第3話
研修が終わり一週間ほどすると、駿と明日花はふたりひと組で作業をするようになった。
いまは30メートルほどのビルの中くらいの階に、ゴンドラがぶら下がっている。
「ねえ、中島」
「…」
「中島駿!」
「え?」
「暇だから話でもしようよ」
「や、でも」
ビルの中のひとびとの視線が気になるようだ。。
「こんな分厚いガラス聞こえやしないわよ」
「…」
「あのさあ、中島駿はなんでこの仕事やろうと思ったわけ?」
「…」
「大学とか出てんでしょ?就職しなかったの?バンドとかやっててデビューまでのツナギとか?」
「や、別に」
「や、別に…何それ。話続かないじゃん。嘘でもいいから夢とか語ってみろよ」
「…夢…人並み」
「はあ?」
「人並みになりたいのが、夢、かも」
今度は明日花の方が黙り込んだ。
(こんな高い所にも埃は舞うんだな)
駿は作業を中断し、自分の眼鏡を拭いた。窓ガラスの汚れを意識したからだが、眼鏡の方はたいして汚れていなかった。横で作業をしていた明日花の手が止まる。
(わ。睫毛長っ。え?意外とイケメンじゃん)
駿が眼鏡をかけ直して作業に戻る。
「ねえ、中島」
「…」
口の中で何か呪文のようなものを唱えている。
(シャンスク、シャンスク)
この男、研修で教わったことを忠実に守っている。
(真面目…いや、キモ)
明日花は心の中で舌打ちした。イケメンが再び仮面を付けてコミュ障に戻ってしまった…蛙化早えよ!
「中島駿!業務連絡」
「え?」
「コジャさんがさ、来週あたしらを焼肉屋さんに連れてってくれるんだって」
「…」
「行くよね?」
三秒待った。
「…他人と食事するの、苦手で」
「そういやあんた、お昼もひとりで車の中で、コンビニ弁当食べてるよね」
「…個食主義なので」
「行こうよ。コジャさんの気遣いなんだから。あの人ギャグは寒いけど、優しいじゃん。がっかりさせちゃダメだよ」
五秒待った。
「…うん」
(世話焼けるわあ)
焼肉店の座敷。古謝と明日花は鉄板を間に向かい合う席だが、駿だけが少し離れた場所に座った。それを見て明日花が眉をひそめた。
(はい。コミュ障決定)
古謝が音頭をとる。
「今夜はふたりの就業一ヶ月を記念して、賑々しく慰労会を行いたいと思います」
「わあい」
明日花は手を叩いて喜ぶが、駿は追従の拍手。
「飲み物は、とりあえず生でいい?」
「あ、私はカシスオレンジ」
「駿くんは?」
「…ぼくは烏龍茶で」
「あ、駿くんは下戸なのか。じゃご飯も頼んでおこうか?」
「いえ、ご飯はちょっと。お腹の調子が」
「…そう。すみません、注文お願いします」
明日花がさらに眉をひそめる。駿はメニューを仕切りに使って、食べているところが見えないようにしているのだ。
「うそでしょ?」
古謝が独り言のように明日花にささやく。
「駿君はきっと、会食恐怖症なんだろうね」
「かいしょ…何それ?」
「社会不安障害の一種で、他人と一緒にご飯が食べられないんだよ。そっとしておいてあげましょう」
「いいの?」
「それも、個性のうちだから」
とりあえず直属の上司は、駿の行為に不快に思ってはいないようなので明日花は少しほっとした。
一時間後。明日花の前には複数のグラスが並べられ、複数人前のロースやカルビが消費された。
駿は相変わらず黙々と野菜中心に食べている。
(肉食オンナと草食男子、の構図にしてんじゃねえよ)
本来なら昭和生まれの上司が「若いんだから、もっと肉食えよ」とか言うはずなのに、古謝はニコニコとふたりの食べっぷりを見守っている。
「うちの仕事、きつい汚い給料安いの3Kだけど、ふたりはホントよくやってくれてるよね」
「ま、3K職場だけど気持ちいいよ。ゴンドラの上から気取ったОLとかが小走りしてるの見るとさ、アリンコがせかせか働いてんなあって、優越感?」
「山の頂上にいるような感じかな?」
「うん。それと風を感じるんだよね。窓ガラスを挟んだ内側と外側でこうも違うんだって。あれだね。私らって、都会のクライマーだね」
「お、明日花ちゃん詩人だねえ」
「う、いやまあ」などと照れていると、心理的遠方から声がした。
「…ぼくも、窓の内側で働いていた」
上司と同僚が興味深げに駿を見る。
「でも、そのときの方が寒かったです」
とあるメーカーの経理部。社員数名がいる中、小此木課長がお茶を飲みながら駿の書いた企画書を眺めている。
「ソフト開発に半年だと?こんなもん 作らすために、会社は給料払ってるわけじゃねえぞ。だいたい今までの会計ソフトの何がマズイってんだ」
「…そこに、書いてあります」
小此木が企画書を机に叩きつける。
「紙じゃなくて、てめえの言葉で説明しろっつってんだよ。いいか、仕事ってのはコミュニケーションなんだよ。人間関係なんだよ。それがわかってないから…」
「…」
「Z世代は使えねえんだよ!」
小此木がカップのお茶を駿の顔にかける。
周りの同僚たちは見て見ぬふりをしていた。
焼肉店の座敷。古謝が駿のグラスに烏龍茶を注ぐ。
「パワハラか。きみも苦労したんだね」
「ぼくが周りを不快にさせたんだから、自業自得と言う人もいました。でも、どっちも嫌な思いするくらいなら、お互い関わらず黙々と仕事だけこなせばいいと思う」
古謝がメニューで囲ってる空間を指して言う。
「ここが駿君の部屋だとすると、今は雨風が激しいからこうやって雨戸を締め切ってるわけだ。でもこれだと安全だけど、日が差したことにも気づかないよ。そこで提案だけど…」
そう言って、囲っているメニューを一枚抜き去る。
「せめて、窓を付けてみたら?」
「…窓?」
「そう。“心の窓”だね。別に、雨がやんでから外に出ればいいんだし…あ!」
古謝が明日花に向き直る。
「私、今いいこと言ってるよね?」
明日花は苦笑するしかない。
「またドヤ顔。それにコジャさん、言うことがいちいちお坊さん臭い」
「お坊さん臭い?」
くんくんと自分の腕を嗅ぐ。
「こりゃただの加齢臭か。わはは」
「だからあ。ギャグの加齢臭がキツいっつーの」
駿は談笑するふたりを眺めている。
(誰にも話してない話を…)
このふたりには話せたことが不思議だった。