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正面廊下

正面廊下は、外界の光が届かない闇に包まれていて、一歩足を踏み入れた途端、ひんやりとした空気が全身を包み込んだ。それは、単なる室温の低さだけではない。何かが、ずっと昔からそこに澱んでいるような、重苦しい気配。湿気を帯びた古紙の匂いと、微かに鼻を掠めるカビの匂いが混じり合い、まるで過去の時間がそのまま凝固したかのようだ。

足元を確かめるように、慎重に一歩を踏み出す。ギィ……と、腐りかけた床板が情けない音を立てた。その音は、まるでこの校舎が悲鳴を上げているかのようで、お前の鼓動を不気味なほど大きく響かせた。

廊下の両側には、等間隔に教室の扉が並んでいる。どれもこれも、同じように古びていて、闇に溶け込んでいる。視覚が頼りにならない分、他の感覚が研ぎ澄まされていくのが分かった。耳の奥で、自分の荒い呼吸と、心臓のドクン、ドクンという音がやけに大きく響く。

壁には、色褪せた掲示物が辛うじて張り付いている。運動会のスローガンだろうか、「汗と涙の青春!」と書かれた紙は、端が破れ、文字も判読しづらい。その横には、生徒たちの書いたらしき絵が何枚か貼られているが、どれも輪郭がぼやけて、まるで幽霊のように朧げだ。

と、その時、ふと違和感を覚えた。

今、お前が目にした「汗と涙の青春!」の掲示物。たしか、入り口の扉を開けた瞬間は、もっと違う内容だったはずだ。いや、気のせいか? 闇の中で目が慣れていないせいだろうか。しかし、その疑念は、一度生まれたら消えてくれない。まるで、心臓に細い棘が刺さったかのように、じわりと不快な感覚が広がる。

さらに奥へと進むと、床に薄っすらと積もった埃の中に、いくつかの靴跡を見つけた。それは、お前が今履いているスニーカーの跡とは明らかに違う。サイズも、形も。まるで、誰かがこの廊下を、お前の少し前に歩いていったかのような……。

ドクン、ドクン。心臓がさらに強く鳴り始めた。

廊下の奥から、微かに、本当に微かに、風の音が聞こえてくるような気がした。しかし、窓は全て閉じられている。どこから風が? と、同時に、ひやりとした冷気が足元を這い上がってきた。まるで、冷たい水の中に足を踏み入れたかのような感触。思わず足元を見るが、そこにあるのは埃を被った古い床板だけだ。

お前は、一歩ずつ、慎重に前へと進んだ。足音を立てないように、呼吸すらも殺して。しかし、その努力も虚しく、お前の足元からは、ギィ、ギィ、と床板の軋む音がし続ける。そして、その音に、もう一つの、僅かな擦れるような音が混じっていることに気づいた。まるで、誰かが、お前と同じように、足を引きずるように歩いているような……。

それは、まるで、お前自身の足音が反響しているだけだと、自分に言い聞かせた。しかし、その音は、お前の歩くリズムとは、ほんの少しだけズレている。遅れて聞こえる。いや、たまに、先に聞こえるような気もする。

頭の中に、もう一人の自分が囁いている。「おかしいだろ、これ。早く帰れよ」と。だが、一度足を踏み入れたら、引き返せないような、そんな強迫観念に囚われている。

視線を正面に戻すと、またしても掲示物が変わっていた。今度は、手書きの「本日は休校です」という文字。さっきの「汗と涙の青春!」の横に、いつの間にか貼られている。だが、そんな紙、さっきはなかったはずだ。心臓が、まるでマラソンでもしているかのように激しく打ち鳴らされる。

額には、嫌な汗がじっとりとにじんでいた。喉の奥がカラカラに乾き、唾を飲み込むのすら困難だ。この空気の異変。単に古いだけでなく、何かが**“澱んでいる”**ような感覚が、どんどん強くなっていく。まるで、この廊下全体が、深い水底にあるかのように、呼吸がしづらい。

ふと、廊下の突き当りにある、古い木製の扉に目が留まった。その扉は、他の教室の扉よりも一回り大きく、そして、なぜか、微かに開いているように見えた。闇の中に、わずかな隙間がある。そこから、吸い寄せられるような、奇妙な感覚が湧き上がってきた。

行くな、という理性の声と、見なければ、という好奇の衝動が、お前の内で激しくぶつかり合う。だが、お前の足は、いつの間にか、その扉へと向かって動き出していた。一歩、また一歩。床板の軋む音と、もう一つの不気味な擦れる音が、お前の背後から迫ってくる。

そして、その扉の隙間から、ごく微かに、かすかなピアノの音が聞こえた気がした。単音で、ポツン、と。

幻聴か? しかし、その音は、お前の耳に確かに届いた。

お前は、その扉の前に立ち止まった。扉の隙間からは、一切の光が漏れていない。ただ、漆黒の闇が広がるばかりだ。しかし、その闇の奥から、確かに何かがお前を呼んでいるような気がした。

ゆっくりと、震える指先で、その冷たい木製の扉に触れる。ギィイイイ……と、扉がわずかに開いた。その瞬間、ひんやりとした空気が、さっきまでよりもさらに強く、お前の顔を撫でた。

そして、その扉の向こうから、今度ははっきりと、もう一度、ピアノの音が聞こえてきた。

それは、まるで、お前を誘っているかのように。



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