第11話(最終話)
意を決して、見てみる。
〈生きてれば誰だって汚れる〉
すぐにまた、新たなメッセージ。
〈汚れたら拭けばいいだけだbyコジャさん←ドヤ顔〉
くすりと笑う。
〈こんなふうに〉
写真データ。
高層ビルの全景。
黄砂にまみれているが、ビルの窓が部分的に拭かれている。みっつの文字が見える。
「ア」
「ス」
「カ」
ビルの窓を切り取るようにして、“アスカ”という巨大な文字が浮かび上がっている。
絶句。
思い出す。あのリビングで彼とゲームをしたときのことを。
確か私はこう言ったはずだ。
「近づけないなら、名前を呼んで。心の距離を近づけよう」
覚えていて、くれた。
(うそ!な、何やってんのよ。バッカじゃないの)
毒づきながらも目は写真に釘付けだ。新着メッセージが次々と入ってくる。
〈きみは、ぼくの扉を開けてくれた〉
〈だから今度はぼくが、きみの心の窓を拭きましょう〉
〈なんてね(笑)〉
肩が震える。涙がこぼれる。止まらない。止めようとも思わない。
もう車内には、顔を伏せ嗚咽する明日花しかいなかった。
運転手の声がする。
「お客さん。終点ですよ」
「う、運転手さん。このバス、東京に戻りますかあ?」
「はあ?お客さんねえ、これは巡回バスじゃ…」
振り返ると、スマホを握りしめて号泣する愛らしい女の子がいた。
自然の力は人間の手には負えない。
すさまじい黄砂がビルを叩きつけている。
結局駿のメッセージは三十分ももたずに、跡形もなく消えていった。
ビルの下では、駿と古謝が缶コーヒーを飲みながら、“アスカ”の文字が消えていくのを見ている。
自己満足。二度手間。徒労。
だが、それでいい。それがしたかった。
作業着はもちろん、下着も、顔も、眼鏡も、手の爪の中も、全身が汚れ切っている。
古謝が嘆くでもなく、どこか楽しそうにつぶやく。
「また、汚れちゃったねえ」
覚悟はできている。
「…拭きますよ、何度でも」
夕日が黄砂に照り返し、黄金色に輝いていた。
その晩、駿はネットカフェに戻り、調べ物をした。
扉がノックされる。
(ああ。レンタル料の催促…)
しかし駿がドアを開けると、そこにいたのはスーツケースを提げた明日花だった。
ふたりの間に微妙な空気が流れる。
「あのさあ、明日から私もバイト行くから。大変なんでしょ、黄砂」
「…住むとこはどうするの?」
「ここ。たまたま隣が空いてたし。身の丈っていうの?私には、これぐらいが似合ってるかなあって…」
「感心しないね。女の子がこんなとこ」
「…」
「今夜はしょうがないけど、もう少しだけ夢のある場所を…ふたりで探さない?」
そう言って、PCの不動産サイトを指差す。
「中…入っていいの?」
彼が微笑む。
だが、距離感。明日花はまだ躊躇していた。
「遠慮しないで。それに、ずっと気づかなくてゴメン」
彼がうつむく。言葉を待つ。
「もう、とっくにきみは…ぼくの部屋の中に入っていたのにね」
待っていた言葉。
「…うん!」
それから彼女は、駿の横にぴったり寄り添って座った。
彼の肩にちょこんと頭を載せて。
新居にふたりで住み始めて一週間ほどが経っていた。
今日も、昼間はゴンドラに乗って共同作業中だ。
「ね、駿。晩ご飯何にしようか?」
「んーと、炊き込みご飯と筑前煮?」
明日花が手を止めてじっと駿を見る。
「え。なに?」
モップを置いてガッツポーズ。
(うし!胃袋はつかんだ)
さらに目を輝かせて、駿のそばににじり寄る。
「ねえ。そろそろ私に、キュンきてる?」
「は?」
「や。だから吊り橋効果だよ。男女が危険な場所にいると、自然と恋愛感情が沸くっていう…」
「ああ…どうかなあ」
構わず作業を続ける。
「ええ?じゃ、ムラムラは?」
「ない」
「ううっ…ケチ!ふええん」
泣きマネする明日花を、窓の内側からサラリーマン達がチラチラ見ている。
駿が溜息をついて、仕方なさそうに作業を中断する。
「えっと。一緒にご飯は食べるから…今は仕事しよっか」
明日花の頭をポンポンと叩く。
「あ、す、か」
泣き止んだ明日花がぱあっと輝いた顔を上げる。
「もう一回やって」
「仕事!」
ふたりの眼下には、雑然とした都会の風景がある。
でもビルの窓には、澄み切った青空が映り込んでいた。
(終)