第8話
それから明日花は、しばらくバイトを休み、駿は古謝と組むことが多くなった。
清掃作業中のゴンドラの中で、古謝が黙々と働く駿の様子を窺う。
「駿君。今夜、飲みに行かない?」
「…ええと」
「きみは、コーヒーでいいから」
気を使ってのファミレス。古謝は生ビール。駿はコーヒー。
「そう。そんなことがあったんだ」
「彼女の過去は汚れてる…そう思ったら急に関わりたくなくなって…最低ですよね、自分こそ、欠点だらけの人間なのに…」
「生きてりゃ、誰だって汚れるからね」
「…」
「明日花ちゃん田舎に帰るからって、きのう菓子折り持って事務所に挨拶に来てくれたよ。今時は、メール一本で辞めちゃう子ばかりなのにね」
「田舎…そうですか」
ふたりは黙ってしまった。
「ちょっと長い話になるんだけど、聞いてもらえるかな?」
「あ、はい」
「私ね、人を殺したことがあるんだ」
「!」
「といっても、直接ではないけどね」
「…」
「私はあるメーカーの人事部長だったんだ。数年前のリーマンショックで急激に円高が進行し、業績が悪化したその会社はリストラを余儀なくされた。私は、その候補者をセレクトする責任者になったんだ」
「首を切る、責任者?」
古謝ははにかむように頷いた。
八年前の話。某メーカーの人事部に勤めていた私は、近藤と言う営業部の係長と面談をした。
「承服できません。どうして俺が、リストラなんですか?」
彼の唇は怒りに震えていた。
彼は日々の成績は悪くはなかった。だが直属の上司である営業部長は「人間性に問題あり」という評価を下していたんだ。
「俺が、部長に疎まれているから?」
「そんな個人的な理由ではありません」
「じゃあ、何スか?」
私はリストラの理由を言うべきか迷った。だが、彼の今後の人生の足しになればと思ったんだ。
「わかりました。では率直に具体的にお伝えします。近藤さん。あなたの言動に対して、クレームが何件も寄せられています」
人事部は社内から集めた報告をもとに人事考課を作成する。部外秘だが、その一部を彼に読んで聞かせた。
「まずセクハラ的言動。あなたは女子事務員をちゃん付けで呼んだり、私生活の話題を根掘り葉掘り聞いてくる」
「それは、仕事を円滑にするための…」
「新人に対してアルコールの場を強制、説教や自慢話を繰り返す」
「し、指導です」
「こういう報告もあります。あなたが経理部に請求する接待費には、使途不明なものが多い。またあなたは、会社の所有物である事務用品を持ち帰り私物化している。ノートパソコンにいたっては、一年以上あなたのデスクから消えているそうですね」
彼の肩がわなわなと震えた。
「そんなの、俺以外にもやってる連中いくらでもいるだろうが!」
逆ギレして、テーブルを叩く。
「それで、ちゃんと成績上げてんだよ!それが俺のやり方なんだ。部長だって、営業マンは自分のやり方を確立しろって言ってたくせに!」
私は、彼を冷静に観察した。
「気が済みましたか?」
彼が落ち着くのを待って、私は封筒を狩れの前に差し出した。
「とにかくこの中の『早期退職のしおり』を熟読なさって、あなたなりの結論を出してください」
彼は悔しそうに私を見たが、諦めて封筒を受け取って退出した。
バーンとドアが乱暴に締められた。その音が彼の心の音だった。
「私は余計なことをしてしまったんだ」
「なぜですか?ぼくも知っておいた方が本人のためだと思うけど」
「その人は本当は気の小さい人間で、全ての言動はその裏返しだったんだ。人事マンは心理学や人間行動学を勉強するし、そんな人間何人も見てきたはずなのに…私は彼を追い込んでしまった」
「…」
「彼はうつ病になって、半年後に自殺してしまったんだよ」
駿が目を伏せる。今度は、その近藤の気持ちに共鳴する。自分だってあり得たかもしれない、と。
「彼が選んだ死に場所は、彼を捨てた会社の自社ビルだった」
翌日近藤が飛び降りた現場には、身内からだろうか花が供えられていた。
私があのとき、理由など説明せずただ『会社のために辞めてくれ』と頭を下げていれば、彼の心は壊れることはなかったのではないか?
そんなことを考えながら、その花に手を合わせたんだ。