その五 『火種』
その五
『火種』
正十郎がその、まるで身に覚えのない噂を初めて耳にしたのは、陽が中天を過ぎ、辛うじて晴れていた空に若干の翳りが滲みはじめたのを確認した時であった。
「もう一度聞かせて貰えまいか」
声が震えているのがわかったものだ。
その要請に正十郎の目の前につまらなさそうな顔をして立っているのは飯嶋だった。相変わらず暗い目をしている。
「構わない」
何度でも話しましょうと、飯嶋は右肩を預けていた壁から身を剥がし、まっすぐ縦になった。一方の正十郎はといえば飯嶋の口にした噂話に急激に視野が狭まっていくのを感じている。
主城の本丸と、雑人や使用女が詰める宿所を繋ぐ長い長い渡り廊下である。場所が場所であるから平素我ら士分の者は殆ど足を向けぬ所である。
ええとと飯嶋は息を吸った。
「狗賓さん。あんたは主権簒奪の二心有りと思われている」
何度聞いても耳を疑う話である。正十郎は空唾を飲み込む。
「…有り得ん。それをいっているのは誰であろう」
「出所までは」
そういって飯嶋は下を向いた。
「ならば飯嶋殿は誰から聞いたのだ?」
「ああ誰だったかな。覚えてないね、残念ながら」
いいつつ飯嶋は今度は横を向く。そのあやふやな態度に、正十郎は尻の毛を燃やされているような焦燥感を感じ、思わず飯嶋の尖った肩を掴むと無理矢理我が方へ向かせた。
「どうしてだ。どうしてそのような噂が」
口角泡を飛ばして訴えた。
飯嶋は頬を払う素振りを見せた。唾でも飛んだのだろう。
「だってあんたの先祖が先祖だし」
「いや。それはしかし…」
確かに狗賓の始祖は蔵座建国の中心。それは事実である。しかし最早遠い過去のことであり、主君が三光坊家に替わってから今日まで、狗賓は文句のひとつもいわず粛々と新しき主家に従ってきたのだ。
余計な勘繰りをされぬよう只管に静かに。
「どうして今更」
正十郎は喘ぐようにそれだけをいった。
「そんなことは知らない」
「しかし飯嶋殿」
「あ、僕イヅナだから。飯の綱で、飯綱」
「これは失敬…」
軽く低頭しながら正十郎は、飯嶋ならぬ飯綱という男はこんな横柄な話し方をする人間だったかと過去の会話の内容を思い出そうとするも、何とも頭の中はとっ散らかってまるで要領を得なかった。
「…し、しかしいい飯綱殿。その噂の、その何というか…」
「信憑性、かな」
二度三度と頷きながら、正十郎は背ばかりが丸くなっていく。
「曖昧で怪しいから噂なんでしょうよ。だいたい狗賓さん、あんたの今の慌て振りを見れば噂が根も葉もないことだってことはマアわかる。只それは実際に面と向って話をした僕だからいえることでね」
お前に自分の何がわかる。などとはいわずに正十郎は薄笑みに、軽く頷いて見せた。
「まあ本当に根も葉もないであれば何れ噂は消えるでしょう。それまでじっと我慢することだと思うね」
「しかし」
「しかししかしいってもさ。下手に動いて噂を消そうなんてすれば余計怪しまれるでしょうし」
「そうだろうか」
正十郎を見る飯綱の眼にうっすらと憐憫の情のようなものが差す。
「いい? あんたが古代主家の血をひいてるってことだけは事実じゃん」
「じゃん…」
「だから元々が何時疑われてもおかしくはない立場っつうか。それが偶々今だったっていうか。その上あんた人嫌いで有名だし。いろんな意味で大事なんだけどね、人付き合いとか人脈とか」
「それはまあ」
それは重々承知している。しかし正十郎という人間はその重みよりも煩わしさへの嫌悪が先に立つ。
「…わざわざ有難う、精々気を付けることにしよう」
それしか言葉がない。頭の中は相変わらず様々に渦巻いていた。
「いやいや、見るに見かねてね。老婆心ながら忠告させてもらいました」
そういってきびすを返した飯綱の背に向かい、正十郎は未練たらしく声を投げた。
「最後にもうひとつ」
斜めに振り向いた飯綱の頬に、ほんの僅か険が表出した。
「…否。その噂、いったいどれほど拡まっているのだろう」
中空を撫でるように吹く風に、葉も実も落とし丸裸となった銀杏の枝が撓んでいる。
飯綱はああと短くいって、やや考える。
無造作に伸ばされた髪さえどうにかすればさぞかし婦女子受けする美丈夫であるだろうになどと正十郎は余計なことを考えながら、どうやら自分の肩ごしの向こうを見ている飯綱の目線を追ってみた。
板敷の長い渡り廊下のへりに元服して間もないといった風情の若者がひとり、正十郎を見ていた。
若者はじっと、つぶらな瞳で正十郎を凝視している。
流石に人嫌いの正十郎も焦げ付く感覚から普段の我を忘れて若干声を荒げていった。
「おい、何だ。何か用か」
半歩進みかけた正十郎の肩を飯綱がやんわりと掴んだ。
「な、何故止める」
若い士卒はにっこりと笑い会釈をし、ふわりと前髪を揺らし立ち去った。
正十郎は知らぬ顔だった。
「そういうこと」
「何がだろうか」
「あの程度の若者の耳にも届いていると。今の今まで知らなかったのは狗賓さん、あんただけだ」
「あ、ああ。否…」
正十郎は忙しなく口の周りを触っている。口の右上にある髭の剃り残しに気づき不快感が増す。
「あ。知らないのはもうひとりいるか」
「もうひとり…?」
飯綱は突き出した人差し指を酷く緩慢な動きで天井に向けた。
「蔵座国主三光坊頼益様」
「それは…虚実定かならぬ事である故、頼益公の耳には入れて居らぬとそういうことだろうか」
「それは随分と好意的な見解だね」
「どういうことだろう」
「虚であるならそれを受け流す度量は求められず、実であるなら的確な判断の出来る裁量は無し。そう側近に判じられているってとこじゃない?」
「な、何を不遜な」
「不遜も糞もない。国を拓いた者の子孫と、それを奪った者の子孫。格云々をいうならあんたのが上だと僕は思うがね」
「下らぬことをいうものではない!」
「そう怒らずに。要はあんたの存在を現国主を含め蔵座の人間がどう思っているかってことで」
正十郎は酷い目眩に襲われる。そのようなこと終ぞ考えたこともなかった。只諾々と、自分も祖父や父のように穏やかに生きていけるものと思い込んでいたのだ。
「だから、おとなしく難が去るのを待つのみでしょう」
それを切り文句に飯綱は立ち去った。これ以上の会話は切りがないと判じたものか。
所詮は他人事なのだ。それでも忠告してくれたことには感謝せねばなるまいと、正十郎は思う。
指の先が微細に震えている。
脇の下に大いに汗を掻いていた。
渡り廊下を横切る一陣の風に雪の匂いを嗅いだ。
はたして桜にいったものか。
正十郎はそんなことを悩む。曖昧なものを曖昧なまま放っておけぬ性質である桜に色々尋ねられても面倒だ。大体尋ねられたところで正十郎には何も答えられぬ。
何だか全てが厭になる。
そして正十郎は不図直属の上役の顔を思い浮かべた。頬に大きなほくろのある、矢鱈と眉の濃い顔。一見好人物そうな風貌なのだがその実、口を開けば他人の悪口か嫌味しか吐かぬ。
飯綱の話を鵜呑みにしたとするならば、上役の耳にも噂話は届いている筈。
さて弁明するべきか。
「否…」
矢張り飯綱のいっていた通り何やかやと取り繕うのは却って怪しまれるだろう。尤も巧く立ち回りさえすればいいのであるが、そのような器用な真似は到底正十郎になど出来よう筈もなく、結局余計に疑惑を深めてしまうが関の山であろう。
やはり、静かにじっとしているよりない。
所詮は優柔不断で小心な男なのだ。
ただただ膝を抱え、目を閉じ、耳を塞ぎして耐えるしかないのだ。そうしたところで寒風が激しさを増し凍え死ぬが先か、何もなかったかのように元の穏やかな生活に戻るが先か、それはわからない。
まさに青天の霹靂。
突如降ってわいた不幸である。
全てを捨てて逃げ出そうか。
幸い正十郎夫妻には子はない。郎党共と縁を切り、桜の手を取って当て所なく。
妻は自分についてくるだろうか。
実際気の強い女である。私に逃げる理由は御座いませんと正十郎の要請を突っ撥ねる惧れは大いにある。桜には独りで生きていく術はなく、結局正十郎が守るしかないのにだ。
正十郎は足の裏を失ったかのような不確かさで帰路に就いた。
気付けば帰路に就いてから延々下唇を噛んでいた。幼童でもあるまいに。目頭と鼻の奥もツンと痺れている。
白い人影。
「貴様…」
残雪。
「な…何なのだ貴様は」
残雪は風に散る銀の長髪を気にも留めず、丹を凝らせたような瞳をこちらに向け静かに立っていた。
曲がり道の少ない山の一本道である。決して見通しが悪いわけではない。であるのに目の前に来るまで正十郎はまるで気が付かなかった。
「妻や自分の前にそうして現れ、一体何の目的がある?」
反吐を吐くようにいう。
残雪は面のような顔を微々とも動かさず、
「大変なことになったな」
とだけいった。
「何? 貴様は何を知ってるという!」
正十郎は勢い余って残雪の胸倉を掴む。米噛のあたりに凝っていた血液が双眸から噴き出すかのような感覚に見舞われつつ。
「貴様か! 貴様が噂を流したのではあるまいな! いえ!」
残雪は否とも応とも返さず、ただ一度おのれの外套の袷を掴み、一度下に引いた。ただそれだけで残雪の襟を掴んでいた正十郎の手は離れてしまった。
「私を疑うのも大いに理解できる」
だがそれは建設的ではないと残雪は頬に掛かった一筋の髪を払った。
「しかし貴様ッ」
「声を荒げずとも聞こえている」
残雪はまるで落ち着き払っている。一方の正十郎は、最前まで震え恐れ戦き、只管家路を急いでいた。人目に触れた御器被のごとくこそこそと。
「…貴様若しやあれか、あれだな。城の何者かに頼まれて自分を陥れようと…」
「蔵座の正統な後継者である狗賓正十郎を排斥する為立ち働いている、か」
「そうだ」
それしかない。咄嗟の思い付きというよりも兎に角何か反駁したくて口走った考えであったが、強ち間違っていまいと正十郎は思っている。
「だとしたら私を斬るか」
そういわれ正十郎は、改めて腰に下げた二本の重みを思い出す。
蔵座から逐電する前に残雪を斬っておくのも悪くない。
刀とは本来人を斬るためにあるものだ。
「斬る」
震える手で脇差の柄を握った。
「すると私は、むざむざ斬られに出てきたようなものだな」
「そうなるな」
「仮に人ひとり追い落とすような策を練りつつ、それでは余りにもお粗末な」
「そんなこと自分は知らん」
いいながら正十郎は、あまりにも鯉口が鳴るものだから思わず刀から手を離した。
「知らん」
無意味に繰り返した。
噂を拡めたのが残雪ではないのか…
早くも揺るぐ。
「少しだけ考えればわかること。たとえ真実お前が反旗を翻したとして、その叛意に乗っかる者が幾人居ると思う」
「お、お前とは無礼であろう!」
「そうだな。それでどう思うのだ」
「それは…」
「現国主は決して聡明ではない」
「…何がいいたいのかわからんが」
正十郎は片眉を吊り上げ、口を半開きにした。
「権勢はあるが政治に興味がなく、愚昧。担ぐ神輿としてこれほど格好の者も居らぬ」
「神輿とはなんだ。妙な暗喩はよしてくれ」「担ぐ神輿は軽い方が良い。具合の良い神輿を捨て狗賓正十郎に付き従う者が果たして居るのか。どう思う」
「神輿とは御山様のことか」
残雪は再度どうなのだとだけ問うた。
「…そんな者居らぬ。自分のごとき下級士官に従う者など。先祖が誰であれ、自分など今の権勢を脅かす存在ではない」
「当然だ。狗賓家一族郎党合わせて十にも満たぬ寡兵で、どうして一国一城を脅かすことができよう」
「ならば何故噂が」
その質問に残雪は珍しく表情を付けた。
「近頃何者かから恨みを買った覚えは」
「そんなものない」
「以前にこうした噂が広まったことは」
「ない」
「先代が存命の頃もか」
「それは…自分が物心付く前のことはわからん。しかし自分がそうであるように、先代も先々代も静かに生きてきたはずだ。どうしてだ、どうして…」
自分の代になってそんな過去の話が。
気付けば残雪に相談しているかのようなていになっている。つい先刻まで正十郎は斬るの斬らないのといっていたはずなのだが。
残雪は一切感情の籠らぬ目で正十郎を見ている。
「貴様は一体なんなのだ」
自分の許に現れ、妻の前に現れ、曖昧模糊とした話をして去って行く。
「いえ!」
残雪は正十郎の怒声にまるで揺るがず、宙に向け広げた片掌を情けない男へと向け、
「狗賓、お前はどうしてこの地に居る」
そう問うた。
「どうして?」
どうして。
「そんなもの、居るも居らぬも」
今生へ出でてよりこっち蔵座に在った。狗賓家はこの先も蔵座に在り続けると思っていた。しかし確かにどうして自分は蔵座に居るのだろう。否、それはだから蔵座に家があり仕事があるからで。
本末転倒しているだろうか。否、そんなことはないはずだ。
散漫な思考の結果、正十郎は小さく唸ったのみ。
「待て。自分以外の者ははたして意思を持って蔵座に…む。何の話だ。今はこちらが問うていたはずだ」
残雪は右手人差し指の先でおのれの鼻の頭を、親指の腹で顎先を触り、無声音でそうだなといった。
「明確な意思を持って日々を送っている者など此の世にひと握り、それはそうだ」
そして残雪は僅か肩を張った。その動きは暗に、おのれはそのひと握りの中の者であると誇示いるように正十郎には見受けられた。
世の流れに在り、おのれを強く保つということは、実際様々な抵抗や障害があるもの。いわずもがな、世の流れが常に自分の在り方に沿ってばかりではないからだ。
考える迄もなくそれは大変な生き方だ。
正十郎はそうして生きる者どもに強い憧憬を抱きつつ、しかしどこかで鬱陶しさも覚える。それは多分にやっかみを含んでいると認識をしつつ、それでも美学の強過ぎる者とは共に生きられぬと正直に思う。尤も、日々おのれを練磨し生きていくことを是としている人間であれば今の正十郎のような状況に置かれた場合何らかの対抗策のひとつぐらいはひり出せたかも知れぬ。
正十郎とは、世間という川の流れの底、余程の天変地異がなければ動かぬような大岩の下でひっそりと生きてきたような人間だ。流れに逆らう生き方はまるでわからず、ひとたび岩の下から這い出たならば、泳ぎ方はおろか息のし方すらもわからぬまま流れに呑み込まれ沈死すること必定の身。しかし、今まで盤石に思えていた大岩を動かそうと(たとえ噂にせよ)している何者かがいる以上、これ以上この川で生きていくことは儘ならず、
「逃げる意思というのもあろう」
喪曾利といった。
残雪など何処の馬の骨とも知れぬのに。
所詮正十郎に危機管理など無理なのだ。
残雪は賢明だなと返した。
「賢明? みっともないの間違いだろう。噂は噂でまだ何もはっきりしていない」
「頼益がお前に叛意有りと断じてしまってからでは遅かろう」
「そうだ。否」
何を正直にいっている。そこでやっと、正十郎はおのれの温さを顧みる。そして不器用に取り繕う。
「そうした選択肢もあるということだ。じ、自分は逃げたりは」
しないがなと尻すぼみにいった。
「士分というのも大変だな」
「ど、同情かそれは」
「くだらん」
「何」
「不必要なものを多く抱え込み、必要なものでも外聞の悪いものは取り入れぬ。ただ、そうした見栄を張る部分を含めて士分の士分としての価値があるのかと思ったりもするが。何れ私には真似できない」
「貴様にやっとうは似合わん」
そう。自分は士であり、残雪は民だ。その生まれついての差に気付いて、正十郎は何故だかほんのわずか安堵した。
「真似のできようはずもない。見栄であろうと何だろうと、それが民間の者には持ち得ぬ士卒の美学…だからだ」
「美学は良い」
「いいのか」
「良い。尤も方向が間違っていなければな」
常に日陰の暗い所を好んで生きてきた。今自分がどちらを向いているかなど正十郎は考えたこともない。
「いつかは果つる身であるならば、何を拘る必要がある。などといった考え方はしない方がいい。至高の目標があるならば兎も角、凡人にそうした思想は只の無気力と意味を同じにする」
「そ、それはまあ、ないが」
「諦観もないか」
「ない、のかな。否わからん。それでも立ち向かおうとは思わないのは確かか」
そこが賢明だというのだ。残雪は褒め言葉にしては唾棄するようにいった。
「今は立ち向かう時機ではない」
「今は? 今も明日も、そんなもの」
「しかし不本意だろう。あらぬ嫌疑を掛けられ、結果追われるように生国から出奔するのだ」
「く…悔しくなどない。それに自分は逃げはしない」
「逃げるのを少し待ってみないか」
「な。だ。逃げぬ」
「待ってみないかと提案している」
「…い、今逃げねば取り返しのつかぬことになるやも知れんと、貴様がいったのだぞ」
「今のままならばな」
「どういうことだ」
「施策次第で凌げる」
「どう凌ぐ」
風。
散る髪。
翻る外套。
残雪は華奢な足をおのれの肩幅ほども広げると静かに此方を指差した。
暴力を顕示せずとも威圧感は出るのだなと正十郎は他人事のように思った。
「私に任せてみないか」
「何を任せる」
「不穏当な噂を払拭してやろう」
「下らぬ甘言」
「私のいうが甘言であるか、お前に確かめる術はない」
びゅう。
風ばかり強い。天から山肌を舐めるように吹き下ろす蔵座の風は、鼻の穴が矢鱈に乾くばかりでこの地には何の恵みも齎さない。
「確かに確かめる術などないとも。それでも人を疑うことくらいはできるぞ。だいたい貴様、自分を助けていったい何を得る」
「それをいえば私を信用するのか」
「…そういうわけではないが」
残雪は小さく鼻を鳴らした。
家と共に当然のように受け継いだ名跡。その名に寄り掛かるばかりでおのれの芯を鍛えることを怠っていた正十郎は、どうにも地に足が付いているように窺える残雪に時折何かを仮託したい誘惑に駆られる。
「利」
「り?」
残雪は頷いた。この寒風に頬を染めることもなく、それどころか残雪の肌は益々生体から乖離していくようだ。
一向に生き物らしからぬ男は、まるで人間を演じるかのように若干声を張っていった。
「我は利で動く。人須らく。違うか」
「利。金か?」
「金銭ばかりではない」
「うむ、まあ」
出世欲や物欲や、性欲や名誉欲や、身の丈以上にそうしたものを得ようと欲さば、大いに利が絡んでくるもの。否、欲ばかりではない。正十郎のようにただただ一族が安穏と暮らせることができれば幸せだといったとて、利を活かし利を産まねばその安穏な暮らしは継続適わぬ。残雪のいうのはそういうことだろうか。
「概ねそういうことだ」
「…また心を読むか」
「他人の心など読めるはずもない」
「しかし」
正十郎は残雪と対峙して初めて、まじと白面を見た。
「自分に策とやらを授けて、貴様は何かの利益を得ると」
「ああ」
「しかし矢張り」
「どうにもお前はしかしが多い」
残雪の発する言葉は大言壮語のようであり的確な鞭のようでもあり。何れにしても正十郎のような人間には多く苦痛を与える類いの言葉である。
こいつとは馴染めぬ。そう正十郎は思っている。
どうせ自分は逃げ出すのだから。
「繰り返すが、逃げ出すなら早い方がいい」
「逃げん」
「そうか」
妻を説得し、郎党を説得し、家財を纏めしているうちに数日は過ぎよう。そんな中でも誰にも怪しまれぬよう城には出仕し続けなくてはならない。
正十郎は吐いた言葉とは裏腹な胸算用をしている。
残雪が城に注進に及ぶということは…。
「…」
気づけば残雪の姿はもうなくなっていた。
正十郎は盛大に溜め息を落とした。
まだ具体的な問題は何も起こってはいないのだが酷く疲れた。それでも不思議と恐怖感はない。心労で磨滅してしまったものか、この期に及んでまだ現実感を獲得していないものか。
「残雪ならば本当に」
どうにかできるというのか。
一時は甘言であると判じたが、正十郎にはおのれを謀って利が得られるとは思えぬ。しかし逆に、おのれを利用して利が得られるとも思えぬ。だからいつもの自分の経験則に則って判断を曖昧に、迂遠に残雪の申し出から背を向けたものだ。
何れにせよ城内には、正十郎が謀反を起こす可能性があるといった不穏当な噂が蔓延している。現今はっきりしている事実はそれのみで、故正十郎は逃げねばならぬ。
立ち向かうか。
「まさか。だいたい何にだ…」
この閉塞感から脱し得るには逃げ出すしかないと先刻思い切ったではないか。
「ただ」
否。
何もできぬし、残雪など信用に値せぬ。何処に止宿しているかも知らぬし、どうして繋ぎを付ければ良いかもわからぬ。
「否頼らぬ」
取り敢えず妻にいうのは少し待ってみようか。しかし時間はなく。頭がずくずくと痛み正十郎は結局頭を抱え、嗚咽のような唸りを長々と洩らし、息の途切れる寸前に、
「どうすればよいのだ!」
叫んだ。
どれだけ煩悶したところで妙案のわいて出ようはずもなく。
帰宅後、家の者と会話らしい会話はなく、夜はまんじりともせず過ごし、翌朝早めに城へと向かった。
着城するなり飯綱を探した。
飯綱はすぐに見つかった。数人の同輩と話をしている。正十郎がそれなりの勇気をもって声を掛けると、飯綱の周囲にいた数人がこちらを向き正十郎の存在を視認した途端顔を見られるのを憚るようにそそくさと立ち去って行った。
その中には昨日の若い士卒もいた。
「わかり易いね」
とは飯綱の弁。
「今の若いのは」
「そう、昨日の。半崎拾三と名乗っていたけど」
「ハンザキ…?」
どこかで聞いた名だ。暫く考え、正十郎は思い出す。
「ああ、西館の下男の名か…」
「なにをぼそぼそと」
「かばねがハンザキなのだな? かばねが」
下男にかばねのあろうはずもなく。
正十郎は錯綜する我が頭を強く振った。
「…しかし奴ら、何も逃げずともよかろうものを。獲って喰うわけでなし」
「獲って喰われるでしょうよ」
「え」
「皆巻き添えを食いたくない。あんたの傍にいるだけで危険なんだ、最早ね」
「な」
そうなのか。
そうなのだ。
「どうして逃げなかったの」
「いや。もう少し様子を見た方がいいかと」
「そんな余裕はないでしょう。逃げるなら逃げる、じゃなかったら」
「なかったら?」
昨日とは打って変わって今朝は無風。空には雲もない。それでも薄暗い日というのはあるものだ。
飯綱は暗い瞳にやはり憐憫の情を滲ませ、ぼつりといった。
「戦うのみ」
「ああ」
もう陽は見れぬかも知れぬ。