第9話
葬式にも行った。
受付で香典を納め記帳をしはじめると、受付が私を見た。
受付は席を立ち、誰かを呼びに行った。
すぐに故人の奥さんが私の前に現れた。
「お引き取りください」
静かな怒り。
ああ、そうか。私はしくじったんだ。会社の名を伏せて芳名には自分の名だけを書いたんだが、私の苗字は珍しい。おそらく彼は奥さんに私との面談のことを話し、彼女はその相手の名を覚えていたのだろうね。
「夫は、会社に殺されたんです。こんなもの!」
激しい怒り。
彼女は私に香典を投げ返したんだ。
「主人は…汚れてなんかいません!」
涙でぐしゃぐしゃの顔を、私は正視できなかった。
「それが原因で、古謝さんまで会社を辞めたんですか?」
「グサリときたんだ。汚れてない、って言葉が。彼を追い込んだ私は汚れていないのか?ボールペンを家に持ち帰ったことは一度もなかったか?同僚や部下に不快感を与えたこと?自覚がないだけで、きっとあったはずだ。私だって営業経験はある。ノルマのために経費を使ったことはあった。ただ私はうまく処理し、彼は少しだけ要領が悪かった…私にひとの汚れを指摘する資格などない、そう思って私自身が早期退職を申し込んだんだ」
「…」
「退職の日見上げたビルの壁に、窓拭きのゴンドラがぶら下がっていてね。はっと気づいた」
「…」
「汚れを見つけたのなら、拭けばいいだけじゃないか、ってね」
明日花のマンションを出てから駿はネットカフェ住まいに戻っていた。
だがずっと悶々とする日々。
LINE着信音が鳴る。差出人は彼女。
〈スルーしないで。最後だから〉という見出しが出ている。
駿は大きく深呼吸をしてからタップする。
〈脅迫みたいな書き出しでゴメンね。でもどうしても中島駿に知って欲しかったことがあります。まず私が住んでいたマンションですが、あれは月契約のマンスリーマンションです…〉
駿がトーク文を読んでいる頃、明日花は片付いたマンションを出るところだった。
衣服をスーツケースに詰め込む。
〈実は私の実家は九州の超がつくようなド田舎で私は五人兄妹の末っ子。いわゆる大家族ってやつで、子供の頃から自分の部屋なんて持ったことがないの〉
蓋が締まらず、段ボール箱に詰め直し始める。
〈大学に行けるような頭もなく高校を卒業してブラブラしてたら、よけいに自分の居場所がなくなっちゃった。ささやかな夢は、都会で一人暮らしをすることだった。ひと月でいい。渋谷だの銀座だのでウィンドショッピングして食べ歩きして、部屋で東京の夜景を見ながら眠りにつく…そんなささやかな夢〉
福岡行きが表示された長距離バスの停留所。
〈気がついたら、家を飛び出してあのマンションに住んでいた…小さい頃から貯めてたお年玉貯金を、全部吐き出してね。草〉
寒空の中でバスを待っている明日花。
〈でもひと月お姫様気分を味わってしまったら、今度はもうひと月だけ暮らしてみよう、いや半年って…オロカな私。ピエン〉
夜行バスの中は静かだ。
車窓を流れる都会のネオンを見続ける。
〈あそこの家賃は月一八万もするの。当然私がそれを支払うためには、それなりの仕事をしなければなりません。キャバクラです〉
東京の夜景に、そっと手を振る。
キャバクラで働いていた頃を思い出す。
客の膝に脚をからめる先輩キャバ嬢。
俯いて座っている、まだ髪を染めていない自分。
バーテンの光臣が氷を替えに来る。
〈そのときバーテンのバイトをしていたのが、あのストーカー野郎です〉
光臣が「ガンバレ」と書いたコースターを明日花のグラスの下に敷く。
明日花が顔を上げると彼の微笑があり、孤独な心に沁みた。そう。あのときは…。
〈寂しかった…怖かった…つらかった…だからあんな奴とも…ゴメン、つまんない話だね〉
〈ただね、開き直るわけじゃないけど…それの何がいけないの?ちっぽけな夢を見ることはそんなに悪いことなの?学歴も金もコネもない女は、田舎でおとなしくしてればいい?〉
〈教えて。私は汚れてるの?〉
個室の中で、駿はスマホを握り締める。
〈最後に、今までありがとね。さよなら、駿…名前で呼んじゃった。すまぬ〉