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追跡

 闇の中から、ぬらりと這い出るように現れた「何か」。その姿は、人のようでありながら、全身が黒い甲殻のようなもので覆われていた。節々は不自然に長く、細く、その指先は鋭い爪のようだった。顔らしき部分も黒い甲殻に覆われ、ただ二つの赤い光点が、お前の目を見つめている。その光点から、低いうめき声が直接お前の脳内に響く。そして、その全身から、生臭い匂いが直接お前の鼻腔に流れ込んできた。まるで、深い海の底から引き上げられた、腐敗寸前の何かのようだった。

「ミツケタ」――スマホの白い文字が、お前の網膜に焼き付いたまま消えない。資料室のドアは閉まり、お前は完全に閉じ込められた。心臓はもはや鼓動すらまともに打たず、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。久留米の廃校の資料室で、お前は異形の存在と対峙していた。

「何か」は、ゆっくりと、しかし確実に、お前の方へと歩みを進めた。その足音は、存在しないはずの床板をギィ、ギィと軋ませる。その甲殻が擦れる音が、闇の中で不気味に響き渡る。その動きは滑らかでありながら、どこか不自然に震えているようにも見え、その度に、甲殻の表面から微かに黒い微粒子が舞い上がる。

 お前は、恐怖で身動きが取れない。思考は麻痺し、ただ目の前の「何か」から逃れたいという、かすかな脱出への本能だけが、全身を駆け巡る。しかし、体は鉛のように重く、足は地面に縫い付けられたかのようだ。

 資料室の奥、天井まで届くような本棚の影から、すすり泣くような声が、まるで壁の向こうから直接響いてくるかのように、一層はっきりと、お前の耳に届いていた。それは、トイレで聞いた声と同じだ。だが、今回は、その声に、かすかな金属が擦れるような、不快な高音が混じり合っている。まるで、何かが、硬いもので壁を引っ掻き、血を流しているかのように。

 そして、その声に混じって、パタン、パタンと、ページをめくるような音が、さらに高速で、そしてせわしなく聞こえ始めた。まるで、必死に何かを探しているかのように、あるいは、何かから逃れようとしているかのように、その音は闇の中で踊り狂っていた。

 タイプライターのキーが、まるで意思を持っているかのように、ひとりでに動き続ける。カチ、カチ……と、不規則な音が響き、紙の上には、新たな文字が打ち出されていく。

「ノゾイタカラダ」

 そして、その下には、さらに文字が続く。

「キミノ カオ ガ ダレカ ワカルカ」

 その文字を見た瞬間、お前は全身に電流が走ったような衝撃を受けた。カルテに記された「あなた」の症状。鏡に映った「別の顔」。そして、今、タイプライターが問う「キミノ カオ ガ ダレカ ワカルカ(お前の顔が誰か分かるか)」。まるで、この「何か」が、お前の正体を、そしてお前の内面の葛藤を、全て見透かしているかのようだった。

 タイプライターのキーは、びしょ濡れになったかのように不自然に光り、そして脈打つ。その脈動は、まるで生き物の心臓の鼓動のように、お前の神経を逆撫でする。そして、その脈動に合わせて、閲覧机の脚の黒い石材も、脈打ち始めた。その冷たい感触が、お前の指先に直接伝わってくる。それは、お前の心臓の鼓動よりも、わずかに遅く、重苦しいリズムを刻んでいた。

 資料室全体が、まるで大きく息を吐き出すかのように、空気が一層重くなった。壁も床も、天井までもが、生き物のように歪み、お前の視界を揺らす。棚の古書が、微かにバタバタと音を立てて震え始める。

 その揺れる視界の中で、「何か」は、さらに一歩、お前へと近づいた。その赤い光点が、闇の中でぎらぎらと輝き、お前の視界を支配する。

 その時、お前は、無意識のうちに、閲覧机の横に置かれた、埃を被った地球儀に手を伸ばした。冷たい金属製の軸と、ざらざらとした表面の感触。それは、この異様な空間の中で、唯一、現実との繋がりを感じさせる確かな物質だった。

「何か」は、お前の動きをじっと見つめている。その赤い光点が、微かに揺らめく。

 そして、その瞬間、資料室の照明が、突然、パチリ、と点滅した。

 それは、蛍光灯が切れかかっているような、不規則な点滅だった。闇と光が交互に訪れる中、「何か」の姿が、一瞬、はっきりと、しかしすぐに闇に溶け込む。その明滅の合間、お前は見た。

「何か」の黒い甲殻の表面に、かすかに人間の顔のようなものが浮かび上がっているのを。それは、苦悶に満ちた、しかし、どこか見覚えのある、ぼやけた顔だった。あの保健室のカルテの写真に写っていた、判別できない顔。そして、鏡に映った、「別の顔」にも酷似していた。

 パチ、パチ、パチ、パチ……!

 照明の点滅が加速する。闇が訪れる度に、「何か」の顔が、より鮮明に浮かび上がる。まるで、闇がその正体を暴き出そうとしているかのようだ。

 お前は、地球儀を握りしめ、必死に後ずさった。思考は混乱し、心臓は破裂しそうだった。

 その時、タイプライターが、最後の文字を打ち出した。

「オマエ モ ココニ イル」

 その言葉が響き渡ると同時に、資料室の照明は、完全に消え去った。

 漆黒の闇が、全てを包み込む。



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