音楽室前
お前は、ゆっくりと開いた扉の隙間から、その闇の奥を覗き込んだ。ピアノの音は、先ほどよりも明確に、だが依然として微かに響いている。それは、まるで夢の中にいるかのような、現実離れした響きだった。湿気を帯びた埃の匂いが、一層濃く鼻腔を刺激する。微かな土の匂いに、古びた木の匂いが混ざり合う。
一歩、足を踏み出す。ギィ、と床板が鈍く軋む音が、薄暗い廊下に吸い込まれていく。その一歩ごとに、心臓が大きく脈打つ。薄暗闇に目が慣れてくると、そこが音楽室の前であることがわかった。年季の入った木製のドアには、「音楽室」と書かれた古びたプレートがかかっている。そのプレートの隅には、黒い汚れのようなものがこびりついていた。墨汁だろうか、あるいは……。
ピアノの音は、音楽室の中から聞こえてくるようだ。しかし、その音は単調で、同じ鍵盤を何度も、不規則に叩いているかのような響きだ。まるで、誰かが、あるいは何かが、意味もなく鍵盤の上を彷徨っているかのようだった。
耳を澄ますと、その単調な音の中に、かすかに、本当に微かに、擦れるような音が混じっていることに気づいた。それは、椅子の脚が床を擦る音にも似ているが、もっと湿った、粘りつくような感触がある。鳥肌が、腕にぞわりと立った。
呼吸が浅くなる。この空間にいると、肺がうまく酸素を取り込めないような、そんな閉塞感に襲われる。目の前にある音楽室のドアは、固く閉ざされている。ピアノの音は、ドアの向こうから、まるで壁の奥から響いてくるかのように聞こえる。
ドアノブに手を伸ばそうとするが、躊躇する。その冷たい金属に触れるのが、なぜか恐ろしい。代わりに、ドアに耳を押し付けてみた。すると、ピアノの音が、より一層鮮明に聞こえてくる。不規則な打鍵の合間に、微かな衣擦れの音が聞こえた気がした。まるで、誰かがピアノの椅子に座り、身じろぎしているような……。
さらに耳を澄ますと、ピアノの音の間から、かすかに、いや、はっきりと、水の滴る音が聞こえた。ポタ、ポタ……と、不規則な間隔で。音楽室の中に、水漏れでもしているのだろうか? だが、その音は、どこか湿っぽく、生々しい響きを帯びていた。
ふと、視線を廊下の奥へと向けた。来た道を振り返る。闇が、深い霧のように立ち込めている。その中に、薄っすらと、何かが立っているような気がした。影。しかし、それは、明確な形を持たない、ぼんやりとした塊だ。ゾクリと背筋が凍りつく。
幻覚だ、そう自分に言い聞かせるが、その影は、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへと近づいてきているように感じられた。足音はしない。ただ、空気の異変だけが、その存在を告げていた。廊下の温度が、さらに数度下がったような錯覚に陥る。肌が粟立ち、全身の毛が逆立つ感覚。
呼吸がさらに荒くなる。心臓は、まるで警鐘を鳴らすかのように激しく鼓動する。逃げなければ、という本能が叫んでいる。だが、足が、まるで床に縫い付けられたかのように動かない。
再び、音楽室のドアに視線を戻す。ドアの向こうからは、相変わらず不気味なピアノの音が聞こえている。そして、その音の合間に、微かに、低い囁き声のようなものが混じっているような気がした。内容は聞き取れない。だが、その声は、お前の名を呼んでいるかのようにも聞こえた。
その時、音楽室のドアが、ゆっくりと、内側から開いた。
ギィィ……と、錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てる。その隙間から、漆黒の闇が顔を覗かせる。光は一切ない。だが、その闇の奥から、冷たい視線を感じた。まるで、何かが、お前をじっと見つめているかのように。
そして、その開いたドアの奥から、ピアノの音が、途切れた。
静寂が訪れる。だが、その静寂は、恐怖を一層際立たせた。耳鳴りがするほどだ。汗が、冷たい雫となって、こめかみを伝い落ちる。
ドアの隙間は、開いたままだ。その奥には、闇しか見えない。しかし、お前は知っている。その闇の中に、誰かがいることを。そして、その誰かは、お前がそのドアを通り過ぎるのを、じっと待っているのだと。
お前は、音楽室のドアから、ゆっくりと視線を逸らした。この場所から、一刻も早く離れなければならない。そう強く思った。
来た道を振り返る勇気はない。お前は、音楽室のドアを背にするようにして、廊下のさらに奥へと、足を進めた。
その時、背後から、もう一度、ピアノの音が聞こえた。
ポツン、と、たった一音。
しかし、その音は、先ほどまで聞こえていた不規則な打鍵とは明らかに違っていた。それは、まるで、お前が今、通り過ぎたばかりの場所から聞こえてくるかのような、明確な、そして、お前を嘲笑うかのような響きだった。
振り返る。
音楽室のドアは、先ほどと同じように、微かに開いたままだ。だが、その隙間の奥には、もう何も見えない。ただ、深い闇が広がっているだけ。
しかし、お前は確信した。
「あれ、これってさっきも見たな?」
デジャヴュのような感覚が、脳裏をよぎる。この光景、この音、この空気。まるで、同じ瞬間を何度も繰り返しているかのような錯覚に陥る。
廊下の壁に、ふと目をやった。そこには、古びた石材が使われている部分があった。他の壁は漆喰のようなものなのに、そこだけが、妙にひんやりとした、黒っぽい石でできていた。その石には、薄暗闇の中でも判別できる、奇妙な文様が刻まれている。それは、まるで、何かの文字のようでもあり、あるいは、複雑に絡み合った血管のようでもあった。指先で触れると、その石は異常なほど冷たく、まるで生き物の皮膚に触れたかのような、生々しい感触があった。
その石の文様が、微かに、脈打っているような気がした。
気のせいか? いや、確かに、その文様の中を、何かがゆっくりと流れているような、そんな錯覚に陥った。
お前は、再び前を向いた。廊下の奥へと進む。
しかし、足を進めるたびに、周囲の空間が、わずかに歪んでいるような感覚に襲われる。廊下の壁が、ほんの少しだけ傾いているように見える。床が、緩やかに波打っているかのように感じる。まるで、この校舎全体が、生き物のように呼吸し、形を変えているかのようだ。
そして、再び、背後から、ピアノの音が聞こえた。
ポツン、と。
お前は、もう振り返らなかった。振り返れば、また同じ光景が広がり、同じ音が聞こえるような気がしたからだ。
この校舎は、お前をどこへ連れて行こうとしているのか。あるいは、お前を、どこにも行かせないつもりなのか。
ただ、確かなのは、お前はもう、この校舎の**「内側」**に、完全に囚われているということだった。