第2話
三時間後にはゴンドラは最上階へ到達していた。12階だ。
駿も明日花の作業ぶりもだんだん様になってきた。
「はい!最後の一枚、完了で~す」
「やった~。ああ、しんど」
明日花が疲れきってしゃがみ込む。
「ちょっと、うしろを見てみようか」
教官の言葉に従うと、背後には夕焼けに染まった美しい風景が広がっていた。
しゃがみこんでいた明日花が反射的に立ち上がる。
「うわあ。何これ」
駿も絶句している。
「じゃ今度は、ビルの下」
まるで湖の水面のようなリフレクション。ビル全体に夕日が映りこんでいるのだ。夕日の朱色がが澄んだ蒼色と混じってグラデーションを描いている。
空気の密度が違うからだろうか。高所からの眺めは地上から見るよりも色の濃度が高い気がする。
「すげ!やっばい」
「窓が汚れていたら、こんなに綺麗には映らないよ。つまりこの景色が、きみたちの仕事の成果です」
駿と明日花は無言で反応した。
充実感。非日常。なんなら、全能感さえ感じる。
「これで研修は終了。お疲れ様でした」
屋上まで登っていき、そこで三人はゴンドラを降りた。
「慣れるまでは、無意識に足腰を踏ん張ってしまい筋肉痛になります。今夜はお風呂で、しっかりほぐしましょう」
駿は新しい経験の余韻に浸りながら、教官の言葉を聞いた。
ネットカフェに戻ってからシャワーを浴び、古謝の教えを思い出す。
「…ホントだ」
脚がガクガク震えている。無意識に踏ん張っていたのだ。自分の手を見ると、爪まで汚れている。
(目の前の汚れに向き合う、か)
駿の耳元に、幻聴が滑り込む。
―お前いくら技術職だからって、コミュニケーションぐらいとれよ。
―課長の言う通りだよ。社会人なんだからさ。
―社会不適合者だよな、中島は。
幻聴をかき消すように頭を洗った。
マンションに帰宅した明日花は玄関前で立ちすくむ。ドアノブを握った手の感触が、既に開いていると告げたからだ。
深い溜息と重い後悔。
室内をリビングまで進むと、ソファに津田光臣が寝転んでいる。
「あれ?はええな」
明日花はその言葉を無視して、上着をハンガーにかけた。
「今日、休みだっけか?キャバクラ」
「今日だけじゃないし。ずっとよ」
「ああ?それで、どうやって食っていくんだよ?学もコネもねえ、おまえがよ」
「あんたに関係ないでしょ」
「あるよ」
明日花をうしろから抱きしめる。
「だって、俺おまえのヒモじゃん」
首筋にキスをする。
明日花しばらく身をまかせたが、唇をかんで肘打ちをくらわせた。
光臣はうめいて膝をついた。
「ぐえ。てめ!」
顔を上げると、明日花は壁の警報ボタンに指をかていた。
「このマンション、これ押したらソッコーで警備員来るの、知ってるよね?」
「…」
「出てって!」
「わあった。行くよ」
降参した手振りをしてから、渋々帰り支度を始めた。
「合鍵、置いてって!」
後悔がまた重みを増す。
その頃「東都ビルメンテ」の事務所では、社長の森田が手書きで帳簿の整理をしていた。
古謝が帰ってくると、老眼鏡を拭きながら声をかける。
「ああ、古謝さん。お疲れさま。どうでした?今日の子達、居ついてくれそう?」
「ええ。自分が担当したふたりはいい子だし、やってくれると思いますよ」
事務員の伊藤さんがふたりの前に麦茶を出す。
「そう。なら、シフトに組み込んでも大丈夫だね。伊藤さん。この古謝さんはね、目利きなんだよ」
「目利き、ですか?」
「数年前ね。やる気満々だった若者が応募してきたの。でも研修終わったあと、古謝さんが『彼は危ないから入れない方がいい』って進言してね」
「なにか、欠点でもあったんですか?」
ちょっともったいをつけてから、森田がささやいた。
「…自殺願望」
「まあ!」
「この業界狭いでしょ。うちで不採用になったあと、他社に入ったと思ったら…」
飛び降り、のジェスチャー。
伊藤さんが手を口で抑える。思惑通りのリアクションに満足したように、社長がウンウンとうなずいた
「研修の時、彼は怖がるどころか地上三〇メートルを楽しんでましたからね。こういう職業は、臆病な人間じゃないと」
「ひとを見る目…これが一番難しいんだけど、さすが、古謝さんはプロだよね」
「え?古謝さん、何のプロなんですか?」
「ああ。もともとは大手メーカーの人事部にいらっしゃったんだから。でもその古謝さんの才能を見抜いた私も、なかなかの経営者でしょ?」
ふたりが雑談するのをよそに、古謝は窓の外を見やる。
(目利きなんて‥とんでもない)
険しい顔で都会の淡い夜景を睨んだ。重い後悔がのしかかる。