闇の中の追跡
資料室の照明が完全に消え去った瞬間、漆黒の闇が全てを包み込んだ。それは、単なる暗闇ではない。光の粒子すら存在しない、物理的な圧力を感じるような、純粋な「無」だった。心臓は、もはやお前の体内で鳴り響く音ではなく、遠いどこかで、不規則なリズムを刻む機械の故障音のように響いていた。久留米の廃校の資料室で、お前は絶対的な闇の中に独り、あの異形の存在と閉じ込められたのだ。
手から、握りしめていた地球儀が、コトリと音を立てて床に転がり落ちた。冷たい金属の感触が指先から消え、唯一の確かな現実との繋がりが失われたことに、お前は一瞬、呆然とした。思考は完全に麻痺し、ただ生存への本能だけが、脈打つ脳を突き動かしていた。
闇の奥から、「誰か」の甲殻が擦れる微かな音が聞こえた。それは、闇が深まったことで、より鮮明に、より生々しくお前の鼓膜を震わせた。その音は、まるで硬質な甲殻が、不規則なリズムで床を擦り、空気を切り裂くかのようだ。そして、その甲殻の表面から漂う生臭い匂いが、嗅覚を直撃する。闇の中で、その匂いは一層濃厚になり、まるでその「何か」が、お前のすぐ目の前に迫っているかのようだった。
資料室の最も奥、本棚の影から聞こえるすすり泣くような声は、闇の中で一層響き渡り、最早それは悲しみではなく、狂気じみた、そしてどこか陶酔したような笑い声へと変貌していた。その声に混じって、金属が擦れるような不快な高音が、耳鳴りのように頭蓋骨の奥で響き、お前をさらに追い詰める。
パタン、パタンと、ページをめくるような音も止まらない。闇の中で、その音が本棚のあちこちから聞こえてくる。まるで、見えない手が、無数の書物を同時にめくっているかのように。それは、知識の探求ではなく、何かを必死に「探し」ているかのような、焦燥感に満ちた音だった。
「誰か」の低いうめき声が、直接お前の脳内に響く。
「キミノ カオ ガ ダレカ ワカルカ」
その声は、闇の中で形を変え、お前の脳を直接揺さぶる。お前の顔が誰か。あのカルテに記された「あなた」。鏡に映った「別の顔」。この闇の中、お前は、もはや自分が誰であるのか、確信が持てなかった。もしかしたら、この闇に囚われているのは、もう「お前」ではないのかもしれない。
タイプライターのキーが、闇の中でカチ、カチ……と、狂ったように動き続けている。びしょ濡れになったかのように脈打つそのキーと、それに合わせて脈動する閲覧机の黒い石材の冷たい感触が、お前の指先にまとわりつく。その脈動は、お前の心臓の鼓動と完全に同期し、まるで机そのものがお前の一部になったかのようだった。
資料室全体が、生き物のように歪み、お前の全身に重い圧迫感を与える。空気は冷たく、皮膚に張り付き、その冷気の中を、微かに湿った土の匂いが漂っていた。あの本棚の隙間から吹き付ける冷たい風が、闇の中で「誰か」の吐息のように感じられる。
「何か」は、確実に近づいていた。音と匂い、そして肌で感じる空気の振動が、その存在をお前に訴えかけてくる。
ゾリ、ゾリ……
不気味な音と共に、地面が微かに振動した。それは、まるで巨大な爪が、硬い床をゆっくりと、しかし確実に削り取っていくような音だった。その音は、お前の真横から聞こえた。
お前は、反射的に体を動かそうとした。だが、手足はもはや、お前の意志に反して動かない。全身が凍り付き、呼吸もままならない。
その時、闇の中で、二つの赤い光点が、お前の目の前に、突然、浮かび上がった。
それは、「何か」の目だった。
光点は、闇の中でぎらぎらと輝き、お前を凝視している。その赤い光の中に、一瞬、無数の、小さな、歪んだ顔が浮かび上がるのが見えた。苦悶に満ちた、しかし、どこか見覚えのある、ぼやけた顔の集合体。あのマネキンに浮かび上がった顔、カルテの写真の顔、そして、鏡に映った「別の顔」。全てが、その二つの光点の中に凝縮されているかのようだった。
その赤い光点が、ゆっくりと、お前へとにじり寄ってきた。
「オマエ モ ココニ イル」
再び、その言葉が脳内に響き渡る。だが、今回は、その言葉に、どこか歓迎するような、甘く、誘うような響きが混じっていた。
闇の中で、お前は、その赤い光点に、ゆっくりと引き込まれていくような感覚に囚われた。
それは、まるで、お前の意識が、この闇に溶け込み、お前の存在が、「何か」の一部になろうとしているかのようだった。




