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その七 『西の女と東の女』

 その七


 『西の女と東の女』


 その日はいくらか気分も良かった。

 厚く垂れこめた曇空を見るともなしに眺めていると、空からひとひら舞い落ちてくるものがあった。

 最初は桜かと思った。

 やや考えて今は春ではないと気づく。

 庭を見れば木々の葉はすべて落ち、冴える山々もとても寒々しい。

 長い睫毛を戦がせる風は冷たい。


 冬。


 どうやらまだ生きている。


 桔梗は空の匂いをかぐような仕草で顎を少し上へあげ、笑みとも憂いともとれる表情を形作った。


 美しい、人だ。


「寒風はお身体に毒ですよ、桔梗様」

 とは桔梗がもっとも信を置く男。

 桔梗はこの男と話をする時だけは他に誰も寄せ付けることはなかった。常にそうしていた。

 やや潤んだ瞳を男へ向ける。

 男は桔梗の濡れた瞳から逃れるように背を向けて、庭に立つ足を一歩前へ出した。

「この程度の毒ならば、なにも怖くありません」

 常にある目眩と悪寒。臓腑のひっくり返るような吐き気。頭痛と耐え難き倦怠感。

「ならば逃げますか」

 男の言葉は常に簡素で、突き刺さるような心地よさと甘ったるい苦痛が同居する。桔梗は放と息を落とし、それだけはいたしませんと手を伸ばした。

 男はまた一歩桔梗から遠ざかり、いう。

「いっそ目の前のものを全部壊して」

 桔梗は小さく息をのむ。しかし男は、今自分がいったことをやわらかに否定する。

「自分にはなにもできませぬ」

 桔梗は男の背へ伸ばした手の、以前は形よく整えられていた我が爪を見、

「あなたは外ではよく笑うそうですね」

 といった。少し息が苦しそうだ。

 男は外に目を向けたまま静かに答える。

「それはかりそめの姿。もし桔梗様がそうした自分をお望みならば」


 いえ。いいのです。


 桔梗の言葉は緩やかな風のようだ。頬に触れるまで在るかどうかもわからない。

「いいのです。外のあなたがどうであれ、私のあなたは今そこにいるあなたですから」

 男は一度後背に力を込め、殊更緩慢さを意識して振り返った。

 少し瞼が厚く、切れ長の目をしている。

 外では暗い男だとも、にやけた男だとも、底の知れぬ男だとも様々に評されるが、実際そのどれもが男の本性ではない。そのいっときに一番都合のいい顔をしているだけに過ぎぬ。その仮面一枚一枚を剥ぎ取って果て、残るのはおそらく没個性も甚だしい靄の如き人格であるはずだ。様々な状況に応じて表情を変える、その技術を練磨することだけに執心するあまり、男本人も本来の自分を間々忘れる。

 この蔵座という土地に来て以来、西の館の女主人に仕えてきた。

 男の目線は虚空から地を這い、やがて桔梗へと緩やかに移動していった。

 白い、顔。

 皮膚は酷く薄く、その下の静脈一本一本が透けて見えるほどだ。

 小振りな鼻。小振りな唇。すべての造作が小さく上品に出来上がっているのだが、瞳だけはとても大きい。睫毛も長いため遠目に白眼はほとんど見えぬ。

 瓜実顔、長い首、細い肩、薄い胸。

 華奢な体躯であるのに、それでも尚胴周りが括れているのが痛々しい。足も細く、足首などは最早骨と腱だけであった。

 いわれなくとも、望まれなくとも守りたくなる女というのはいるものだと男は思う。しかしそれは、とても危険な感情である。何故なら桔梗は、国主の愛妾であるからだ。

 身分違いの懸想も甚だしく、

 桔梗は今度はしっかと男の手をとった。

 なにもいわない。

 男は表情を変えず、

「どうなさりたいのです」

 問うた。

「わたくしは」

 わたくしはと繰り返して、桔梗は視線を宙空に漂わせた。まるでそこに答えでも漂っているかのような所作である。

 幽けき世界を見ているものか。

 桔梗がそんな目をしている時は男はまだ安心していられた。怖いのは彼女が現実のことを縷々考えている時である。辛い現状に嫌気が差し、発作的に命を絶とうとしまいかと。そもそも意識が幽界に遊ぶようになったのも現実から逃避したいと強く希求するが故でなかろうか。

 いっそのこと幽界から帰ってこなければ良いのだと男は本気で思う。

 男の目が馬鹿正直にそんな思考を表出させていたのだろう、桔梗はつと目線を下げた。こうなっては暫く、男と桔梗の視線が絡むことはない。


 それでも、そのほうが桔梗は幸せならば。


 たとえ人として

「いや」

 それは男の我儘だ。

 どんな形であれ桔梗に生きていてほしいと願う、ある意味残酷な。

 しかし実際諾々と生きることなどない。桔梗にはやるべきことがあった。

「申し訳ありません」

「なにを謝るのです」

「お辛いでしょう」

「はい」

 桔梗は泣いていた。

 男は再び桔梗に背を向けた。


 死は遠からず彼女の許を訪れる。


 桔梗は蔵座国主三光坊頼益との子を過去三度身籠ったことがある。正妻との間にいまだ継嗣を設けておらぬだけに、これは本来喜ばしい事実である。

 だが、桔梗が懐妊した事実を知る者はごく僅かである。

 頼益も知らぬ。

 何故なら桔梗は、頼益との子が芽吹くのをおのれの身の内に感じるとすぐ、極秘裏に日輪中部から取り寄せた丹を服用していた。


 丹とは、固まらぬ銀。

 転じてそこから作られた堕胎薬である。


 何故そうまでして子を作らないのか。


 世間的には側室、であるのに。


 答えはいつだって単純である。


 頼益は桔梗の実の父なのだ。

 そして桔梗自身は…


 その事実を頼益は知ってか知らずか。

 知らぬから平気な顔で情を重ねるのか、それとも純然な、堕したる嗜好なのか。


 不義の子など身に宿してはならない。


 自分が桔梗の立場であったなら気が狂わんばかりであろう。否、つくづくこの国の頂点は駄目な男なのだ。

 男は瞼を強く閉じ、行き場のない憤懣を必死に噛み殺した。

 到底一国の長たる器ではない。

 早々に消えたるがこの国の安寧の為だ。

 口には一切出さず、表情にも滲ませず。それでも男は男なりにこの国の先行きを憂い、拙いなりに我が力でどうにかしようと強く思っている。今どうにかしなければ遠からず大国が攻めてくる。

 その前に桔梗の命が尽きるのならば、それはそれで構わぬが。

 桔梗はこの国を愛している。

 夏も冬も寒く、痩せた土に生る実もあまりなく。愉しきことなどひとつもない国であるのに。

 男は、桔梗が愛しているのなら自分の出来得る限りこの国を良くしてやろうとそう思うだけだ。

 しかしそれも桔梗が生きている間だけである。桔梗死さば我が身を供物に彼女を天へと送ろうとそう思っている。たとえ道ならぬ懸想であるにせよ、男の想いは純粋である。

「逃げぬのですね」

「逃げませんわ」

 男の想いが確固たるものであるのと同様、桔梗のその思いも揺るぎはしない。

 それでも男はいまだ、桔梗の命の尽きるその日まで、誰も訪れることのない深山でふたり境目のないほど縺れ合い起伏の一切ない日々を送りたいと願っていた。それも口には出さぬ。

 桔梗の命の蝋燭は、後どれくらいもつだろうか。それを思うと男は、背骨をすべて握りしめられているような耐え難い焦燥感に襲われる。

 桔梗はふらりと一度大きく傾いで、それからゆっくりと歩きだした。

「屋敷へ戻ります、今夜は出掛けなくてはなりませんので」

「あまり無理をなさらないほうが」

「ええ」

 桔梗は曖昧に語尾を溶かす。いいたくないのか、よくわかっていないのか。兎も角その声は震えている。

 恐怖か、それとも。

「とにかく今は休んでください」

 男の声は微々とも震えていない。それは過去より今まで常に自分を装うことに腐心してきたが故の、作られた平静である。

 仮面の下は黒々と煮え滾っている。

「アメカイ、あなたはこれからどうなさるのです?」

 男の心を知ってか知らずか桔梗はうっすらと笑みを湛えてそう尋ねた。

 飴買鴻あめかい・こうは桔梗の黒く潤んだ瞳を見、少し愚鈍な印象を与える仮面を被った。

「どうしたのです? 飴買?」

「…なにか仰いましたか」

 桔梗は飴買の目を見、わずか哀しそうな色をその大きな瞳に差した。まるで読まれているのだろう。

 飴買は若干のやり難さと、かすかな心地よさを感じながら、ほぼ無声音の無意味な感嘆符を宙に放った。

 桔梗は繰り返す。

「それで。どうなさるのです、これから」

「別にどうもしませんよ」

 どうにかしたいこの場所にはどうせ長く居られぬのだしと飴買は前髪を掻き揚げた。

 すると桔梗は、

「そうですわ飴買、髪を結ってはどうです、今のままでは男振りも下がりますよ?」

 などと今日一番の明るい声を出した。

 桔梗の表情の変わりように飴買は戸惑う。

「今のままでは見苦しいでしょうか」

「そう思います。それからあなたは寒色の装いばかり好みますが、もう少し明るい色も着れば良いとわたくしは思います」

 桔梗は今度は声に出して笑った。

 飴買はどうして良いかわからず、暫し逡巡し結果極小さな声でこれにて失礼しますとだけ発した。

「ええ、それではまた」

 桔梗は努めて明るく返す。しかし続けて発した、必ずいらして下さいねといったその声は明らかに震えていた。

 飴買はこの期に及んで、愛しきその手を取っていいだけの愛情表現のできぬ我が身の不甲斐なさに膝を折りそうになりながら、必ず参りますと酷く掠れた声を絞り出して、西の館を後にした。


 報告に行かねばならぬ。


 この国を、蔵座を、桔梗のために変えねばならぬ。


 寒風に眼球が渇く。

 それでも飴買はまばたきも忘れて山を下った。西の館のある山から麓の村までは早足で歩いても半日ほどの距離がある。村に着くのは真夜中過ぎる頃だが、それでも休んでなどいられぬ。村で報告が済めば今度は城へ出仕せねばならない。気の休まる暇はなく、身体を常に酷使している。それでも自分の望んだ毎日である。幾多の仮面を懐に、おのれの望みを叶え得る者に寄り。


 飴買の望みとは、三光坊頼益の存在を消し蔵座の安寧を得、桔梗と共に生きること。時間はもうない。その焦りからか今は何でもできるような気がしている。どのような汚い真似であろうと、人道に悖る行いであろうと。


 結局は愛しき彼の女を苦しめるあの男と同じか。


 一歩また一歩、普段と変わらぬ早足で山道を下りる。

 上を見れば枯れ枝が遮った鉛色の空、鈍重な雲、そして。

「雪か」

 道理で冷えるわけだと飴買は襟元を合わせた。特別寒気に弱いわけではないが感冒に罹患しての計画の遅延など考えただけでも吐き気がする。

 計画。

 蔵座国の変革。

 立案は飴買ではない。

 最初耳にした時は到底実現不可能な話にしか聞こえなかったが、繰り返すが飴買は酷く焦っていた。このまま諾々と変わらぬ現実に身を焦がすのならば、分の悪い賭けであろうと微かな可能性に縋ったほうがいい。


 桔梗のために。


 否、桔梗を恋いうる我が魂のために。


 闇嫌いを誇張して流布せよ。


 天真爛漫に振る舞わせよ。


 本性を偽った明朗な性格を桔梗に演じさせることにいったいどういう意味があるのか。 飴買は何度か立案者に尋ねたことがある。すると、そのほうが付け入る隙が生まれるものよと答えが返ってきたものだ。隙を穿っていったいどうするつもりなのだろうと思いはしたが、それ以上は尋ねなかった。


 狂気極まって人を殺したとの虚報を流せ。


 この命にはさすがにやや閉口したが。


 下男、女官、士卒、そして昨日。


 とにかく飴買は一度、本当にうまくいくのかと立案者に尋ねた。立案者は泰然として応とのみ答えた。

 根本的に飴買鴻という男には、人に対しての諦観がある。所詮人と人は心底理解し合えぬものなのだと。

 兎も角今の段階でひとつ、いい結果が得られている。

 桔梗の佯狂により暗君頼益は西の館に近寄らなくなった。わかり易い。まったく早くからそうしていれば良かったのだと飴買は後悔する。いずれこれで、当面桔梗への余計な負荷は避けられそうだ。


 だからいまのうちに。


 飴買はとにかく先を急いだ。

 遠くに見ゆるは蔵座主城。

 遠からず陥落させる対象である。


 飴買鴻は本来の名に近い。

 懐にいくつも忍ばせた、磨きのかかった秀逸な仮面のうち、もっとも本性に近しい性格設定のときに名乗る名である。飴買鴻を知っているのは桔梗と策の立案者のふたりのみ。もっとも飴買が西の館に出入りしている事実を知る者もそのふたりしかおらぬ。

 城、そして城下では別の名を名乗り別の仮面を被る。


 その仮面の名は、飯綱。


 策を齎したのは、残雪。



 ※


 夜。

 東の館。


 暗闇を嫌悪する西の館の女の狂気に触れ、下男、侍女、士卒と消えた。

 そして。

 四人目の被害者はいったいどういった者であるのだろう。殺されたとの報せがあったのみで詳細はいまだ耳にしていない。

 私はほつれた髪を耳にかけた。

 はたして今宵、あのあやかしは現れるだろうか。

 なにをしても落ち着かず、何処にいても尻の据わりが悪い。酒でも飲まねばやってられぬと侍女に酒肴の用意だけはさせたが、飲んでもまるで味気なく、一口含んだだけで後は炒った豆を掌で転がしていた。

 一切落ち着くことはないから、煙草だけは延々喫っている。おかげで喉も肺も痛い。何度も口を漱いでいるが舌の上にはたっぷりとやにがへばり付いていて気持ち悪いことこの上ない。

 通り一遍の祓いは施した。しかし、全体信用に値するかどうか疑わしい。あの時はただひたすらに、何もしないよりはましであろうと思っただけだ。

 声があった。伊福部のものだ。

「そろそろ支度をなさいませ」

「わかっておる」

 今宵、幾春秋待ち焦がれたかわからぬ御方がこの館にやって来る。本来ならばもっと浮かれ、様々支度に腐心しているはずが。

「姫」

 するすると襖を開け、頑迷そうな表情を更に固くした伊福部が膝行してきた。

「姫」

「姫はやめよといっておる。御山様の前では特にな」

「その御山様がお越しになられると申しておるのです。とく湯浴みをし、御髪を梳き、化粧を整えなされ」

「わかっておる」

 本当にわかっているが今は別のことで気が重かった。

 間を置いて三度溜め息を落とす。その間伊福部はまんじりともせず座っているものだから、さすがに私は笑ってしまった。

「そう石のごとくおられたのでは身支度ができぬぞ」

「や。これは失礼をば」

「湯浴みの支度をするよう伝えてくれ」

「は。既にできております」

「そうか」


 そうだ。

 私はこの期に及んでなにを思い悩んでいるのだ。この苦しみも苦労もすべて、今日の夜を得んがためのものであったはず。ならば今気を入れねばどうするのだ。


 我が身に主君の胤を宿すのだ。


 そう自分にいい聞かせると、ぞくりと総毛立った。


 ここにきてやっと、私は女の顔を取り戻した。数年来どこかへ忘れていたものだ。しかし途端に膝が震えた。

「今更緊張しているか…情けない」

 或いは恐怖かも知れぬ。

 どちらにしても良くない兆候ではある。気を張り払いのけようとするものの、そう念ずれば念ずるほど身体の芯にまるで澱のように不快なるものが凝っていく。

 折角の晩、なのだ。

 動きがぎこちなくなるおのれにふつふつと怒りを覚えながら、気を鎮めようと何度も何度も試みるも無駄に終わる。これならば怪異の再訪に心奪われていた先ほどまでのほうがまだ安定していた気がする。

 意識するのではなかった。

 しかし、もう遅い。

「今を逃してはならぬ。今を逃してはいったい私はなんのために」

 存在しているという。

 身の内のざわめきを抑えられぬのはこの際しようがないと、そう割り切ったほうが良さそうだ。大事なのはそのざわめきを主賓に気づかれぬということ。根が好色である故、よほどのことがない限り興が覚めるようなことはないと思うが、用心するに越したことはない。

 緊張と恐怖を、華美な装いと厚い化粧で覆い隠すのだ。

 一度大きく息を吸い盛大に吐き出し、肺臓を空にしてからまたそろそろと息を吸い込んだ。


 望み通りの人生を得るために。そして何より、一刻も早くあの銀髪の男と縁を切らねば取り返しのつかぬことになる。


 残雪の献策を耳にした当初は、いったいどこでどうおのれの望みと繋がるのか皆目見当もつかなかったのに、今こうして。

「湯殿へ参る」

 私は廊下へ歩み出、付き従う侍女に次々と脱いだ衣服を手渡していった。

 湯殿に着く前に丸裸となり、一度全身で振り返った。

「どうじゃ、衰えてはおらぬか」

 私の脱いだ服を抱えた侍女は目を丸くして言葉を失っていた。廊下で裸になるなどこの国だろうとどの国だろうと度を逸した破廉恥な行為である。

「どうじゃと訊いておる」

 この場に伊福部が居合わせたとしたら、一目で卒倒することだろう。

 侍女はああとかううとか呻いて、やがて、

「御美しゅう…御座います」

 といった。

 年齢にしてはとの枕言葉を忘れているだろう。とは敢えていわない。今はその言葉を後押しにするしかないのだ。

 私が今、おのれの身を磨くのは、決して自分のためだけではない。この館の者どもの将来をも、私は負っているのだ。


 湯殿の木戸を引き、中へ入った。

 たっぷりと汗を掻き垢を落として、今度は汗が引くのを待って一番の気に入りの袷物に袖を通す。色合いが派手なため、不惑が目に見えてからはほとんど着ていなかったものである。

 侍女に髪を梳かせながら、私は手ずから化粧を施した。

 思えば今面と向かっている鏡は、私がこの館に来た時、即ち御山様の側として迎え入れられたその日に贈られた、謂わば思い出の品であった。

「御美しゅう御座いますよ」

 先と同じ侍女がいう。今度のその言葉は先よりは真実味があるように思われた。

「もう一度ゆい」

「はい。御美しゅう御座います、鈴蘭様」

「うむ」


 そうだ。私は美しい。


 自信たっぷりに主君を迎え入れねば。

 得るものを得ねば。


 私は美しい。


 頬骨の一番高い所にうっすらと浮き出た染みはこの際見なかったことにする。どうせあの男が訪れるのは夜。照明を暗くすれば問題はない。それでも屋敷内は可能な限り暖かくせよと侍女に指示を出す。寒気がもっとも悪い。

 重々承知しておりますとこうべを垂れる侍女のつむじのあたりを見るともなしに眺め、こうした者を手に掛けたのだと、不図西の女のことを思った。はたして闇が彼女の居館で広がったのは、誰あらん自分の言葉がきっかけであると、もし西の女が知ったらどう思うだろうか。その上我が身に主君の子が宿り、現今主君の一番の寵愛を受けている立場までもが危うくなったとしたら。しかし私が晴れて蔵座国継嗣の生母となり、それなりの権限を得て後、正室はさておき西の女をそのまま据え置くことなどさせない。憂いの種は早々に断つべきである。それは無論自分のためであり、転じて西の女のためでもあるのだ。そう信じている。

 継嗣を宿すかどうかもわからず、それどころか主君の種を得られるかもわからぬ。加えて子の生したところで男児が生まれるか女児が生まれるかはまた未知である。

 それでも。早計であると十分理解しつつそう思う。


 私はおのれの丹田をそっと触れた。

 早くも冷えている指先に、おのれの腹部が暖かい。

 ここに、我と、苦労の掛け通しの老僕と、その他この館に従事する者どもの幸せな未来を宿すのだ。

 次はない。


 夕焼けのないまま音もなく闇が滲んで、やがてあたりは音もなく暗くなった。

 馬の嘶き。蹄の音。そして数人の足音。

 城域であろうと城下であろうと、この国で馬に乗れる者など限られている。

 来たか、と私は空唾を飲んだ。

 化粧は崩れていないか、髪はほつれていないか、衣裳は気に入ってもらえるか、酒は用意できているか、肴は好みの甘いものが揃っているか、酒器も食器も下品ではないか、敷物の毛足は長すぎないか、暖気は足りているか、心配は尽きぬ。しかし何があったところでもう遅い。


 私は座敷の奥で肘掛に寄り掛かり、泰然とした態度を装って待つこととした。本当は酷く喉が乾き、眼球の周りの筋肉が痛かったのだが、そんなことは無論おくびにも出さずただただおのれの信ずる佳い女の表情を取り繕って、目的の種を持った男が入室してくるのを待った。

 心臓の鼓動が両の鼓膜を震わせ、やがて周囲の音をすべて打ち消してしまった。

 目の両端がちりちりと熱い。

 作り笑顔のまま障子戸の合わせ目を凝視し続け、やがて吐き気を催しはじめた頃、

「お待ちしておりました」

 戸が開いた。

 礼式を踏まえた辞儀で、久方振りの男を迎え入れた。

 吐き気も目眩も緊張も気負いも無理から封じ込めなくては。


 ここからが本番である。


 館の外。


 木々の間に間に闇の中蠢く影ふたつ。


 前方にひとり、


 後方にひとり、


 肩に渡した担ぎ棒には座棺。


 空からは篠突く雨。


 前を往く者の手には提灯。


 足もとは泥濘。

 ふたつの影は宙に浮くがごとく。


 此の世の者か。


 彼の世の者か。


 どちらでもないかも知れず、

 どちらでも構わないかも知れず。


 存在しているだけでもう。


 混乱を無理矢理な平静で糊塗している者にとっては、ふたつが虚であれ実であれ同じ。特に今宵は長きにわたって待ち望んでいた状況である、気の張りようも尋常ではない。若し今このふたつの影の存在に勘付いたとしたならば、


 そんな者がため、


 せんぽく、


 影は自己を主張する。


 かんぽく。


 影のひとつは殺されたという西の下男。

 ハンザキ。


 狂乱は否めますまい。


 せんぽく、かんぽく。


 東の館。

 濡れ縁に人の影。

 裸形の女である。

 女の後方から何じゃ何事じゃと男の声。

 嗚呼、嗚呼と女の嗚咽が聞こえる。

 何故じゃ祓ったではないかと。


 座棺の丸い木蓋が開く。

 隙間から白い手が出る。


 東の館からはどの程度見えているものか。


 こうした状況に置かれた人間というのは、余計なモノまで実によく見るものと幽鬼のごとき男はいっていた。


 いわれたとおり座棺から顔を。


 桔梗。


 提灯が消えた。


 それは盛大な悲鳴が上がった。


「御山様!

 御山様!

 西の姫は死んだのかえ?

 知らぬ? 知らぬことはなかろう!

 死なねば此処は訪れぬ!

 此処は、この館の向こう、向こうじゃ!

 いわずともわかろう蔵座の墓所じゃ!

 なんじゃ、何をしておる?

 見よというておる!

 とく見よ!

 こちらへ来て見やれや!

 見よというておるのが聞こえんのか!

 来い!

 あそこで提灯の灯かりが見えたんじゃ!

 西の館で死したる者が

 晩に! その日の晩に!

 怪しきモノに棺を担がれ

 あそこの山道を通ってホラ

 あの墓所へとソウジャ

 聞こえたろうセンポクカンポクと!

 聞こえたろう!

 答えよ!

 とく答えよ!

 なに?

 なにを狂うておるなどと!

 狂うてなどおらぬ!

 狂うてなど…


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