その四 『東の館』
その四
『東の館』
西の館でまた人が殺された。
下男、侍女と来て、今度は遂に三光坊家から遣わされた士卒が斃れたようだ。
士、がである。
幾ら相手が主君の愛妾といえど、幾ら今が永い平時だといえど、本職の軍人がそうも簡単に殺されるものだろうか。
私は一人悩乱する。
相変わらず確たる証拠のない話である。それでも数日に亘って三件続いたとなれば事情も少々違って来はしないか。もし仮に何処かの誰かが何かの目的があって虚言を弄しているのだとしたなら、反対にこうも矢継ぎ早に事を起こすまいとそう思うのだ。否、そんな虚言何の意味もないだろうが。
私の中で虚実は縷々入り混じる。
実際虚も実も区別は付かない。
何もかも投げ出して私は関係ないと、そう声に出していいたい。
残雪など知らない。
火を消せなどといってない。
私は何も関わっていない。
厭だ。知らない。そう思い切れたらどれだけ楽であるか。
西の女は好きではないが、人を次から次へ殺めるほどに追い詰められている状況にどう思っているものか。負の感情は箍が外れ、遂には家の者を殺め、それでも、
蝋燭の火が消える。
しかし実際それは怪異などではなく、つまらぬ工作でしかない。提案された当初は鼻先で笑っていた、その程度の。しかし今は、あまり効果の出様に、今では逆様にこちらが追い詰められていた。
何なのだ、西の館の主は。見当違いの逆恨みだろうと、何故其処までに闇を恐れるのだとそう思う。闇を恐れ、闇に追われ、やがて下男を槍で突き殺す。それがどういった状況の下行われた惨劇かはわからないが、聞けば顔面をひと突きとのこと。現場はそれは凄惨な有り様だったに違いない。下男を突き殺した時西の女は錯乱の中、少しは安堵したのだろうか。これで灯かりが消えることもない、これで安眠が得られると思ったのだろうか。下男を殺したことに対する呵責の念と、これ以上闇が拡がらぬという安堵の念と、一体どちらが大きかったのだろう。しかし火はまた消え、館は闇に塗れた。一度安堵してからの恐怖の再来だろうからこの衝撃は一方ならぬものがあった筈だ。
下男。
侍女。
士卒。
三人。
私が決の下したことで、もう三人もの人死にが出てしまった。
事の重大さを忘れる為、私は以前にも増しておのれを磨くことに腐心している。心に隙を与えては自分自身の思いに潰される。そう思い常に気を張ってはいるものの、
濡れ縁から遠く、木々の間に間に窺える奇妙な音と提灯の灯かりのみの、小さき葬列。
その灯かりは酷く緩慢な動きで蔵座の墓所へと向かう。
いずくで人が死に、葬列が墓所へ向かう。
本来なんの不思議もない。しかしそれが今私には堪らなく怖い。
あれの何が、何を、其処まで恐れる。何度も自分自身に問うてみたのだがわからない。西の女が闇を恐れるのと同質の恐怖感か、それとも若しや知らず、あの葬列を人外であると思い込んでいるものか。我がことながら覚束ぬ。否。あれが人であるなら恐れることはない。矢張り恐れているのは人ならぬモノなのだろう。
夜は恐怖で眠れず、眠れぬ苛立ちから酒を呑み、煙草を吸い、結果食欲が落ちてしまっている。
これでは西の主と同じではないか。
このような姿、あの男に見せらりょうか。
今も晩秋の黄昏刻に障子を開け放ち、その開けた障子の縁に背を預けて煙草を吸っていた。
今朝から満足に口も漱いでいない為、口の中もねっとりとしていた。長いだけの棘髪も結うてもおらねば梳いてもおらぬ。
傍から見たなら私の方が余程ヒトならぬモノに見えることだろう。
人を呪わば穴二つ掘れとは、こういうことをいうのだろうか。私が西の女に対して放った呪いは見事に返ってきているようだ。
「…」
不図思う。残雪を呼び付け、何かしらの責任を取らせようか。悪くない。しかし生憎伊福部は今朝から不在で、戻りは明日らしい。それでは誰に残雪を呼びに行かせようか。尤もどこへ起居しているのかは知らぬ。
手を叩いて人を呼ぼうと障子から背を離した時、視界の隅に白い塊が見えた。
「嗚呼…」
いつの間に。
残雪が柔らかく端座していた。
外は曇り。而して宵にはまだ間のある刻限である。私の居室にも、館の何処にも照明は灯っていない。今がこの館に於いて、人の起きている時間帯で一番暗い刻ではあった。
それにしても。
暗色の中の無彩色。
加えて残雪は、地べたを這う虫の如く気配がない。
厭な存在感は有る癖に。
「だ、誰に断って此処に居るのだ」
「今更誰に断る必要もない」
発する言葉は変わらず無礼である。
「ふざけるな。身分を弁えたらどうなのだ」
「弁えて事が上手く行くのなら幾らでもそうしましょう」
薄墨色の室内に白面だけがぼんやりとこちらを見ている。
私は残雪の顔を眺めつつ鼻から溜め息を抜いた。
こいつもヒトならぬモノか。
関わったが最後、私のような愚かな女は骨までしゃぶり尽くされるがオチなのだ。
「顔色が優れませんな」
「貴様のせいじゃ」
煙管の火種でも飲ませてやりたい気分である。
「この暗い中よく私の顔色が見えたものだ」
「いえ、まるで見えません」
「ふん」
相変わらず腹立たしい男だ。
それでも私は残雪に話を振る。元よりくどくどと残雪に絡んでやろうと思っていたところだ、手間が省けたと思えば良い。
「おい貴様、酒を付き合え」
否応いわさず私は手を叩き侍女を呼んだ。残雪は下戸だといっていたが知るものか。
残雪は押し黙って座っている。
私の知る男とは概ね鬱陶しく、即物的で感情的で、高圧的であった。
残雪はそのどれにも当て嵌まらぬ。
やがて白磁の瓶子とうるかの盛られた平鉢の載った膳部が運ばれてきた。添えられているのは金箔押しの塗箸。
侍女は先に私に酌をし、続いて残雪に酌をした。軽く会釈をして去る。
後で捕まえて問わねばなるまい、はたして残雪は普通の女にはどのように見えているものか。
私は酒を飲む。調子が悪い故まるで旨くはないが、二、三杯立て続けに飲めば酔うには酔う。但し気分は一向に良くならなかった。
「残雪、貴様も飲め」
残雪は猪口にも平鉢にも手をつけず、ただ黙して私を見ていた。この際、ずるずると居させて此の男にもあの奇妙な葬列を見せてやろう。それがいい。そう思い付くと幾分気が楽になった。
「ところで今日は何の用だ」
やっと来意を問うた。
「東様御悩の噂を耳にし罷り越した迄」
「ふん。誰のせいで気を揉んでいると思っておる。それで私が思い悩んでいるのを知り、貴様どうするつもりだ」
空の上は風が強いのか、いつの間にか雲が流されていた。冴え冴えとした三日月が顔を覗かせている。
残雪の顔が月明かりに映える。
髪の毛だけは頗る美しい。
私は再び残雪に酒を勧めた。
「夜な夜なやってくる物の怪が恐ろしいのでしょう」
「物の怪など此の世に居らぬ」
「恐ろしいのならば祓えば宜しい」
「居らぬというたであろう」
「何が」
私は思わず鼻の穴を広げて白面の男を睨みつけた。何がとは何だろうか。このような下郎に吐かれる覚えのある言葉ではない。
「な、何がだと? 物の怪など居らんといったのじゃ」
「居りませんか」
「お、居らぬ」
意地を張っている。そんなものは簡単に看破される。
「しかし祓いましょう」
「くどいぞ。祓うとは何だ。だいたいあれが物の怪であるとどうしていえる。あれはただの墓掘りの灯かりであるやも知れぬ」
「あれとは」
「じゃから、夜な夜な墓所へと向かう葬列じゃ…。音と、灯かりだけだが。ともかく西の館の死者を埋葬するための葬列」
「西の館から死者が出て行った形跡はない」
横着して足で煙草盆を引き寄せようとしていた私は一瞬固まった。
「…死者が出て行った形跡はない?」
加えてと残雪は抑揚なく続ける。
「此の数日蔵座で死人は出ておりません」
「何だと…西の館で三人死んだな」
「如何にも」
「そやつらの葬儀は行わないのか?」
「祓うのです、悪しきモノは」
「貴様が加持祈祷でもするのか」
「いえ、私は一切致しません。祓いの出来る者を知っているだけです」
「知り合いでも何でもいい、貴様のいう通り私は今妙なモノに取り憑かれておるわ」
若しかするとあの葬列自体幻覚なのかも知れぬ、そんな気さえするが。
「祓いましょう」
紹介しましょうと残雪はいって、そこでやっと笑みのような表情を作って見せた。途端に月明かりが翳った。
「明日また参上致します」
そういって辞去しようと残雪が片膝を立てたのを見て、
「待て。酒を飲め」
私は顎をしゃくっていった。
「飲まぬうちは帰さぬ」
「お戯れを」
「戯れるか貴様などに」
自分でもわかる。目が据わってきている。 残雪は色素のない瞳で私の陰険な眼差しを真っ向から受け止め身じろぎもしない。
否、色素がないのではなく、瞳もまた銀色だった。
「何だ、何を見ている。女が酔うのがそんなに珍しいか」
残雪は無表情に見つめる。その薄い唇はもう綻ばない。
「飲め」
残雪は月を見た。
何かを考えているように見える。
「せんぽく、かんぽく」
「何?」
「せんぽくかんぽく。東様の心を煩わせているモノ。違いますか」
「違うも何も私はわからぬ。ただ確かにそのような音は聞こえるが、それは墓場の古い食器が雨に打たれて立てる音ではないか」
「しかし雨の降らぬ夜にも聞こえるのでしょう。西の館で人死にのあった日には」
「よく知っておるな。貴様か、犯人は」
「だとしたら」
「斬って棄てるわ」
伊福部にいい付けて。
残雪は膳の上の猪口を手に持った。
つ、と口に付ける。
「精々斬り棄てられぬよう、気をつけましょうか」
「貴様がいうと冗談に聞こえぬ。それよりも酒は飲めないのではなかったかえ」
「ええ、下戸です」
「味が嫌いか? それとも悪酔いするか」
酒を飲むと上手く思考が結べませんといって、残雪は猪口を戻した。中身は殆ど減っていなかった。
「貴様、何の目的があって当館に出入りしている」
「目的は貴女の願いを叶えることです」
「気持ちの悪い。私と誼を通じ、その先に何を見ているのかと訊いておるのだ」
「正直にいうと思いますか」
「思わぬ。それでも聞かねばならんだろう」
今更な問いではある上、酒の力を借りて尋ねたに過ぎぬが。
私は自分の猪口に残っていた酒を一息に呷ると、瓶子に手を伸ばした。生憎中身は既に空だった。いつの間にそれ程飲んだものか。
残雪が自分の瓶子を手に持ち膝行にて近寄り、酌をする。
「今更だ、本当に。しかし情けない話、私も伊福部もわからんのだ、どうして貴様を雇うことにしたのか」
「堕府の遣いで此の地に来ておるのです」
「堕府だと? 嘘を吐くでない、本当のことを申せ」
「あまり詳しく聞かれない方が宜しいかと。累が及びます」
「どういうことだ」
「今ならば私一人のやったことといい逃れもできましょう。この館に出入りしていることを知っている者はまだそれ程多くない。加えてこの国の頂点は余り捨て目の利く御仁ではない」
「お、御山様を愚弄するでないッ」
「真実を申したまで。そして私の策は、御山様のそうした性質に合わせて立案されております」
「御山様の性質だと」
「何れ一枚噛んだ以上、余り私の邪魔はなされない方が良い」
「そ、それは脅しか」
「東様が揺るがないのであれば悪いようには致しません」
「揺るぐ?」
ぐいと酒を飲む。
米噛はずくずく痛みはじめているのに、頭の芯は冷めていく。不快だ。止め処なく不快だ。
「一見するに折角の御山様再訪に際して、然して飾っておらぬ様子」
「何をいう、私は日々我が身を磨いて…」
口も漱いでいない、髪も結うても梳いてもおらぬ。否、私は得体の知れぬ恐怖から逃れたいが為、意識を他所へ遣る為に日々…。
「磨いてないわ。そう、まったく」
本当に混乱している。じわじわと真綿で首を絞められるが如く。
「大変宜しくない」
「貴様にだけはいわれたくはないぞ。一体誰のせいで」
そもそもが御山様再訪の段も残雪の献策によるものではあるが。
「しかしその見目では折角の機会も逸しようというもの。それとも御山様は偏向した性癖が有るとか」
「だ、黙れ、ぺらぺらと」
「ならば身嗜みに気を配って下さいませ」
「ええ煩い、そんなことまで貴様に指図される覚えはない!」
つい激昂する。残雪の口車に乗せられているような気もするが、単純な感情の昂ぶりは簡単には止められなかった。
怒鳴った勢いで再び酒を呷る。
「いえ。残雪貴様一体誰を誑かして此処に居るのだ?」
「この館に出入りするようになったのはさる方と私の利害が一致したに過ぎません」
「だからその名をいえ。そいつも何だ、堕府に連なる者などと妄言を重ねるかえ?」
「さて」
残雪は笑いもせず私の顔を見ている。
見れば見るほど生物感の希薄な男だ。
「男か女か。それもいえんか」
「今更それを知ってどうなるものでもないでしょう」
そう臆面もなくいい放って、残雪は尖った顎先を触った。
「どうにかなるとかならぬとか、そうしたことではない」
確かに今更、残雪をこの館に入れぬことはできぬ。
伊福部は何も知らぬという。あの献身的な老僕が私に嘘を付くとは到底思えない。であるならば(飽くまで残雪の言葉を真実と仮定して)その、この館の者とやらに何かしらの欺瞞か策謀があるのではないか。
それでも矢張り、最も疑わしきは眼前の男である。
「貴様、民間であろう」
「如何にも」
不快感と怖気の向こうでじわりじわりと募る残雪への興味。
此の男は何者だ。
見回してみても答えがその辺に落ちていることもない。
残雪はうるかを見ている。物珍しいものでもあるまいに。
何故私は民間の、このような男に振り回されているのだろう。小賢しいばかりの、男振りも然程良くない男に。だからその腹いせにぽかりと空いた間に要らぬ言葉を混ぜる。
「貴様、女を知らんな?」
唐突な問いだ。意味もない。どうせまたはぐらかされるに決まっている。
「仰る通り女は知りません」
「女は?」
返答はあったものの、何とも含みのある言葉である。
そして残雪は何かを見切ったような顔をして、先の話に出てきた祓いを行う者の説明を始めた。
其の者、僧であるという。
「その者とは、衆道とかいうあれか?」
「なんでしょうか」
「否…何でもない」
それこそどうでもいい。残雪に男色の気があろうとなかろうと私は私のことのみを考えておればいいのだ。
顔を上げると残雪の蛇の如き眼が私を捉えた。否、蛇ならばまだ馴染みのある。それに白蛇であるならばそれは瑞兆でもある筈だ。 残雪は違う、私に凶なることばかり寄越してくる。
ならば何だ。
「私のことは良いでしょう」
「…貴様心が読めるのか」
「真逆」
体温のない、気配のない、闇に塗れ、地を這い、
狡猾にして、
身の内に毒を飼う。
「心が読めるのであれば事はもっと簡単だ」
こいつは蠍だ。
せんぽく、かんぽく。
「あ」
私は立ち上がり濡れ縁まで小走りで近寄った。
「残雪来たぞ! 聞いたであろう今の音を」
残雪は身じろぎもせず只黒目だけを僅か横に移動させた。私は俄かに興奮してひらひらと片手を舞わせ、銀髪の男を手招きする。残雪はそんな私に一瞥呉れただけで相変わらず動きはしなかった。
「提灯の灯かりは見えますか」
「あ、いや。まだ見えぬが…それより貴様、提灯云々まで知っているのか。誰に聞いたのだ? 私がしたのだったか?」
「はい、為さいました」
まるで覚えておらぬ。
「…まあよい。兎に角此方へ来よ」
私の再三の要請に残雪はやっと立ち上がり濡れ縁に立った。横に並んで立つと案外、背が高いことが知れた。
暫く待つが音は止んでしまった。
空で風が鳴っている。
「やんでしまった」
特別何かを意図しての言葉ではない。単純に間が空くのを嫌っただけだ。
残雪は瞑目している。そうすることで余計に生物感の希薄さが助長されているように思える。男としては駄目だが、悪い顔ではないな等と思う。
「貴様、生国は」
その質問にも意味はない。
残雪に横に立たれて、私は俄かに緊張していたのだ。
「雪囲囲です」
「ゆきがこい、そうか」
何となく耳に覚えのあるような地名だったが具体的な印象は何ひとつ浮かばなかった。それでも知っている振りをするのは無論虚勢である。
残雪は目を開け私の口元やら小鼻の辺りを見ている。
目の隅に提灯の灯かりが見えた。
「残雪見ろ、提灯ぞ」
正直助かったと思った。認めたくはないが知り合った当初から私は、残雪の毒気にすっかり当てられ続けている。
「成程。確かに提灯。ですが東様」
「ああ、わかっておる。確かにあれはあれだけのもの。あれ以上特別なことがあるわけではない。しかしな、西の館で死人が出るたびにやって来るのだぞ? ただでさえ私は…なんというかその」
まだまだいいたいことは山とあるが、言葉が巧く繋がらず具合のいい表現も出てきそうになかった。
「罪の意識でも感じておられると?」
「…そうかも知れぬ」
残雪は鼻で笑った。腹を抱えて笑う姿はまるで想起できぬ男であるが、その乾いた笑いは実に似合っている。
「相変わらず不敬な男よ」
もう怒りも薄れてきた。というより残雪相手にその反応は無駄なのだといい加減学習したといったところか。
「兎に角私はあの灯かりが怖いのだ」
怖いのだ、心底。
残雪は暫く目を細めて遠くの灯かりを眺めていたが、やがて音もなく障子を閉めると酷く穏やかな声でいった。
「禍は祓えば良い」
「禍かえ、これは」
「気に病んでおられる。病を催すものは禍」
「そうだ。私はもう厭なのだ」
つい泣き言が口から出てしまった。
すとん、と腰から床に落ちた。
「厭じゃ…もう厭じゃ」
せんぽく、かんぽく。
「確かにあれはヒトではないが、そう恐れるモノでもない。されども東様が怖いと仰るのならばそれは矢張り祓うべきでしょう」
私は耳を塞ぎ頭を振り厭じゃ厭じゃと繰り返す。
矢張りあれは人外であったか。
「ですから東様、身綺麗に為さいませ」
わかった、わかったからと私は涙声で答えた。
もう後戻りはできないのだ。もう誤魔化すことはできないのだと、その時やっと覚悟が固まった。
それでも涙は止まらなかった。
せんぽくかんぽく、
せんぽくかんぽく、
せんぽく、
残雪は二度手を打った。
私は衣服の袖で目尻を押さえつつ、その様子を窺った。
やや置いて障子越しに座す人影が見えた。影の頭は丸く、どうやら剃髪している様子。
「招じ入れても構いませんか」
独断で此処まで来させておいて今更な発言である。それでも私には断る理由もない。
「構わぬ…」
「はい」
残雪は未だ立った儘であった。立位で私を見下ろしつつ。
こうした展開は織り込み済みだったのだろう。残雪には私が泣き言を洩らすことなど承知の上だったのだ。
す、と障子が開いた。
月光を背に、姿の小さな僧がひとり深々とこうべを垂れている。
「おもてを上げよ」
何なのだろうこの不快感は。まるでずるずると、おのれの意思などまるでなく濁った沼の底へと嵌り込んでいくような。
この先こんな私に明るい展望は拓けているというのか。
否、いい。
今はあの忌々しい人外を祓うが先決だ。
僧はゆっくりとした動きで顔を上げた。
まるで女のように、色の白い頬の紅い、矢鱈に整った顔をした僧であった。そこいらの女房などより余程綺麗な顔をしている。
「御坊が祓うのか」
はい。
そう口の動きのみで返答して、僧は傍らに立つ残雪の顔を見上げた。心なしか双眸が潤んでいるようにも見受けられる。
矢張りそういうことかと私は心密かに思った。恐らくは秘密でも弱味でもないのだろうが、私は何故だか残雪を出し抜いたような気がして、僅かばかり気分が高揚した。相変わらず確かなことなどひとつもなければ、如何ともならぬであろう類いの話である。しかしどうやら私という人間は、そうした胡乱で瑣末な、幹の部分ではなく枝葉の部分にばかり気を奪われてしまうきらいがあるようだ。
枝葉の騒がしさに、延々根幹が揺らいでいる。
私は棘髪を撫でた。
「御坊、名は」
「叢原と申します」
「そうげん。かばねは」
日輪という国は姓を聞けばある程度その者の来歴が知れる。
「姓は有りませぬ」
「ない?」
「左様で」
それはおかしい。法門にある者ならば姓を名乗る権利がある。これも日輪共通の事実である。
私の疑問符の意味を解したのか、僧叢原は再度残雪の顔に目を遣り、やがて答えた。
「まだまだ修業中の身。学んだ寺院は日輪各国に御座いますれば。そうで御座いますね、拙僧はこの辺りでいう行人でしょうか」
「行人? まだ一人前の僧ではないとそういうことかえ?」
またも叢原は口の動きだけで肯定した。見た目も華奢だが声質もとても華奢で聞き取り難い。声だけは矢鱈と入り込んでくる残雪とは豪い違いだ。
「おい、残雪。大丈夫なのだろうな」
「叢原、どうだろうか」
「はい。この、」
せんぽくかんぽく。
「音の正体を見極めれば宜しいのですね」
私は俄かに慌てる。
「否、正体などどうでもいいのだ。この音とあの、」
私は閉められていた障子を開けた。
未だ蔵座の墓所の辺りにぽつんと、極めて小さな灯かりが灯っていた。
「灯かりを消してくれさえすれば。あれは人外であるのだろう?」
「はい」
「兎に角祓ってくれ」
本当にもう疲れていた。
今はただただぐっすりと眠りたい。
矢庭に叢原の読経がはじまった。
私はもう精も魂も尽き、平座りに両手を投げ出した格好で行人僧の様子を見ていた。
濡れ縁から外へ朗々と読経は続く。
先までの小声とは打って変っての大音声である。
館の者も何事かと思っている筈だが、それこそどうでもいい。
次第にその大きな声に煽られるように私の鼓動も高まった。鼓動の高まりは体温の上昇を生み、冷え固まっていた心が融けると共に若しやこれで悩まされることもなくなるのかと思えてきた。
乾。
叢原が床を踏み鳴らした瞬間、提灯の火が消えた。
私は奇怪な声を上げ思わず立ち上がった。 叢原がいった。
「どうやら退散致しました」
真闇。
月はまた隠れていた。
いつの間にか雨。
丁、丁と地を打つ。
「本当か。本当にもう出んのか」
実際提灯の灯かりは消えた。今はそれだけで十分だった。音も聞こえない。
「若し再度音と灯かりが現れ出でたならば、相手は余程手強いモノであると思われた方が宜しいでしょう」
「も、もう現れないのではないのかぇ?」
「拙僧の出来る限りのことは行いましたが」
「出来る限り…というと、若し仮に又あれが現れたとしたなら」
「残念ながら拙僧には手に負えぬ存在ということになりましょう」
「手に負えぬ…。否、御苦労だったな。褒美を取らせる、何が良い」
「褒美など、まだまだ半俗の身なれど金品欲しさに致したのではありませぬ故」
叢原はそういって穏やかに目礼した。幾度か見た三光坊家の菩提寺の住職よりも余程気品がある。金糸銀糸の法衣を纏わずとも、何とも高貴な佇まいである。品というのは本来飾って出すものではなく、こうして自然と醸し出すものなのだろう。
「そ、そうか」
しかし安心していいのだろうか。少なくとも今夜は静かに眠れそうだが。
気付けば叢原は姿を消し、残雪も外套の襟を直していた。
「明日また参上致します」
「ああ…」
とっとと残雪に自分の一部を委ねてしまった方が楽になれるのだろう。
立ち去る背を見るともなしに眺め、今からでも遅くはない、蝋燭の件を止めさせなければと不意に思った。
「ざ、残雪少し待て」
「すべて無駄になさりたいのですか」
残雪は振り向きもせずいった。
「な、何がだ」
私の浅薄な思考など読まれている。
案の定残雪は、
「蝋燭は明日も消えます。御山様がこの館を訪れる迄」
そういった。
「何時までも訪れなかったら…」
「何時迄も蝋燭を消し続ける迄」
お気を強くお持ちあれと結んで、銀色の蠍は闇に溶けていった。
蠍の毒はじわじわと私を蝕んでいく。
それでも今は思う。
この毒が総身に隈なく行き渡った暁には若しや、今とは違う何かを得ているのかも知れぬと。但しその何かは、私にとって善きものか悪しきものかはわからぬ。
翌午。
所用から戻ってきた伊福部が嗚咽にも似た声を洩らしいった。
「西の館で四人目が殺されました」
私は最早予定調和のような感覚を覚えていた。