第10話
スマホを置いて、寝床にうつ伏す。
電話が鳴り、慌ててとる。
だがそれは音声通話であり、発信者は古謝だった。
「あ、中島です」
―ああ、駿君。明日休みのはずだったんだけど、緊急事態が発生してね。なんとかお願いできないかなあ。
「緊急事態?」
―黄砂だよ。黄色い砂。
そのビルは二十階建ての高層ビル。オールガラス張りだった。しかしいまはビル全体が、黄砂に覆われて煤んでいる。
一部上場の商社の持ちビルで、連休明けには海外から大事な商談相手が来るらしい。大商いを前にこのような外観を相手にさらすわけにはいかない。何が何でも今日中にピカピカにしてほしい、という依頼だった。
気が遠くなる思いで、古謝と駿はビルを見上げた。
「これを、ぼくらだけで?」
「連休で、みんないなかった。だがそれほど高いビルでもないし、二手に分かれて作業すればできないこともないだろ?」
そうだ。自分もだいぶ手馴れてきている。それにベテランの古謝さんも一緒だ。
それに、この状況はあるいはおあつらえ向きかもしれない。
「じゃあ、自分にこっちの面を任せていただけますか?」
躊躇のない表情と目の輝き。何かやる気だな?古謝はにっこり笑って頷く。
「やりましょう!」
ひとりでゴンドラに乗る。本来はご法度だが、事情が特殊だ。
駿は時折タブレットで、何かを確認する。
タブレットには、図形化されたビルの窓の見取り図が映っている。
窓ガラスは200.A列からJ列までの10列×20段だ。
(まずC列の3段から8段まで」
駿は一列を横に拭いていく。
(次はD列の7、E列の6…)
続いて斜めに拭いていく。
無線から古謝の連絡が入る。
―駿君。始めたとこ悪いんだが、いったん中断しよう。最新の天気予報によると、どうやら今日も黄砂が降りそうなんだ。それだと、二度手間になるから。
手を止めて無線機をとる。
「あの。無駄になってもいいです。とにかく、やれるとこまでやらせてください!」
古謝に止める理由はなかった。
その頃、明日花は夜行バスの中で目を覚ました。大坂駅前に到着していた。
スマホでLINEをチェックするが、返信はなし。
「既読スルー…ま、そうだよね」
駿の作業は続いている。
地上からじっと見ている古謝から笑みがこぼれる。
(なるほど。若いって、いいねえ)
2時間後。高速バスの車窓には広島の風景が広がっていた。
ゴンドラはもう三階まで降りている。
窓拭きが続く。モップを持つ手はもう痺れてきている。
だが、シャンスクシャンスク。がんばれ。
LINEの文面を思い出す。
〈ちっぽけな夢を見ることは、そんなに悪い事なの?〉
悪いはずがない。シャンスクシャンスク。
〈私は汚れているの?〉
決めつけだった。
他人が汚れているように見えるのは、自分の窓が曇っているからじゃないのか?
上京したての彼女があのチャラ男と付き合ったこともそうだ。
ぼくは孤独を知っている。あれは辛い。
シャンスクシャンスク。
だったら誰かに寄り添いたいと思って何が悪い。
自分は、寄り添ってきた彼女を突き放したじゃないか。
シャンスクシャンスク、シャンスク…。
ビルの上方を眺めながら、古謝が無線機をとる。
「駿君。上の方は、そろそろヤバイぞ」
ゴンドラの中には砂と汗まみれになっている駿がいる。
無線機から発破とも激励ともとれる声。
―急げ!
「はい!」
スクイジーが分厚く積もった黄砂を拭き取る。
さらに三時間が経ち、高速バスは博多駅前に到着した。車内アナウンス。
「長らくのご乗車、お疲れ様でした。JR博多駅前…終点です」
バスから次々と乗客が降りていく。
(私の夢もここが終点、か)
明日花が立ち上がりかけた時、LINE着信音が鳴った。
『中島駿』から。