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その九 『石切彦十郎宗時』

 その九


 『石切彦十郎宗時』


 半弟である伊福部福四郎を、閑職ながらも国主の覚えのいい職務に宛がったのは、石切彦十郎いわきり・ひこじゅうろうその人である。自身は蔵座の顕職に就いている。官位こそ高くはないが、権勢は国主の次位。どうしてそれほどまでに蔵座国主の信を得、重用されるまでに至ったのか。それは偏に、石切が頼益の嗜好を考えて行動している事実、それを頼益が認識しているということなのではないだろうか。

「…否」

 その判断は希望が勝ち過ぎていまいか。

「うむ…」

 確かに重用はされていた。しかしこの頃主君頼益は、我が反対を押し切って登用した大兵の士を常に近侍させている。生まれも育ちも定かでなく、言葉遣いも覚束ぬ木偶の坊である、あの男をだ。

 その名すら俄かに思い出せない。つまりは石切は、自ら木偶の坊と評して憚らないその士官に対して、浅からぬ嫉妬の念を抱いていた。

 生まれも育ちも定かならぬ。

 石切にとって血とは、一種の対人判断基準である。特に自分が側近を選ぶ際などには欠かせぬものであろうと思っていた。良血なれば才能豊かであると、そのような愚論を有しているわけではない。

 良い血脈、家柄とはそれを根幹とする個人の足枷であると認識している。その足枷が大きく重いものであればあるほど、否も応もなく、安定はするだろうと。

 安定即ち不動。

 石切にとって信の置ける人間とは不動の者である。その資質あらば本性が善か悪かはあまり関係ない。


 乾いた手のひらでぺたり、と頬を撫でた。

 水気に乏しいが張りのある肌をしている。生来あまり屋外を好まなかったせいかしみもなく、皺も少ない。ただ頭髪だけは実年齢以上に白かった。

 国内最高峰の重職にあり、且つ見栄えも悪くないのであるから、石切という男は大層婦女子に人気があった。

 ちなみに今も、商売女でこそあるが裸女を抱いている。 女の艶やかな黒髪に雑に手櫛を通しながら天井の木目を眺めていた。


 名をくだ、とかいったか。


 どうにも石切という男は他人の名前を覚えるのが苦手であった。おのれの職務に関わりのない者であるとそれは一層顕著である。


 兎も角、

 堕府が動くという。

 実質的に蔵座を取り仕切っている身である石切の耳には実に様々な情報が齎される。しかしその情報のすべてを自分の位置で止め、決して主君に言上することはない。国政に頭を悩ませるのは頼益の仕事ではないと思っているからだ。頼益はただ只管に三光坊家の現当主でありさえすればいい。頼益が安定していること、それが蔵座の国益に繋がるのだと石切は頑なに信じている。


 枯地と寒風。

 夏寒く冬が長い。

 山岳地帯ゆえ耕地も限られている。

 生産能力に乏しく、訪れる者も少なく、新規産業は来ず根付かず。そんな貧国蔵座にとって現状を維持すること、それだけでそれは国益なのだ。

 極論を述べるならば、蔵座という国名がなくなったとしても、この土地が変わらずこの土地に在り、この土地に住まう者、そしてその者らの精神が不変であるとしたならばそれは蔵座国の継続といっていえぬこともないと思っている。さすがにその考えを他人に披歴したことはないが。

 それでもこの頃どうも蔵座はざわついている。

 敏感に利達の匂いを嗅ぎ取った善悪定かならぬ様々な人間が、蔵座に出入りするようになった。その結果、誰の差し金かわからぬうちに兵法指南役などといった、何処の馬の骨とも知れぬ者が正式採用となったものだ。

 蔵座にとってあまりにも不必要な職役であるので、石切はその者の名前はおろか顔も知らなかった。どれほど能力のある兵法家が来ようと、蔵座の国力では守るも攻めるも無駄な足掻きである。

 問題なのは国主だった。

 頼益公が今更国防意識なぞに芽生えたのだとしたら、最悪だ。

「否。下手に戦意のあるを他国に知られたとするなら」

 石切は横向きになった。後背でぐうとかすうとか寝息が聞こえた。

 杞憂だ。国主に何も考えのないことは誰もが知っている。流れ者の兵法家を雇い入れたのも結局、発作のようなものだ。

 石切は踵で女の脹脛のあたりを蹴り、短く茶を淹れろと命じた。本当は酒が飲みたかったが、じき暁が訪れよう。

 女はおどろ髪のまま億劫そうに起き上がると、酷く緩慢な動きで火箸を手に取り火鉢の中の灰に埋み火を探った。

 石切も口元を擦りつつ半身を起こし、障子越しの外を見た。夜が明けてもいないのに仄明るいのは、もしかすると

「雪か」

「ええ。今朝は大層寒う御座います」

 石切は咳払いをしつつ立ち上がると、乳房を抱き抱えるように背を丸める女の肩口をつかみ、やや乱暴に布団の上へ転がした。

 女は眉間に翳りのような幽かな嫌悪を漂わせ、ゆっくりと身を開いた。


 女の柔肌に顔を埋めながら思う。


 この国の未来のことを。


 この国の行き先を決めるのは自分である。

 不遜であろうと僭越であろうと結局、大事は意志のある者でなければ成し遂げられぬ。

 大事。

 現行蔵座の継続。

 おそらくそれが、最も困難であろう。

 女の、大きく潤んだ瞳と目が合った。

 考えねばならないことがもうひとつ。大層な精力漢である主君、三光坊頼益公の閨房ことである。頼益が耽溺していた寵姫、西の館の桔梗がこのところ気狂いの病に罹り人事不省に陥っているという。加えて東の館の鈴蘭までも、死んではいない桔梗が死んだだの、化け物の姿が見えるだの、挙句久方振りに訪れた頼益に対して、怒鳴りつける引っ掻く髪の毛をつかむといった狼藉を働いた。鈴蘭は本来であれば、その場で手打ちにされてもしようのないことを仕出かしたのだが、どうやら頼益は怒りよりもまず驚きと、悲しみに襲われたようだ。あれだけ愛でてやったを忘れたかと、東の館から逃げ帰ってきた時はすっかり憔悴していたものだ。

 石切にいわせれば、散々好き勝手遊んでおいて何をかいわんやである。

 それがそれだけで終われば特に問題はなかったのだが、前述した通り頼益は精力漢なのである。否、精力漢というよりは性行為中毒者だろうか。

 石切の考えねばならぬこととはつまり、女に飢えた国主に新たな側を用意しなくてはならないということ。そしてその側はどのような女でもいいというわけではなく、


 石切は不図おのれと繋がっている女を見下ろした。


 障子から入る雪明りのお陰で造作くらいは再確認できる。


 おお。

 悪くない、と思う。詳しくはわからぬが国主の好みとも合致しそうだ。それにこの女であるならば、西東の場合とは違いある程度我が意思を反映できるのではないか。

 悪くないどころかこれは。

「おい」

 女は目だけで返事をする。

「お前、名をなんといった」

「もう三度目ですよ、そのご質問」

「問うたのは儂だ」

紅蛇くだ、にございます」

「やはりくだか。珍しい名だ」

「それも三度目です」

「生まれは。ふん、これも三度目か」

 石切はそういって、乱暴に引き抜いた。紅蛇は短かな悲鳴をあげる。

「生まれはここより東北です」

「訛りはないのか」

「物心ついた時から諸国を巡っておりましたので」

「なんのために国々を廻る」

「生きてゆくために決まっておりましょう」

「覚えているか、生国の言葉を」

「国の言葉」

 紅蛇は半身を起こし、楚々とした仕草で夜具を身体に巻き付けた。その匂い立つような色気は国主を籠絡するには十分だろう。

 なにより紅蛇は若い。

「そうだ。適度な訛りは良い。適度な、な」

「良い、とは?」

「ひとつ国に永く居るとだな、そうした些細な差異に酷く興奮するものだ」

 石切には自分の尺度は極めて一般的だという自負がある。少なくとも大きく外れてはいまいと。

「左様なものですか」

 それではこれも、と紅蛇は打っ遣っていた足を軽く上げて見せた。

 真裸に白い足袋だけを履いている。

「興奮なさる?」

「うむ。故脱がせなかった」

 それを聞き紅蛇は然も可笑しそうな顔で笑う。笑うと頬に縦皺が寄り、石切のような男にとってはそれがまた色めかしい。


 頼益公も気に入る。


 なにせ自分が気に入った女なのだから。


 明日にでもそれとなく言上してみるか。できればおのれの側として据え置きたく、手放すのは大いに惜しい気もするが、これ以上国主の欲求不満を募らせるのは得策ではない。尤もその前に、この、生まれの下賤な女をどこぞの養子にさせなくてはならない。

 西も東も、怪しいものだがそれなりの家の出である。

 養子縁組など書簡のやり取りのみで成立する簡単なことなのだが、やはりどの家でもいいというわけではない。この先蔵座の継嗣を生むかも知れぬ女である、取って付けた家柄であろうとそれなりの格式というものが必要だろうと石切は思う。

 蔵座より西。優に一千有余年の歴史を数える都に棲む、名ばかり大層で金のない貴族にでも当たってみるかと、彦十郎は肚の底で思う。

 紅蛇は石切の煙管で煙草を吸おうと、火鉢の熾き火に顔を近づけて、

「そういえば彦十郎様」

「なんだ」

「以前お話なされてた、あの、この国の正当な後継者でしたか。謀反の気配ありとか。名前をくとか、ぐとか」

「狗賓正十郎か」

「はい、そのぐぅひん。その後どうなされたのです? なんでも噂では叛意を露わに、おのれの血の正統を訴えているとかどうとか」

「なんの正統であるものか。真実蔵座を興したのが狗賓の祖であれ、遠い昔に三光坊に権限が移り、且つ敗残であるはずの狗賓が今以て蔵座に居を構えていることを考えたなら、おのずとこの国を統治するのがどちらが正しいかは知れよう。国主の座など力なき者が居座っていい場所ではない」

「ええまあ。それでその、ぐ、ひんさんは」

「さあな。近いうち詳しく事の次第を質すつもりではいるが」

 ぷかり、と煙の輪が薄明けの室内に漂う。

「でもそれが只の噂でしたら、ぐっひんさんもいい面の皮ですわねえ」

「狗賓だ。まあそれもそうだろう。根も葉もない噂であれ当然今後に多大な影響を及ぼす話だ。しかしな。どうして狗賓など生かしてきたのか、昔日のこととはいえ、少々」

 理解に苦しむと繋げたかったが、明らかな国政批判は口にできない。かわりに石切は紅蛇の煙管を奪い取り、大きく深く一回、肺臓の奥底に煙を押し込んだ。

 紅蛇は横目でその様子を見、どこか満足したように鼻を鳴らした。

「しかしその話、お前にしたか」

「どうかしら。私も彦十郎様に聞いたのだか噂話を耳にしたのだか覚えておりません」

 石切も紅蛇を見た。


 暫時沈黙。


 麓の農家から鶏の声。


 先に沈黙を破ったのは紅蛇であった。

「いえ。彦十郎と正十郎、お名前が似てらっしゃるものだから気になって」

「お前」

 ぐいと石切は紅蛇に身を寄せた。紅蛇は若干俯きに、微細に半身離れた。

「ふん。あまり詮索するものではない。下手なことをすればこのような国だとて身を滅ぼす種となろう」

 石切は煙管を紅蛇に戻すと立ち上がった。

「お出かけですか」

「そうだ。少し面倒なことになりそうなのだよ」

「面倒なこととはなんです?」

「同じことをいわせるものではない」

 いって薄く笑い石切は部屋を出て行った。

 ひとり残された紅蛇は暫く大きな目だけをきょろきょろと動かして、やがてうつらうつらと考え事をはじめる。


 ぐるぐるぐるぐる。


 日輪の東北部に生まれ、立ち上がり言葉を覚えてからこっち、諸国を延々巡ってきた。父の仕事であったか母の仕事であったか、今はもう覚えていない。

 父も母も紅蛇がその存在を記憶に刻む前に不帰の客となった。ただ、それを寂しいと思ったことはない。

 ともあれ紅蛇の父か母は、娘に愛情を注ぐかわりに独力で生きていく術を仕込んだ。それを親の愛情といっていえぬこともないが、当の紅蛇はそうは受け取っていない。それどころか恨んでさえいた。他に生き様など沢山あるというのにどうして自分はこのようにしか生きられないのかと。そのようにしか育てなかった親が悪いのだと。


 独力で生きる術。


 ぐるぐるぐるぐるぐる諸国を巡り、有益な情報を仕入れそれを売る。

 紅蛇にとって情報とは商品であり、その商品を仕入れる為に様々な手を使う。それなりに苦労して手に入れた商品は、やはりそれなりの高値で捌けた。そうして国から国へ、まるで流行病のように飛び移りながら今までを来た。

 今回もこの蔵座でありったけの商品を手にして、堕府でも七鍵でも高く買い取ってくれるほうに売りつけようと算段を付けている。

 そこに情けは介在させない。

 紅蛇の如き商売に情を挟み込んでしまってはならない。

 飽くまで情報は情報でしかなく、依頼人がそれをどう使うかまで考えていては商売立ち行かなくなること必定である。

 たとえ戦時に、当該国の情報を扱うのだとしても。

 それによって人の生き死にが決まるのだとしても。


 ぷかり、

「だからなに」

 他人の死を悼む心は、紅蛇にはない。

 石切や、今まで出会ってきた様々な輩のように紅蛇も自儘に振る舞い、果つるのみである。それを刹那的だというなら多分、紅蛇という女は他の誰よりも刹那的な思考の持ち主なのだろう。

 この頃少し、生き続けることにも疲れてきている。最後に大きな何かを仕出かして消え失せるのも悪くないと、半ば本気で考えていた。


 所詮人はひとりなのだ。


 どれほど誰かを愛しても、誰かに愛されても、死ぬ時はひとり。


 きっと自分は、狂おしいまでに誰かを愛したいのだろうと紅蛇は自己分析する。今の排他的な感情は、そうしたおのれの渇望の裏返しなのだ。

 本当の自分は無闇に誰かを愛し、そして無償の愛をいいだけ感じたいと希求している。


 兎も角、当初の計画通り国主の新しい愛妾候補にはなれたようだ。その先も巧く事が運んだとして、そこからどうやって優良商品を入手するかは紅蛇の腕の見せ所である。


 あの男の言を信じて行動したならば、必ず国主の側室になれるという。そのためにあの男は蔵座でも指折りの権勢家である石切に近寄る方法を紅蛇に授け、その後もなにかと指図を与え続けてきた。

 素直にその通りにしての、今である。

 紅蛇の感触では目標まであと一歩というところ。

 国主の側に収まればこちらのものだ。いいだけ情報を引っ張り出してやる。そう思っている。



 ※


 飴買鴻は鼻先に雨の匂いを感じ、緩く吹きつける風の来し方に目を遣った。

 牙状連峰の急峻な稜線の向こうに黒雲の塊が見えた。

 あれは乱を孕んだ雲だ。

 ややあって耳に遠雷が届く。

 山向こうでは雨が降っているのだろう。

 蔵座は山の斜面にへばり付くようにして存在する国であるから、夏には鉄砲水がよく起こる。希少な農地を流されてはたまらぬと、村民の幾人かは自主的に灌漑土木工事を施したりもしているのだが、如何せん人数人の力など無力に過ぎる。尤も、あと幾人人数を足せばうまくいくといった話でもない。国が何もせぬから農民は個々で動くしかない、それだけの話だ。

 加えて、自然を制御する、自然に手を加える所業を忌避する習俗は御多聞にもれず蔵座にもあった。

 在るものを在るがままに受け容れる。それが自然の摂理であり、在るものを在らぬように加工する行為は、人は自然の一部ではないという驕った考え方に立脚していると、その嫌悪の根本にはそうした理屈があるのだ。

 そのような考え方を土台に日々生きている者たちが大部分をしめるこの国だが、それでも命やそれを支える土地や財産は守らねばならぬ。

 つまり結局、堂々巡りである。


 自然に抗うことが呪われた行いであるならば、喰いもせぬのに殺し合う戦などはその最たるものか。

 国土の拡大や、利権の奪取や、はたまた純粋な英雄欲や、その他の様々な理想や想念も日輪の版図を変えることの理由にはならぬ。そんなものは人の本質とはなんら関係ない。


 人は争い、血を流す。


 それは若しや人の性であるかも知れぬ。サガとは根幹であり、根幹など容易に変えられぬ。

 それでも人は変わることができると、他ならぬ人がいう。

 変わること能う前に、幾ら我らは変わることができるのだと声高に叫んだところで、そんなものに一切説得力はない。

 人とは生来、満身に受けた呪いを引き摺って生きてゆくものであるのだ。

 それは諦観か。或いは達観か。

「どっちでもいい」

 人は牙を持って生まれなかったがゆえ、有り得ぬおのれの牙を過大に夢想するもの。

 しかし通常、人が砥いだ牙のその対立項に国は立ち得ない。そんなものは無謀を通り越し、愚行といえよう。

 国に戦いを挑む者など、幼き日の寝物語に聞く異国の英雄譚にしか存在し得ぬ、

 筈だった。

 時折自分は何をしているのだろうと酷く不安になることがある。只管に破滅に向かっているのではないかと。

 奴は本物なのかと。

 その問いは今も答えの出ないまま胸の奥にある。矢張り自分を凶の道へと向かわせしめたのは、もう時間がないという事実一点に尽きる。愛した女の命の限りはあとどれぐらいであろうか。一年か。それとも明日か。それを考えるととても息苦しい。

 奴は自分以外にも、蔵座、つまり三光坊家が倒れることを希う者どもを集めている。その内容を詳しく聞いたことはなく、また尋ねたところで答えてくれる者でもない。

 今はただ、自分のできることすべきことを確実にこなすだけだ。


 これは逃避だ。


 せめて命のあるうちに、愛した女の見たい世界を見せてやろうと奔走する行為は、愛した女の消え失せた世界に立つ自分を想像できないが故の誤魔化しでしかない。

 それでも、誤魔化せるうちはいくらでも誤魔化しておいたほうがいいと思ってもいる。


 この魂は弱いのだろうか。


 強いとはどういうことだ。


 辛うじて残っていた朱の残照が一瞬にして薄墨を刷いたような暗い空へ変じ、飴買が再度天を見上げるのと同時にあたりを閃光が包んだ。

 雨粒が一滴。

「桔梗の具合はどうだ」

 飴買は上空に向けていた目線を、声のあったほうに動かした。

「伏せっています。良くない」

「そうか」

「東の女を追い詰めたいのだとしても、桔梗様を担ぎ出す必要はなかったでしょう」

 場所は蔵座主城の西側、西の館に程近い空き家である。もとは馬喰か、母屋の脇に厩が見える。

「他の手立てもないわけではなかったが」

 残雪はいつもと同じ、長い銀髪を束ねることなく白の外套姿。上下を黒い衣服で包み、履物も黒い革製の靴であった。蔵座ではついぞ見掛けぬ異装であり、酷く目立つはずなのだが、どうやら気配を消す術でも体得しているようで城でも村落でもそれほど噂にはなっていなかった。余計な場所には姿を現していないだけかも知れぬが。

「それは随分な答え様。桔梗様の御身体のことは何遍も説明致したはずです」

「桔梗たっての願いだ、無下に断ることもできんだろう」

 なにを情のある振りをと飴買はいわない。非難や誹りに何かしらを感得する男ではないからだ。

「どうしてもやめさせたかったのなら、貴様から本人にいえばよかったのだ」

「自分は」

「桔梗の好きなようにさせたい」

「そうです」

「ならばもう何もいうな。貴様はそれほど愚かではないはずだ」

 雷雨は激しさを増す。

 そんな中でも、

「もうせんぽくかんぽくは出んよ」

 残雪の声はよく響く。

 声質はいいわけではない。金属的で聞きようにとっては酷く耳障りする。

「せんぽくかんぽく」

 それはある日を境に東の館の女主人、鈴蘭を悩ませた妖のものである。その名の本来は新仏を墓所へと誘う、此の世のものならぬ小さき葬列であるという。

 しかし東の館付近に出現したそれは、残雪の指図を受けた、西の館の下男ハンザキを筆頭とした幾人かの為したることであった。

 飴買にしても本当にあやかしがいるなどと信じているわけではないが、闇を捲ればなんとつまらない話ではないか。

 それでも使いようによっては人ひとり動かすことができる。

 残雪は桔梗や飴買の見守る中、まざまざとその事実を見せつけたことになる。


 桔梗の存在を疎ましく思う東の女主人鈴蘭の、歪んだ思いを逆手に取った今回の策謀。


 手始めに、


 桔梗の闇嫌いを誇張し巷間に流布する。


 やがて西の館で人死にが出る。


 下男、


 女官、


 士卒、


 西の館で死者が出るたび墓所にほど近い東の館から見える奇妙な葬列、音、そして提灯の灯かり。


 追い詰めたはずの鈴蘭は逆様に追い詰められ、そして四人目の人死にが出たとの話。


 そぼ降る雨の中現れる妖のもの。


 せんぽくかんぽく。


 彼らの担ぐ座棺を注視する鈴蘭。


 座棺の蓋が開き顔を覗かせたのは、


 桔梗。


 じわじわと追い立てられ追い詰められ、最も気の張りつめている晩に見る、決して見たくはない、死んだはずの女の顔。

 効果は覿面。

 鈴蘭は絶叫し、発狂した。

 こうして、国主を遠ざけ且つ鈴蘭を追い詰める、当面の桔梗の願いは叶った。

 飴買も飯綱として残雪の下に付き、東へと差し向ける噂の流布などの一役を担った。


 閃光


 轟音


「近いな。飴買、腰の物を外しておけ。雷神は金気を好む」

 飴買は残雪の言葉に素直に従い、腰の二本を外すと破れ屋の奥に放り投げた。安物ゆえ失せても一向構わない。

「残雪、貴方は刀は」

 そう問われると残雪は腰のあたりを軽く叩き、狗賓にもらった小柄があるといった。

「ならば」

 閃光

 轟音

 地響き

「身から離した方が宜しいのでは」

 めりめりと何処かで木の燃える音がする。

「私には落ちんよ」

「どうしてそのようなことがいえるのです」

 閃光

「私は」

 轟音


「選ばれた男だからだ」


 稲妻は残雪の側面を掠め梁を舐めるように走り去っていった。残り香のような微弱な電撃が飴買の膝やら腰やらに凝って、やがて消えた。耳が痛い。

 偶然か。

 偶然だろう。それでも飴買は瞠目せざるを得ない。偶然であろうと今、稲妻が残雪を避けるように落ちたのは事実である。

 事実とは何があろうと事実であり、本来的に一切の揺るぎも余地もない。今の現象とて残雪のごく間近に落雷したに過ぎぬ。しかし事実はそれのみで、それを雷が残雪を避けて落ちたと受け取ってしまうことこそが危険なのだ。

「揺るぐな飴買」

 事実を疑いはじめたらおそらく、飴買のごとき生真面目な男は深い闇に埋没し生涯浮上叶わぬだろう。


 しかし。


 残雪が偶然をも予知し、利用できる者であったとしたら。


「貴方は」

 ごく僅か飴買の声は震えていた。

「貴方はいったい何者だ」

「知らないほうがいいこともある」

 気づけば雨はやんでいた。

 降りはじめて数刻も経っていないというのに。

 残雪は奥に歩き、先程飴買が放った刀を手に戻ってきた。

「曲がりなりにも士卒である身が丸腰では格好がつくまい。放るならもう少しわかり易いところに放れ」

 礼もいわず刀を受け取り、飴買はいう。

「桔梗様にこれ以上無理はさせないでいただきたい」

「無理強いはせんよ」

 意外とやわらかな返答に幾許かの安堵感を覚えたのも束の間、残雪はしかしなという。

「なんでしょう」

「気づかんか」

「ですから何を」

「あの娘、本来ならば既に死んでいる」

「は…?」

「丹を飲んでいるのだ、三度も」

「ですが桔梗様は」

 すると残雪はしとどに長髪を一度強く絞り滴を切った。

「目を曇らせるな、飴買。桔梗を今以て生かせしめているものはな、この国を変えようと願う心よ」

「国を変える」

「それと」

 残雪は右手人差し指を鴻の鼻っ面に突きつけた。

「執着」

「執着…」

「いずれ私にはわからんが、それがなければあの女は既に不帰の客」

「執着など、桔梗様がそのような下賤な」

 飴買の中での桔梗はとても高潔である。

「どう考えようが貴様の勝手だ。どのような形であれ桔梗が生きていればよい」

「まだまだ利用されるのですね」

「当然だ。あの女にはその価値がある」

 大事なのは桔梗本人がどう思っているかである。いくら飴買が他の誰よりも桔梗の近い位置に立っているのだとしても、桔梗の真実の心など到底知り得ない。

「無駄な迷いは持つな」

「わかりました」

 飴買の濡れた身体を外気の冴えが包む。迂闊にも濡れてしまった。そう思いつつ飴買は尋ねた。

「桔梗様の価値とは、いったい」

 おそらく残雪は、おのれの策謀に支障がない情報なら開陳するはずだ。そうした目で見つめる飴買の顔を、残雪は暫時無感動な眼差しで眺めて後、ほんの僅か眉頭をあげた。

「桔梗はな、鈴蘭の娘だ」

 飴買は残雪を見た。

「…それでは国主は、実の母娘を側に? いや、それどころではない、頼益公は…」

 そして飴買は愕然とする。

 西の女主桔梗は国主頼益と鈴蘭の子。なんと淫らで、なんと歪んでいることか。

 動揺は悪と思い生きてきた飴買であるが、さすがに顔が強張った。

「桔梗は我が父が蔵座の王であることを知っている」

「はい」

 顔では平静を装いつつも、飴買は足もとが泥沼に沈み込んでいくような不快感に襲われている。

 父子相姦。確かにそのような爛れた関係の末にできた子など、身の内に宿してはならない。どのような命も命に変わらぬと、そんな綺麗ごとは誰にもいわせない。


 桔梗様を非難する者は悉く斬って棄てる。


「今は私に従っていよ。そうすれば今よりは少しましになる」

 飴買は残雪の白面を見、いいだけ時間を置いて、やがて小さく頷いた。そう信じたからこその今なのである。

 籍だけあり当人はどこにいるのか知らぬ飯綱の名を騙り、蔵座城に出仕する危険を冒すのも、他ならぬ残雪の言葉に信用に値するものを感じ取ったからである。おのれが聡いなどと過信してはいない。ある程度の分別がついているだけだ。


 残雪は甲虫の背のような瞳で飴買を見つめている。考えていることはおおよそ想像がつくが心の内までは読めない。内面の動きが一切表層に表れない男なのだ。

「飴買」

「はい」

「よもや桔梗の死に殉ずるつもりではないだろうな」

 なにを尋ねるのかと思えば。飴買は何故か可笑しくなって、雨上がりの寒気の中頬が薄く上気するのが感じられた。

「いけませんか」

「勿体ないと思ってな」

「勿体ないなどと」

 自分は物ではありませんと随分と落ち着きを取り戻した状態で、飴買は前に置くようにいった。

「残雪。貴方はこの国を救うという。しかし貴方の目の奥には光が見えない」

 音の出るほど瞳孔を収縮させて、残雪は飴買の目を見詰めた。問うた言葉の意味が理解できなかったのかも知れぬ。

「結果論だ」

「と仰いますと」

「私の歩む道に、後どのような評価がなされるのかは今の段階ではなにもわからぬ」

「そのような無責任な」

「正直に答えたまで。私は策を行使する者。予想する結果に善だの悪だの付与するのは私のすべきことではない」

 飴買が何事か反駁しようと口を開けたところ、残雪は息継ぎも早々に尤もと繋げた。

「私の行動は正義であると、そう宣言したほうが精神衛生上宜しいというなら声高にいってやってもかまわん。無理はするな」

 山寺に肩寄せ合って隠れているあの一家のように。

 飴買は眉間に力を込め、穏やかさを装っていた仮面を一枚剥いだ。

「そうだ。貴様は言葉ひとつで気分を高揚させたり、ましてやそれを行動動機にできるほど単純な人間ではない」

 確かにそれは残雪のいう通りであった。幼き頃から人の顔色を読むのが得意で、尚且つその顔色を喜色に変えることを得意としてきた。反対にいえばそれができるということは他人を不快にする術も同時に有していたことになる。そんな子供であったから、長じてからも人の言葉そのまますべてを素直に身の内に容れるような人間にはならなかった。

「自分は残雪、貴方の理念や思想は正直どうでもいいのです。ただ桔梗様の望む世界を少しでも早く此の世に現出させるに貴方の力が必要と思ったまで。善悪や、いわんや自分の感情など」

「そうだ。矢張り貴様は賢い。自分の生き様にこまごまと理屈や理由を付けようと腐心する者など愚の骨頂。人とて所詮生き物、故只生きればいいのだと心得ねばならん」

 残雪は空き家の庭先に出た。山の斜面に立つ家であるため、人が住まなくなった今、枯れて黄ばんだ熊笹がいいだけ繁茂している。

 びちり、と濡れた地を革靴で踏み、残雪は背を向けた状態で右手人差し指を飴買に向けた。

「見たい世界があるのなら脇目も振らず邁進せよ」

「言葉も発さず」

「そうだ」

 飴買は指を差されたまま、残雪の後背に向かっていう。


「そういう貴方は実によくしゃべる」


 残雪は呵々大笑した。



 ※


 冬になれば更に大地は乾き、ただでさえくすんで見える蔵座の情景は拍車がかかったように白茶ける。強いだけで何の恩恵も齎さぬ風も、寒冷期は一段と勢いを増す。

 雪は民の生活を圧迫するのみ。

 去年も凶作、今年も凶作。否、はたして過去、蔵座に豊作の年はあったのだろうか。然して施策を為さぬ上層に文句を述べる者もおらぬほど、毎年の凶作は常態化している。

 永い時を掛けて民は学んだのだ。

 なにも得られぬものに対して心血を注ぐ暇も余力もないことに。ただただ暖かくなるまでおのれの命を落とさぬよう、家族の命を溢さぬよう、息を殺してじっと耐え忍ばねばならない。それが蔵座で生きる民の、極めて建設的な越冬の仕方であると。


 民草を見下ろすような位置、牙状の最も高き山に張り付くようにして在る蔵座城。上質の木材をふんだんに使用し、築城当時の流行を取り入れた一見壮麗なる山城である。

 ちなみに築城当時とは今から百年ほど前。その頃というのは、蔵座に、そして日輪に現今のような乱の兆しのない、酷く安閑とした時代であった。その当時の建築思想は最早今の時代にはそぐわない。

 乱世なのだ。

 日輪でも百年前を引き摺っているのは蔵座を含め数国しかあるまい。攻められればさぞかし脆かろう。

 それでも蔵座は、自国に価値のないのを理解していた。実際建国以来、国を揺るがすほどの戦乱に巻き込まれたことがない。旧態依然とした姿勢のまま、未だ変化の兆しもないのもある意味仕方のないことかも知れぬ。しかし、ここへきて遂にその泥濘のごとき安寧が揺らぎつつあった。

 手始めに。

 大国堕府が小国蔵座に、位置的な価値を見出した、ようだ。

 それに対し軍国七鍵は、蔵座が大国の手に落ちることにより、おのれの喉元に鋭き切っ先を突きつけられることを嫌い、以降堕府の動静を固唾を呑んで見守っている状態が続いている。

 その反応こそが蔵座の価値である。

 幾ら七鍵が日輪全土にその名を轟かせた軍国であろうとも、戦など所詮凶事、なるべくならば催したくはない。

 兵数や資金に上限の見えぬ大国堕府と事を構えるなど下策中の下策。しかし堕府が蔵座を押さえたとするなら、ことあるごとに七鍵領土への侵攻を試みるに違いない。

 ならば七鍵の取る道はひとつ。

 堕府より先に蔵座を押さえることである。

 つまりこれは、堕府と七鍵、どちらが先に蔵座を握るかという陣取り競争なのである。

 さて。

 握られる側、蔵座であるが今更戦に備えた防備を城に施すのは遅かろう。

 城のぐるり、主城が背に負った山の一辺以外は空掘となっており、一応は薬研掘りに掘削してある。ただそれも籠城戦を見据えてのことではなく、単純にそれすらも百年前の流行りだったに過ぎぬ。

 それが唯一の蔵座城自体の防衛設備。

 唯一だ。

 空掘が。

 麓から城へ行くには、点在する民家の間を縫うように蛇行する道を抜け、更に牙状の山道を抜ける。

 折角の山城であるのに蔵座主城へと至る道には、畝堀も掘っていなければ曲輪も二三、砦も二三しかない。過去、ないなら造れと進言する者が存在しなかったのものか。尤も、畝堀や砦などの防御施設を設けたところで、それを有効活用するための弓矢も銃器も数が少なく、火薬の備えもない。加えて硝石から火薬を精製する技術者もおらぬ。仮に火器や飛び道具が充実していたところでそれを扱う兵卒の数も足りぬ。せめて逆茂木でも作るべきなのだろうが、そのような支度をしている様子もまったくなかった。

 それはつまり、蔵座には堕府が来ようと七鍵が来ようと城を守る、延いては国を護る気概がないのだ。唯一意思があるとするなら、国主三光坊頼益は七鍵を快く思っていないということのみ。

 稚拙な感情に根差した、屁のような意思である。

 頼益とはおそらく、おのれが傀儡であることに満足している国主なのだ。ある程度自由と我儘の利く住まいと従者、あとは女がいればいいだけの男。国主の器ではない。であればこそ、下手に国防意識に目覚められては大いに困るのだ。

 今の蔵座を無傷で守るなど生半なことで叶う話ではない。少なくとも頼益主導のもとではどうにもならない。

 表立っているわけではないが蔵座に奉職する一部の連中の間で、近い将来蔵座が堕府領となるか七鍵領となるか、虚実入り混じった情報をやり取りしつつの動きが様々ある。実際そのほとんどの者がどちらに転んでもいいよう、つまりは曖昧な態度を以て日々を送っている。

 誰でもそうする。

 誰でも蔵座のようなつまらぬ国と相対死にしようなどとは思わぬ。

 それでも、今の蔵座は愛するに値せぬが、価値あるよう変えることはできると腹中考えている者も数人いる。


 灰褐色の雲が空一面を覆い、昼だというのにあたりは暗い。

 昨晩は雷雨があり、今は雪が降っていた。

 風は凪いでいる。

 そんな中防塵合羽をぐるぐるに巻き付けた旅装姿の士卒が、石切彦十郎の居館に消えていった。

 士卒のその懐には、用心深くしまわれた二通の手紙があった。

 一通は、日輪中西部に存在する永世中立国に、寄生するが如き暮らす有閑貴族からの、石切が愛妾紅蛇を養子として家譜に連ねることを了承する旨を記した証書。

 そして今一通は七鍵からの密書であった。

 蔵座がもし七鍵と誼を通じたいのであればそれ相応の態度を示してもらおうといった内容が、慇懃に、実に流麗な文字で認められていた。

 ちなみに石切は、七鍵の要求はなんでも呑む肚積もりでいる。蔵座国主の意思は他所へあろうが、この先どのような忍従を強いられようが、手を組むなら七鍵であろうと石切は常々思っていた。

 その根拠を挙げよと乞われたならば、例えばひとつ、七鍵には領土拡大の欲はないように判断できること。

 過去にあった戦に七鍵は勝利していながらそれほど領土は拡がっていない。

 七鍵王は常々、自国を淀みなく経営するには自然限度があるといっている。そのような思考体系を有する国主の治める国であるからこそ単純に、大国堕府に自国を侵攻されないがために、先手として当国蔵座を押さえておくことを欲していると、石切には判断できるのである。

 しかし繰り返すが、国主の意思は他所にある。七鍵と手を結ぶのであれば国主を説得する必要があった。

 石切はおのれの放った密使に隣室で待っているよう指示すると、先から目の前に立たせている、緋一色の衣服を纏わせた紅蛇を爪先からゆっくりと仰ぎ見た。

「ふむ」

 肌こそ日に焼けて褐色をしているが、それがまた鮮やかな緋色と相まみえて野趣のある色気を醸し出している。

 敢えて素肌で、唇にのみ薄めた白粉を塗らせたのは石切の嗜好である。

 髪はきつく結うことをさせず、根元から緩やかに、旋毛のあたりでやや大雑把に纏めさせた。

 手と足の爪に色は入れず、光沢だけを与えた。

 想像していたよりも上々の出来に思わず石切の口角が上がった。

 紅蛇は鏡に映る、妙に飾られた自分を他人を見るような目で見ていた。


 国主は絶対に気に入る。


「わかっているな、紅蛇。今日からお前は、御牛車路ぎっしゃじ家の椿だ」

 紅蛇は鏡越しに石切を見、まなじりを若干窄めた。

「随分と大層なお名前ですこと」

「なんの名前だけよ。この世になにも成すことなく、世の価値のわからぬ者どもの名だ。なんの気兼ねがいるものか。そもそも金で買ったもの、汚すも堕とすも好きにしろ。但しきちんと仕事をこなしてからな」

「名を売り買いするなどわたしにはわからない話です。しかしお高かったのでしょう?」

 この緋色のひとえなどよりもと、紅蛇は胸のあたりに触れた。

「どうでもいいこと。だいたいこの先のことを思えば高いことなどない」

 誠意をもって今後蔵座が取るべきを道を国主に説くなどといった頭は石切にはない。おのれの策謀に則って事を運ぶに心血を注ぐのみだ。それがこの国のためなのだ。

 紅蛇は鏡に吐息をかけ曇ったところへ、自分の新しい名前を書く練習をする。

 紅蛇には学がある。

 石切は一文字一文字区切って教える。

「御、牛、車、路」

 紅蛇はゆっくりとそこまで書いて、ただでさえ姓などと書き慣れぬいい慣れぬのにと乱れてもいない襟元を合わせた。

「ちなみにその国はな、住居のある場所に因んだ名を付ける風習があるのだな」

「するとこの名も」

「なんのことはない、牛車が往来する道の辺に家があるのだ。字面こそ大層だが単純だ」

「この国のいう西の東のと、理屈は同じですわね」

「そうだな」

 そしてお前が、西と東のその先に名を連ねるのだと石切は紅蛇の肩を掴んだ。華奢に見えて実際肉付きのいい女であった。

「彦十郎様」

「なんだ」

「このひとえ、香が焚きしめてありませぬ。匂い袋を頂けますか」

「要らぬ」

「ですが」

 紅蛇は再度襟元を気にした。

 紅蛇のいわんとしていることはわかる。

「そのままでよい。なにも気に病むようなことではない。頼益公もきっと気に入られる」

「そのような。閨であるならば然程気にならないのですが…」

「閨でしか会わん」

 紅蛇の気にするそれが、彼女の野趣溢るる色気を一層増させしめている。

 石切は無意識に鼻先を上げた。

「儂も嫌いではない」

 更に目に力を込める。

「頼益公はお前に夢中になる。必ずだ」

「なりましょうか」

「容易くな」

 自分が側として献上するを惜しく思っているくらいなのだと石切はいわない。いわずとも紅蛇ほどの女であるならば悟っているだろうと思っている。

「大切なのはそこからよ」

「仕事、で御座いますね」

「左様。閨の睦言で七鍵に従って欲しいというのだ」

「何故と問われたなら?」

「如何様にも。生家が七鍵と縁があるだの、七鍵に兄弟姉妹がいるだのなんでもいい」

「堕府が嫌いだと、それでも?」

 石切は声を出して笑った。

「ああ、構わん」

 女と同衾することのみに生きる愉悦を見出している頼益は、紅蛇の魅力におのれの好悪などけろりと忘れてふたつ返事で七鍵に与することを確約するはずだ。

 それほどまでに紅蛇は、椿は美しかった。

 そして、頼益が七鍵と通じることに意思を固めてからが石切の本当の勝負である。

 七鍵の要求を受け容れつつ、蔵座を国として維持させねばならない。その為に石切は七鍵に与することを決めたのだから。

 一方堕府は酷い悪食である。

 なにもかも呑み込む。呑み込んでおのれの身の一部にせねば気の済まぬ、肥大した野鎚のごとき国家だ。それは一方でとても頼もしくあるが、矢張り蔵座のような小国に身を置く者としては只管に怖ろしくあった。

 堕府に呑まれては蔵座はすぐに蔵座でなくなり、堕府の血肉となり得ぬ人やものは悉く淘汰されていくことだろう。それは過去、堕府に呑まれた南方の国で実際に起こった悲劇でもある。その国は、堕府に必要な箇所だけを人体が栄養を摂取するかのように接収されて後、国土と人のほとんどが燃やされた。


 石切は隣室へと通じる襖を開いた。

 先ほどの士卒が、平身低頭膝を折り額ずいていた。

「七鍵にいずれ密書を運んでもらう」

「は」

「今回同様命がけの旅だ、今生に未練の残らぬよう、今のうちいい酒を呑み、いいものを喰い、女を抱け」

「は」

 石切は半歩身を引き、おのれの背に立つ女が士卒から見えるようにして、

「顔を上げよ」

 そういった。

 士卒から短い感嘆符がもれた。

「率直に述べよ」

「美しゅうございます」

「抱きたいか」

「畏れ多いことを」

「なんのこの者、最前までは民間ぞ」

「しかし今は由緒ある家の御息女」

「その通りだ。まるで誑かし。小手先の騙しよ。しかしそれが蔵座を救う」

「は」

「いうのだ、それが蔵座を救うと」

「必ずや蔵座は救われまする」

「もう一度ッ」

「救われまするッ」

「もう一度!」

「救われまする!」

 その通りだと肚の底から叫んで、石切はかいなの力のみで椿を引き寄せ、名残り惜しさを断ち切るためにその口を思い切り吸った。


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