その十二 『鈴蘭』
その十二
『鈴蘭』
宵待が目を覚ますと見知らぬ部屋の見知らぬ天井が先ず目に入った。
最初はあの山寺かとも思ったが、違う。
見知らぬ男女が絶えず部屋を出入りし宵待の世話を焼く。宵待の脇腹の傷はそれなりに深かったようだが臓腑はやられておらず、破傷風にもならずに済んだ。
命が繋がっただけでもましなのだろう。
「ざ、残雪は」
傷口の当て布を替えにきた女をつかまえ尋ねる。女はやわらかく笑い、さあ存じませんねえとやはりやわらかくいった。
当然ながら傷はまだ塞がっておらず、痛みもある。
「ここはどこだろう」
「ここは桔梗様の館です」
「桔梗…西様か」
すると女はくすくすと笑い、
「ここでは西様とはお呼びしませんがね」
といった。当然だ、西だの東だのいった呼称など所詮、頼益を中心に据えることではじめて成立するものだ。
桔梗と聞いて宵待は心の奥が波打った。こんな目に遭いながらもそうした感情は継続するもののようだ。まったく人というのは。
「なぜ桔梗様が自分を」
すると女は困ったような顔をして、やや下膨れた我が頬を撫でた。
「あまり話すとお身体に触りますよぅ」
「構わん。話し過ぎで死ぬことはない」
「あらあら。と申しましても、私どももよくは存じません。なんでも道了尊様は、桔梗様のお知り合いだとか」
「お知り合い?」
どういうことだろう、宵待にはさっぱりわからなかった。桔梗とは面識はない。
尤も宵待が一方的にその顔を見に行ったことはあるが。
そもそもいったい誰が自分をこの館まで運んだのだろう。まさか残雪が。
宵待が再び口を開こうとするのを女は大袈裟に遮って、
「目が覚めたんなら御食事を御用意しましょう」
といってそそくさと退室していった。
ひとりになった宵待は、見慣れぬ天井を眺めながら考える。
残雪はどうした。
狗賓は。
飯綱や伊福部は。
城はどうなった。引き返した偽堕府軍は今は素知らぬ顔をして普段の蔵座の生活に戻っているものか。
暫く後、二段重ねの膳部を持ち、先ほどの女が戻ってきた。
一の膳には濁酒と見紛うほど薄い粥と赤紫蘇と胡瓜の御香香が。二の膳には表面を焦がした味噌と生卵が載っていた。薄い粥とはいえ全部白米で作ってある。このような贅沢な膳を目にするのは久しぶりであった。
粥と味噌の香にしばし気を奪われる。
「傷は痛みますかね?」
でも食べにゃ良くなりませんわと続けざまにいって、女はてきぱきと支度をはじめた。とても小柄であるのだが、どこか頼り甲斐のある背中をしている。
「すまない、あの。城が、蔵座城がどうなったか知らないか」
「お城? どうなったってなんです? このところ御山様もお見えになりませんし」
「蔵座の城には今誰が」
「ああそういえば三日前、なんだか黒装束の一団が山を登って行ったとか行かないとか。それがなんか関係あるんですかねえ」
「三日前?」
「三日前。あれ、四日前でしたかしらん」
「…ざ、残雪は」
「ざん。なんです?」
「ならば飯綱は? 伊福部翁は」
「いづな? 伊福部と申しますと、その、鈴蘭様付きの士官様ですかね」
「そうだ、その伊福部だ」
「お亡くなりになられました」
「な」
宵待は思わず半身を起して、脇腹の激痛に悶絶した。女は再びあらあらと声をあげる。
「死んだ…?」
「はい。先生様は知りませんかね」
「なにをだろう…」
痛みに顔を歪めながら宵待は訊いた。
「鈴蘭様、どうも気を病んでいたらしくてねえ。まあこちらとあちらですからお互い交流などなくて、なんでしたらいがみ合っていたようなところもありますがね。こうなってみると何だか御可哀想に」
「それで…」
「はい。それで、その気狂いの病に罹った鈴蘭様をお斬りになって、伊福部様も自ら」
「馬鹿な」
そんな馬鹿なことが。
宵待は寺で出会った、あの頑迷そうな初老の士を想起する。
伊福部が腹を切って死んだ。
伊福部は願いが叶ったのか。
満足して死んだのか、それとも悲嘆に暮れて死を選んだのか。いずれ今の身体で確かめに行けるはずもなく、ただただ宵待には歯痒い気持ちに苛まれ、得体の知れぬ焦燥感に背骨を焼かれるのみ。
目の前の女に様々尋ねたところで埒は明くまい。
「先生、そういえば」
「な、なんだろう」
「謀反人が捕まったそうで」
「謀反人? 狗賓正十郎か」
「そう、それでございます。そのセイジュウロウ。年が明けて早々に磔刑に処するそうですよ」
「なんと」
本気で公開処刑にするつもりなのか。ならば残雪は今も蔵座主城に関わっているということかと、宵待は城があると思われる方向に顔を向けた。
「あ。それで思い出しましだけど、さっきの伊福部様。遺書といいましょうか、死ぬ前に書きつけを残していたそうでして」
「内容は」
その時。襖が音もなく開き、それはそれは美しい女が冷気とともに部屋に入ってきた。
「白菊、お下がりなさい」
白菊とは女の名。白菊は大層畏まり、姿勢を低くして部屋を出て行った。
宵待は桔梗に見とれている。桔梗は楚々とした仕草で膝を合わせて座り、
「お熱いうちにお召し上がりになってください」
と消え入りそうな声でいった。
「いや、頂きたいのは山々だが、どうにも身体の自由が利かんで」
平素の宵待であるならば食べさせてくれ程度の軽口は叩くものだが、どうにも桔梗のもつ雰囲気に呑まれてしまっている。
「そうですか。それでは後で白菊にでも手伝わせます」
「そ、それは助かる…」
「それで道了尊先生。いえ、三光坊宵待様とお呼びすればよろしいですか」
「ど、どちらでもお、お好きなように」
「わたくし相手に畏まられては、やり難う御座います」
といってはにかんだように小さな笑みを見せる桔梗は、とても弱々しく、そして甚く可憐であった。
「伊福部福四郎について聞きたい」
やや落ち着いて後、その宵待の静かな問いかけに桔梗はゆっくりと頷いた。少し呼吸が苦しそうだ。
「伊福部様は、下賤ないいかたをすれば鈴蘭様が好きだったのです」
「なんと。いやしかし」
「はい。宵待様はわたくしと鈴蘭様、そして御山様の関係はご存じでありましょうか」
その、どこか含みのあるいいように、宵待は中途半端な表情で口籠った。
「御山様。つまり三光坊頼益公は、我が父。鈴蘭様は我が母。加えて頼益公と鈴蘭様は実の姉弟に御座います」
突然の告白に宵待は大いに戸惑い頭の中を整理しようと一度瞑目し、すぐさま瞠目し、結果混乱した。
「わたくしは呪われた子」
此の世に落ちてはならない忌み児なのですと、桔梗は細い首を捻り、色の白い顔を横に向けた。
「なんとも、その。なんと申していいか」
宵待は半身もろくに持ち上げられぬおのれに酷く苛立っている。いたずらに気ばかりが急く。
透き通るように白い瓜実顔が宵待を見下ろした。
「わたくしは血の繋がった姉弟の間に生まれた不義の子」
繰り返す。
「な、ならば頼益は、自分の子をその、めか否、側室に」
桔梗は果敢なげな笑みを見せた。
「頼益はそのことを知ってるのか?」
「正直わかりません。いえ、知っていて側に迎えたのかもしれません」
「知っていても知らなくても、ろくでもないがな」
その通りですと桔梗は受けて、
「汚らわしい。我が身に流るる血がとても忌まわしい」
と唾棄するように続けた。
「いや…」
「よろしいのです。わたくしはそれを受け入れるところからはじまりましたから」
ならば果敢なげに見えるはその決意が根幹にあるが故なのか。しかし西の女桔梗とは、もっと屈託なく、もっと無邪気ではなかったか。さては記憶違いかと宵待は考える。そもそも宵待は桔梗とこうして面と向かうのははじめてのことなのだ。よもやこのような状況で念願叶うとは思ってもみなかったが。
「ちなみに鈴蘭様、我が母は自らと頼益公に血の繋がりがあることも知らなかったと聞き及んでおります」
その落ち着いた声音から推し量るに、桔梗から悪感情の発露は感じられない。
「床に臥しておられる方にする話ではないのは重々承知しております。ですが、耳に入れるなら早いほうがよいだろうと思いまして。いずれ貴方はこの国を支配なさるお方」
「お、俺が? いや。まあそれは…。しかしその、鈴蘭さんはその、あんたを産んでおいてあんたが実の子だと知らなかったっていうのかい?」
「はい。元々子のできにくい人であったそうですが、昔わたくしを産んだ時も死産であったと偽りを信じ込まされたようなのですね」
「誰がそのような嘘を」
まさか残雪がその頃からこの国に関わっていたのかとも考えるも、桔梗は予想外の名を口にした。
「伊福部様です」
「…あの爺さんが?」
「実の弟との間にできた子です、先行きなど未来などないに等しい。それでも生まれた子が女であったことが幸か不幸か、蔵座の村落でも他国でも知らぬ場所へと落とし、貧しくとも普通に生きてほしいと」
結局宵待は痛みを我慢して上半身を起こした。仰臥したまま聞ける話ではない。
桔梗は敢えて諌止はしない。
「しかしアイタタあんたは此処にいる」
「はい。長じてから自分の出生を知り、様々考えた挙句」
「…知ったって、誰から」
「養い親の家に文が残っておりました。毎年幾らかのお金を送るかわりにわたくしを養育してほしいと、その旨書かれた文です。養い親は元々は城勤めだったようで、伊福部様と多少は面識もあったようです。縁といえば縁ですね。わたくしは伊福部様を頼りこの国に戻ること叶いました。ですが」
愛妾の身。
「端から汚れた身です、子を成さぬならどうでもいいとその時はそう思いました」
「その時は」
「わたくしにはある思いがあったのです」
「復讐…かい?」
「そうではありません。憎んでいないといえば嘘になるでしょうが」
「しかし、いくらあの爺さんの紹介があったとはいえ、来歴もはっきりしないあんたをよく頼益は側室にしたな…まあ、わからなくもないが」
怪我で身体は酷く弱っているのに、いやそれがせいか、宵待は目の前に端座する女をまじと見てやはり美しいと感じ入り、あまつさえ欲情した。
桔梗は宵待の色味がかった眼差しを受け止め、そしてさらりと受け流した。
「その頃は御正室様も今よりお元気であられましたし、鈴蘭様もお若く、それは美しくあられた。ですからきっと、新しいおもちゃが欲しかったのでしょう」
ただのおもちゃではない。
とても美しい、玩具だ。
「あんたはその、鈴蘭様とは似てはいないのかい?」
「似ているようです」
頼益は時折桔梗の顔を見てはなにごとか考えているような表情を見せていたそうだ。しかし桔梗にその表情の意味を尋ねられるはずもなく、頼益がおのれの実の娘と知って桔梗を側室にしたのかという疑問は宙に浮いたままとなった。
「わたくしは兎に角、この国を変えることのできる者とその時機を待ったのです」
「この国を変えるためにあんたは蔵座へ戻ってきたのか」
祝福されぬ生の元凶の側室となってまで。
「ただ蔵座に戻ってきてもどうにもなりません。でも確かな算段があっての行動でもありませんでした」
「たしかに国を変える気ならそれなりの立場に立たないとどうにもならんだろうが…。こういっちゃなんだが、この国はそうまでして守るような国かい? そもそも何をどう変えるつもりだった」
「いずれ訪れる外圧に屈するか、内から崩れ落ちるか、それはわかりません。でも遠からず蔵座は国として立ち行かなくなるのは火を見るより明らかです」
だから宵待は蔵座を守らなくてはならぬ。
「つまりあんたと俺の望みは同じってことなんだな。しかし俺は兎も角…ってあんた、俺の素性は、ああ知ってるんだな」
「はい、存じております」
答えて、桔梗は両手を突いて深く丁寧な辞儀をした。
「よせ、そんな有り難いもんじゃねえ。それより身を擲って尽力するほど、この国にいい思い出なんぞあるまい」
なにせ生まれてすぐに何処とも知れぬ家に落とされたのだから。
桔梗はゆっくりと頭をあげた。額の真中に一筋静脈が浮いている。
「生まれた国とはそういうものではないのですか。現状どのような形であれ、過去がどうだったのであれ、たまらなく恋しいもの」
その言葉は宵待の耳に少し痛い。
「まあ俺も、三光坊を継ぐのが頼益だとわかっていれば…」
桔梗は目の端を若干窄めた。
「聞いた話では頼益様は、国主を継ぐ以前は高位の文官だったはず」
「ふん」
宵待にはまるで覚えがない。尤もその頃は三光坊姓は名乗っていないはずだが。
「兎も角一度俺が消えて、頼益が国主になったことはあんたにしてみれば不幸中の幸いだとか、な」
宵待は桔梗が頷くのを待つ。そうして自分の心を少しでも軽くしたかった。
桔梗は頷きはしなかった。
「貴方様が消えても消えなくてもわたくしの身の穢れは変わりません。それでもわたくしはこの国に戻ってきて、どうにかして蔵座を良い国にしようとしたことでしょう」
凛としている。
身の穢れがと繰り返しているが、なんのこの女は美しい。
「それで残雪か。あんたはあの男を信用しているのか?」
「信用といえるかどうかわかりません。ですが残雪様の持ってこられた策が最も実現可能のように思えました。とても不思議なこともいたしましたけど」
結果として間違ってはおりませんでしたわと、桔梗は口元を袖口で隠した。
「残雪とはどうやって知り合った」
「伊福部様の話はよろしいのですか」
「いや、その前に聞きたい」
「飴買を介しました」
「アメカイとは」
「ああ、飯綱という名前なのですね、普段のあの人は」
「飯綱だと? あんた、あの男と繋がっていたのか」
「詳しくは存じませんが飯綱がこの館に出入りするようになったのは、彼が蔵座城に出仕する以前だと聞きます」
「てことは仕官したのか。あいつはわざわざ蔵座に仕官したってのか?」
今の蔵座など。
こんな未来のない国に進んで仕官するなど信じられぬ。
「仕官なのでしょうか。飯綱という名の士卒の籍だけ残っていたから拝借したと、わたくしにはそういっておりました」
「飯綱、なあ…」
蔵座城天守での出来事を思い出す。
あの時、銭神廿郎が現われなければ宵待は確実に残雪の命を奪っていた。
残雪は自分が死んで後は飯綱に任せるようなことをいっていたように記憶している。
「飯綱、ああ、飴買か。あいつはナニモンなんだ」
誰ともなく呟くその言葉に、桔梗はわずか首を傾げた。
「いや、いいんだ。独り言だ。…まったく、それにしてもよぅ…」
伊福部は国主を謀り、飯綱は偽名だった。
おのれの来し方をきれいに忘れ、宵待は悪酔いでもしたように気分が悪くなる。
確かに頼益は、逃げ出した前任者、つまり宵待から国主の座を引き継ぐ際に人臣の大部分を入れ替えた。重臣などは総替えである。お陰で宵待が蔵座に戻った時は誰ひとり自分の顔を覚えている者がおらず、兵法指南役などと身分を偽るやり方でしか、再び国に関わることができなかった。その人臣入れ替えの混乱を利用し今までどこに隠れていたか知れぬ有象無象が一気にわいて出た。
なにもかもが手緩いこの国ならではの話だろう。他国の管理体制、政治状況からはまず考えられぬ。
石切と伊福部の兄弟は宵待の代から蔵座に居たことになるが、正直その当時のそのふたりを宵待は知らぬ。
所詮宵待の代にしてもその先代にしても、国主は最高執政官ではなく神輿の上の飾りでしかなかった。神輿の上にましますのは神であり、神などは妄りに下界の者と関わってはならない。
宵待は正式に蔵座国の継嗣と定められて以降、身辺にはいつも同じ老人がひとりだけ近侍し身の回りの世話一切合切を切り盛りしていた。早くに死別しているとはいえ親の顔も毛ほども覚えておらぬ。
関係ねえか。
宵待は無意味に桔梗の唇を見た。
「わたくしは」
「ああ」
「わたくしは残雪様に、この国はこのままでは駄目になるといいました。残雪様はその通りだと。だから変えたいのだと重ねて申しますと蔵座を変えるだけが望みかと逆様に訊かれました」
「それで」
「憎き父と、哀れな母をどうにかしたいと」
残雪は承知したと応え、母鈴蘭は実の弟との爛れた関係から(強制的に)脱却し、そして頼益は国を追われた。
「…少しは気持ちが軽くなったかい」
「誰ひとり幸せではないのです、軽くなどなりません」
伊福部様の話をいたしますねと、桔梗はそこでやっと肩の力を少し抜いた。
「伊福部様は鈴蘭様のことを思うがあまり、鈴蘭様の望みを叶え、且つ不義なる関係を清算したいと願ったのです」
老僕の心中を察してみるものの、宵待の如き唐変木にはまるでわからなかった。
「鈴蘭様の望みとは今一度御山様の寵愛を受けること。伊福部様は鈴蘭様に好意をもったがゆえ望みを叶えようとし、それでもそうした関係はやはり良くないのだと思い悩んだのだそうです」
「どっちつかずのまんま、伊福部の爺さんは残雪のような男と関わりを持ってしまったってところか」
あのような男に揺れる心持ちのまま接触していいわけがない。宵待ですら意志は固く身の中央にあれども、常々残雪に引き摺り回されているような不快感がある。
「尤もわたくしはすべて理解しているわけではありません。ですから実際に鈴蘭様の館でどうした話し合いが行われていたのかはわかりませんけれども」
「確かにな。残雪に聞いてもまともに答えやしないだろうし」
実際には残雪は、伊福部の望みを大成させた結果副次的に鈴蘭の願いをも成就させたに過ぎない。しかしそれは多分、どちらでも一緒なのだ。誰の望みであれ大局的にはなんの影響もない。
それでも。
「鈴蘭様は気が狂れておしまいに」
当然だろうが、そこまでは伊福部は望んでいなかったはずだ。
宵待は座相を変えようとして脇腹の傷を思い出す。
「…気が狂れるのがわかってたならあの爺さんは残雪の言葉に応じなかったと思うぜ」
桔梗はそうなのでしょうねとどこか気の抜けた声で返して、つと天井を見上げた。
桔梗は天井を見たまま、自分が残雪の策に乗り、結果として鈴蘭を狂気の坩堝に貶める一助となったことを訥々と語った。
せんぽく、かんぽく
「後悔してるかい」
「しておりません」
「強いな」
「時間がないのです」
宵待はその言葉の真意を問おうとしたが、桔梗の果敢なげな眼差しを見、つい口籠ってしまった。
「伊福部様は」
そして桔梗はやっと、老僕と、悲運の女主の最期を語りはじめた。
※
伊福部福四郎が漸う責務を果たし夜陰に紛れ東の館へ戻ってみたれば。
館内至るところの障子は破られ、調度は毀され、様々の衣が床といわず庭といわず散乱していた。
酒と吐瀉物の強烈な臭気。
「姫」
呼ばわる。
返事はない。
鈴蘭が物狂いとなって、伊福部はこの館に奉職する者どもを皆やめさせた。それゆえ今は鈴蘭の身の回りの世話は一手に伊福部が担っていた。
酒は飲むが食事は摂らぬ。
寝ても覚めても御山様、見りゃれと繰り返す。いったいなにを見ろというのだと伊福部が問うても、見よ見よと泣き叫ぶばかり。湯浴みもせず、着ているものも替えぬから全身垢みどろで異臭を放っている。
これが自分の望んだことなのかと、伊福部は何度も自問した。確かに伊福部は、鈴蘭の気持ちを国主から引き剥がしてほしいと残雪に懇請した。あの蛇蠍のごとき男にすれば、結果は結果として純然として有る以上、結果より派生した様々な事象は取るに足らないことであるのかも知れぬ。
所詮毒虫は人心を解すことなどない。
今はそう思わねば精神の均衡を保てずにいた。
元より狂うことがわかっていたなら。
忸怩たる思いは尽きず果てず今も伊福部の老いたる身体を責め苛み続けている。しかしこの程度の苦痛、迷妄の奥底に沈む我が主に比ぶれば屁でもないと、伊福部は一度大きく息を吐いた。
がたりと奥のほうで物音がした。伊福部が目を遣るとおどろ髪を振り乱し、純白の羅を肌蹴た鈴蘭が幽鬼のごとく立っていた。
一瞬で伊福部の肌が粟立った。
鈴蘭の黒目は生気などなく、まるで白濁していたからだ。
「そこへいらっしゃいましたか」
鈴蘭は音の出るほど伊福部の皺面を睨みつけ、
「誰じゃ」
そういった。
「御山様のみじゃ。御山様のみ我がもとへ」
「拙者は御山様では有り申さぬ」
「誰じゃ」
真実目が見えないのか。物狂いが起因しているものか。
「伊福部に御座る」
「知らんわ。去ね」
ここで目の前から消えねば、鈴蘭はそれは物凄い剣幕で騒ぎだす。絶叫し物を壊し果ては失禁し、やがて気を失うのだ。そうしたことを何度か繰り返した今、鈴蘭の身体には生傷が絶えない。伊福部にはそれがとても痛々しい。
伊福部は一度目を逸らすも、
「姫、鈴蘭様」
呼ばわる。
鈴蘭は濁った目を伊福部に向け、去ね去ねと叫ぶ。
「貴様など知らぬ。見たこともない」
加えて鈴蘭は気持ちだけ二十年は遡ってしまったようである。二十年前といえば鈴蘭が頼益の側室にまさになろうとしていた時期である。無論西の女もまだいない。いくら支配家三光坊の血筋であったとはいえ官僚の身分から側を囲っていたことに関しては今更なにもいうまい。
一士卒にしか過ぎなかった伊福部は当時、妻と子を続けて病で喪い、その事実を中々受け入れられず、とても無気力で只日々を生きているような状態であったものだ。平素まるで付き合いのなかった腹違いの兄、石切彦十郎がそんな半弟を見るに見かねて、おのれの仕事を手伝わせることを名目に傍に置くほどに。
結果として石切のその厚意が、伊福部の後半生を決定づけた。
当時石切は頼益の祐筆をしていた。
頼益は周囲の諌めるのも聞かず、石切に鈴蘭を側室として貰い受けたい旨を認めさせていた。
鈴蘭側は割合すんなりと頼益の申し入れを受け、金銭の受領を以て鈴蘭を側室として送ることを決めた。
この時点で頼益が、鈴蘭と自分に血の繋がりのあるを知っていたのかは詳らかになっていない。
伊福部は不惑に届こうかという齢。鈴蘭は十代半ばの、身のみが勝手に成熟していくことに軽い混乱を覚えていた頃の話である。
鈴蘭が蔵座へやって来るその日、露払い役をやったのも伊福部である。無気力の塊であった伊福部は、下命あればなんでも従った。
ちなみにその日は、元服間もない正十郎の初登城の日でもあった。まだ幼さの残る正十郎は遠目に鈴蘭を見、その美しさに暫く呆然となっていたものだ。
特別専任職のなかった伊福部はそのまま鈴蘭の館付きとなった。
当時の鈴蘭は美しい分勝ち気で、育ちがいい分世間知らずであった。気に入らなければ喚き散らし、気に入ればどんなものでも何回でも欲しがった。伊福部などは最初はまるで近寄らせてもらえず、口を開けば罵倒され、面倒事をよく押し付けられたものだ。
それが仕事であるからと、そうした我慢を自らに強い、それでもどこか若い鈴蘭に死んだ妻や子の影を見ていたのかも知れぬ。
顔も心もまるで似てはいないのだが。
或いは亡き妻と子を愛し直す作業を鈴蘭を介して行おうとしていたか。しかし愛し直すといっても作業項目はなんら変わらぬ。伊福部自身がおのれの感情を勘違いしてしまったとしてもそれは無理からぬことではあった。
想い、叶え、諫め、守る。
やがて毎夜訪れる頼益に対し、負の感情が芽吹くのもやむなしか。
相手は主君の愛妾である。懸想してどうにかなるものではない。加えて伊福部のごとき岩に似た男にとって、想うことと枕を交わすことは同義ではない。それでもその想いが至純であったかといえば、決してそうともいい切れぬ。繰り返すが伊福部はおのれの欠落してしまったものを勝手に鈴蘭で補おうとしていたに過ぎない。だから常に妻を労わる優しさと、子を見守る親心を以て鈴蘭の世話をした。鈴蘭は何年経っても伊福部に懐きはしなかったが、やがて頑迷そうな顔にも馴れが生じたか、気が乗れば二言三言愛想をいうようになった。その状況を伊福部は我が誠意が通じたのだと判断する。誠意ではなく勝手な感情の押し付けであるのだが、伊福部自身、意識的に鈴蘭に亡き家族の面影を仮託しているわけではないゆえ、表面上は巧くいっているように見えた。
本質をほじくり返せばおそらく世の中というのはそうした齟齬の繰り返し。しかし余人は敢えて本質を見比べたりしない。それが無意味で下品で、極めて野暮な行為であることを承知しているからだ。
しかし、勘違いも継続すれば本質となるのか、間違いも年経れば事実に化けるものか。
そして、西の女桔梗の登場により、鈴蘭と伊福部の距離は一層縮まった。
それでも鈴蘭の第一義は頼益の胤を宿すことに違いはない。
鈴蘭の感情が僅かなりとも伊福部に寄っていったかといえば、それはまるでなく。伊福部が期待しているようなことは鈴蘭の内部には形成されていない。
特別な情念を抱いていたのは伊福部のみであり、鈴蘭の想いは昔も今も一貫している。
気づかねば花の咲いているのも同じ。
伊福部はおのれの頭上に得手勝手に咲かせた花の香りに酔い、
不義なるは断つべし。
実の弟と姉の爛れた関係を断つことを肚に決めた。お節介も甚だしい、勘違いを起点とした歪んだ思い。鈴蘭にすれば迷惑この上ないことであったろうが、伊福部は表面上、鈴蘭の願いを叶えるため奔走しているような顔をしていたから、その頃も後も問題が起こることはなかった。
そうして人は想い、
擦れ違い、
或いは愛し、
そして厭い、
寄り添い、
離れ、
生きていく。
人はひとりで生きられぬという。
それはおそらく事実である。
人は人との関わり合いの中でのみ人を名乗れるものだ。
物狂いとなった鈴蘭は、はたして人を求めているのか。
求めている男は永劫訪れることはない。
気持ちは鈴蘭から離れ、今はもう男自体がこの国を捨て、遁走してしまった。
「姫」
鈴蘭は四つん這いになり、畳の匂いでも嗅ぐかのような仕草で其方此方に濁った目線を飛ばしていた。まるでけだもののようだ。
「姫」
懲りず呼ぶ。伊福部のような男にとって信念を持った反復こそが誠意である。誠意を以て接すれば何事も通るのだと、悪意のないまっすぐな気持ちであればどのような無理強いも構わぬのだと、口に出さないまでも思っている。
鈴蘭は尺取り虫のような動きで緩々と立ち上がり、
「誰じゃ」
繰り返した。
「伊福部福四郎に御座る」
あれだけ尽くして、今はまるで覚えていないその事実が酷く哀しい。
鈴蘭のことを想い、鈴蘭のためにのみ奔走してきたこれまではなんであったのか。
伊福部は一歩、足裏で畳を握るように踏み出した。
「寄るな。誰じゃ」
「伊福部に御座れば」
「わ、わらわに寄ってよいのは御山様のみぞっ」
更に一歩。伊福部は間合いを詰める。鈴蘭は我が身を抱き、錯乱に錯乱を重ねたやつれた表情を歪ませる。
この時季に伊福部は額に汗を掻いていた。
「姫。鈴蘭様」
「寄るな、下郎」
とても哀しい。
自分はこれほど愛しているというのに。
「姫」
鈴蘭の形相は鋭く険しく、まるで弛むことはない。
この物狂いは治るものなのだろうか。
伊福部はあたりを見渡して、荒れ果てた東の館に大きなため息を落とした。
これから先に光はあるか。
また一歩。
鈴蘭は喉の奥から悲鳴をもらして、寄るな寄るなと叫ぶ。
物狂いが治ったところで、元の暮らしを取り戻すことはできまい。この国には、蔵座にはもう、鈴蘭の居場所はない。
皆、壊されてしまった。
愉しい生活ではなかったがそれでも、誰かのために何かをするというのはそれなりに充実していた。
残雪に頼らなければ良かったのか。
あの暮らしを諾々と続けていれば、少なくともこのような崩壊はなかった。
しかし。
伊福部は奥歯を噛んだ。
あのまま何もしなければ鈴蘭は頼益のほうを向いたままであったろう。
そのようなこと、いいわけがない。
自分は間違っていない。
自分は鈴蘭様のために。
「姫、身が清められましたな」
「なにをいっておる」
「御弟君と閨を供にするなど、やはり」
どうせ狂っている。伊福部は思いのたけをぶちまけることに決めた。
「頼益公はもう蔵座には居りませぬ。逃げ申した。故二度と」
大きな音がした。無意味に足元を見ていた伊福部は、音のしたほうを見た。
鈴蘭が平手で壁を叩いていた。
「知っておったわ」
「…は」
「知っておったわ、伊福部」
「姫?」
「姫はやめよ」
「姫?」
「実の弟だろうと国主には変わらぬ」
鈴蘭は我が腹を強かに打った。
「その胤を」
伊福部はうろたえ、ただ立ち竦んだ。
「胤をこの身に宿せば、私の価値は上がるというもの」
「価値などと」
「それがこの館のためであろう?」
「い、いつお知りに…」
「あの男が国主となってはじめて私と同衾した、その夜よ」
「…それでは姫はすべてを知った上で」
「不義? 人の倫? やかましいぞ伊福部。そのようなもので腹は膨れぬ。私はこの館の主である以上、どんなことをしてでもここの者たちにいい暮らしをさせねばならなかったのだ」
今はもう皆いないがなと少し寂しそうにいって、鈴蘭は乱れたおどろ髪に手をやった。
「いつから正気に…」
「そんなもの覚えておらぬ。しかし気づけばこの館にはお前と私のみじゃった。いや、狂うていたというなら最初からじゃ。もうその境などわからぬ」
正気と狂気の境。
そんなもの伊福部にもわからぬ。
伊福部は片膝を落とし、項垂れた。
「頭をあげよ。お前はお前なりに私のためにやってきたのであろう?」
「はい…」
「ならば頭をあげるのだ。もう夢を見ることもない。気にすべき館の者どももおらぬ」
「情けなし」
おのれが守っていると、目の前の女もこの館も、おのれの力で守っているのだと常に思っていた。伊福部は項垂れた姿勢で一度大きく痙攣する。それはおのれの驕慢な思いに対する強い拒否感だった。
「情けなし」
「いうな」
片膝立ちの姿勢から、もう片方の膝も落とし両膝に両手を突き伊福部は肩を震わす。顔色青黒く、涙は出ていないものの確かに泣いていた。
「止めよ、女々しい。貴様の想いも受け止めた。決して相容れぬものではあるが、今となっては拒否しても仕方あるまい」
「姫…」
「姫だけはやめんのだな。それもらしいといえばらしいが」
鈴蘭は笑う。
下から仰ぐその顔は、
神々しいばかりに美しかった。
そして伊福部は意を決する。
散々すべてを壊して、立て直す術も思いつかず。
鈴蘭はもう一度、今度はとてもやわらかな笑みを見せた。
その笑みを、伊福部はやはり我が意が通じたのだと勘違いする。
思えばこの二人は、そうした勘違いの連続であったのだ。
最初から、
伊福部は素早く抜刀すると一閃、鈴蘭の胴を薙いだ。
東の館の女主人は一瞬呆気に取られたような顔をして、絶命した。
伊福部は返す刀、切っ先をおのれの腹に突き立てる。
今は血溜まりに沈む、上手くは愛せなかった女に精一杯の、純粋な未練を残しながら。
最期迄。