次の瞬間、足元がガクリと崩れた。