溶けゆく境界
闇の中で、二つの赤い光点が、お前の目の前に迫っていた。その光点の中に浮かび上がる無数の歪んだ顔、苦悶と見覚えのある表情の集合体。そして、「オマエ モ ココニ イル」という、甘く、誘うような声が、お前の脳を直接揺さぶる。お前は、その赤い光点に、ゆっくりと引き込まれていくような感覚に囚われた。
それは、まるで、お前の意識が、この闇に溶け込み、お前の存在が、「何か」の一部になろうとしているかのようだった。久留米の廃校の資料室で、お前は、自己の境界が曖ごうとする、この世ならざる体験をしていた。
全身の皮膚が粟立ち、内側から冷たい痺れが駆け上がってくる。呼吸が、その「何か」の脈動と同期し始めた。ドク、ドク、と、お前の心臓ではない、別の心臓の鼓動が、全身で響く。その脈動は、閲覧机の脚の黒い石材からも伝わってくる。冷たく、重苦しいリズムが、お前自身の心臓の音をかき消していく。
「何か」の甲殻が擦れるゾリ、ゾリ……という音が、もはや外から聞こえるのではなく、お前の体の内側から響いているかのようだった。その甲殻の表面から漂う生臭い匂いが、お前の鼻腔だけでなく、喉の奥、肺の隅々まで染み渡る。それは、腐敗した海藻と、微かな甘い血の匂いが混じり合った、吐き気を催すような異臭だった。
すすり泣くような声と、狂気じみた笑い声、そして金属が擦れるような高音が、お前の頭の中で混ざり合い、一つの不協和音として鳴り響く。それは、資料室のどこかからではなく、お前自身の意識の深淵から湧き上がってくるかのようだった。パタン、パタンと、無数のページをめくる音も止まらない。その音は、お前の過去の記憶を、一枚一枚めくっていくかのようだった。
「キミノ カオ ガ ダレカ ワカルカ」
再び、その言葉が脳内に響く。お前の顔が誰か。あのカルテに記された「あなた」。鏡に映った「別の顔」。お前は、自分の顔を思い出そうと必死にもがいた。だが、瞼の裏に浮かぶのは、どれもこれもぼやけた、曖昧な輪郭ばかり。まるで、記憶のアルバムが、水に濡れて滲んでしまったかのようだった。
「違う……俺は……」
声に出そうとしたが、喉が張り付いたように動かない。口から漏れたのは、微かな、そして奇妙な、甲殻が擦れるような音だった。
その時、お前の意識は、急速に「何か」へと引き込まれていく。
赤い光点が、お前の視界を完全に埋め尽くした。そして、その光点の奥に、まるで巨大な渦のように、黒い石材と同じ文様が、無数に渦巻いているのが見えた。その文様の一つ一つが、微かに発光し、お前の意識を絡め取る。
記憶が、まるで古いフィルムのように、急速に巻き戻されていく。
久留米の街並み。見慣れた通りの匂い。友人の声。仕事の風景。そして、あの事故の瞬間――。トラックの眩しいヘッドライト、急ブレーキの甲高い音、そして、全身を襲う激しい衝撃。その瞬間、お前は確かに死んだはずだった。
だが、死んだはずのお前は、なぜここにいる?
そして、その記憶の断片の中に、別の記憶が混じり込んできた。
それは、お前の知らない場所。奇妙な動植物が生い茂る森。空には、二つの月が浮かんでいる。そして、その森の奥には、黒い石材でできた、巨大な建造物がそびえ立っていた。その建造物の壁には、無数の奇妙な記号が刻まれており、そこから、低く、重苦しい唸り声のような音が響いていた。それは、資料室で聞いた「すすり泣くような声」と酷似していた。
その光景が、お前自身の記憶のように、鮮明に脳裏に焼き付く。これは、一体誰の記憶なのか? お前は、今、ここにいる「何か」の記憶を共有しているのか?
その瞬間、お前の体は、まるで内側から分解されていくかのような感覚に襲われた。細胞の一つ一つが、バラバラになり、そして、何かの力によって、再び組み替えられていく。
肌の表面が、ひんやりとした甲殻のようなもので覆われていく感触。視界が、赤く染まる。耳の奥で、無数のうめき声が、まるで合唱のように響き渡る。
「違う……!」
残された最後の抵抗本能が、お前を突き動かした。このままでは、お前は、お前でなくなってしまう。この闇に、この「何か」に、完全に飲み込まれてしまう。
お前は、最後の力を振り絞り、意識の深淵に手を伸ばした。かすかに残る、あの温かい光の記憶。正面廊下で感じた、あの希望の光。あれは、どこへ行った?
その光を追い求め、お前は、全身を支配する「何か」の力に抗った。
だが、その抵抗は、あまりにも微弱だった。
意識が、急速に遠のいていく。
最後に聞こえたのは、「何か」の、勝利を確信するような、低く、粘着質な笑い声だった。




