その十一 『蔵座城』
その十一
『蔵座城』
この国を変えよと残雪はいう。
正十郎は馬の一歩一歩に遅まきながらの決意を固め、後背に群れなす蔵座の民の圧力がいつしか興奮に変じ、あまつさえそれに酔いはじめていた。
衆人の耳目を集めることを極力避けて生きてきた正十郎にとって、当然これだけの他人の想念を背に負うことなど初めての経験である。
興奮で恐怖を押し遣るのだ。
号令を発せよと残雪がいう。
「み、皆の者ついて参れ!」
声が裏返ってしまうことなど、瑣末。
誰ひとりそのようなことを気にかける者などおらぬ。
正十郎は手綱を握り、見様見真似で馬腹を蹴った。馬は暫時間を置き、やがて歩速を速めた。
残雪は正十郎の斜め後ろを行き、付き従う者どもに声をかける。
「歩みを速める、遅れることのないよう」
郎党頭が野太く返事をした。釣られるようにして黒く染まった群衆らも声をあげ、或いは拳をあげた。
戦をするわけではないと残雪はいう。
これからこの群れがやろうとしていることは大いなる茶番である。
命懸けの茶番劇。
蔵座に於いて、生きることとは即ち、
死なぬこと。
しかし、その必死に繋いだ生に近々破滅がくるのだと残雪はいう。
夢の如き大国がやってきて
根こそぎ全てを奪っていくのだと。
「狗賓、鬨をあげさせよ」
「ど、どのように」
「どのようにでも」
「鬨など…自」
「貴様の思うように」
「まるで軍を率いているようだ」
「振り向いてみよ」
「…」
「貴様の、軍だ」
「武器もない」
「必要がない」
「しかし、蔵座は軍を出さんか」
「蔵座に軍はない。それは狗賓、貴様もよく知っているだろう」
「だが、軍はなくとも兵は、兵卒は百人はいるのだ」
「不練不熟も甚だしい兵だ。そもそも命令をくだす者がおらぬ、指一本動かせまい」
「それでも軍は軍だ」
たとえ機能不全を起こしていようとも、武器を持った人間の群れがあの城にはいる。
「私を信じられんか」
「…そういうわけでは」
正十郎は傾斜の上方、蔵座の主城を見上げた。大手門が開きそこから兵卒が突出する様を想像して、ぐ、と奥歯を噛んだ。
「自分は、死にたくないのだ」
「わかっている」
さあ下知せよと残雪は声で正十郎の背を押した。
正十郎は二度ほど頷き、一度口を開け残雪になにかを尋ねようとし、残雪に手のひらで制せられ、ようやく意を決したように息を吸い込んだ。
わ…
「我は狗賓正十郎である。我は蔵座の正当なる王である!」
正十郎はちらりと残雪を見る。残雪は表情を変えることなく、瞼のみで頷いた。
「昔日三光坊に簒奪されたものを取り返すこの行軍は正義である!」
叫びつつ正十郎は遅過ぎる決意を固める。
残雪の望むとおり絢爛豪華な傀儡になってやろうじゃないかと。
「わ、我に従うは正義である!」
自分のため、家のため、後ろに従う寒民のために。
「ただ我に従って駆けよ! よいな!」
郎党頭が応と答える。
「よいな!」
「応!」
「よいな!」
「応!」
声を飛ばしながら馬速をあげる。
群衆は遅れまじと歩みを速める。
この群れは謀反の奔流である。その流れに身を委ねることに当初二の足を踏んでいた者も、ひとたび入ってしまえば今度は群れから弾かれることを怖れる。
残雪の思う壺だ。
行軍はやがて駆け足になり、
そして、
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
弥増す勢い。
叫ぶ自身の声と周囲の声とに群れは酔い、正十郎を先頭にした一団はひと塊りとなって城目掛け疾走する。
決して緩やかな登攀ではない。
勢いは増す。
最早群衆の頭には走るか死ぬかしかない。
正十郎は檄を飛ばし、無銘の刀を抜き先陣を駆ける。
黒い一団も吼えつまろびつ、走る。
野太く逞しく生命力の煮え滾った応声はやがてうねるように天空高く舞い上がり蔵座の主城へと轟いた。
轟音届く蔵座城では城内中央、老い松のある中庭で飯綱が叫んでいた。
「堕府の軍だ! 見よや外を! 堕府の軍が攻めてきたぞ!」
正門にある矢倉に駆け上がった数人が更に叫ぶ。
「黒い! 黒い一団がッ!」
早くも軽い恐慌状態である。
「黒は堕府の軍装だッ」
飯綱も慌てて見せる。兎に角煽らなければならない。
指示を仰げと何者かが叫べば、いったい誰にだと声が飛ぶ。指揮系統すら整っていないとは、飯綱は呆れそしてこの国はやはり壊されるべきなのだと確信する。
こんな国は存在する意味も意義もない。
「軍装黒染めは堕府軍だ。堕府軍が攻めてきたのだ!」
「ひ、率いているのはまさか」
狗賓か、狗賓ではないか。
叛意有りはまことであったか。
そちこちで言葉が乱れ飛ぶ。
蔵座兵に愛国心はあるのだろうか。
日輪最大の黒い軍と、干乾びている国と、天秤にかけて果たしてどちらが重いものなのか。他人の感情の機微を察することに長けていない飯綱には判断がつかない。
そうこうしているうち、数人が守りを固めるのだといって駆けだした。
そう、堕府の軍来たると騒げど現在見えているのは三十人程度である、戦って戦えぬこともない。否、本来兵であるならば兎に角先ずは守城こそを考えるはずなのだ。しかし蔵座という国は、武具を揃える余裕があるならば先ず冬の糧食を蓄える。
案の定どうするのだ、なにをすればいいと防衛意識が増すほどに混乱も増していく。
散々恐ろしいと聞かされた軍が攻めてくる焦燥感に蔵座の弱兵が耐えられるか。
残雪は無理だと判じた。
飯綱も概ねそれに同意している。
寄せ手から鬨の声があがった。近い。
その声は城内の混乱に拍車をかける。
何度も何度も鬨があがる。その声が堕府の黒い軍などではなく、蔵座の民を黒く塗っただけのものであることを知っている飯綱でさえどうしてなのか、
身震いがした。
派手な音を立て幾人かの男が城外へ飛び出してきた。先頭は伊福部福四郎であった。
飯綱は声を投げる。
「伊福部様、いかがなさいましたか!」
伊福部は答える。
「堕府の軍が来ておる!」
逃げるのだと血を吐くようにいって伊福部は搦め手門のある方向へ駆け去った。蔵座城の西の端にあるその裏門を抜けた先には、誰が作ったものか、蛇のごとくうねった細い道が七鍵方面まで延びている。
次々に搦め手門のほうへと走り去る上級士官らの冷え固まった表情を見るに、どうやら伊福部は煽動に成功したようだ。
飯綱は叫んだ。
「せ、拙者も連れて行ってくだされ!」
今この時機を逃さば死ぬると顔に書いて、慌てふためき恐れ戦く男を演じる。兵卒の恐怖心を煽り、ひとりでも多く逃走に向かわせなくてはならない。
「堕府になど敵うはずもなし!」
すると飯綱は、どうやら主戦論を唱えている同輩に肩をつかまれた。
「愚か者! 城を捨て逃げるというか!」
飯綱は身体を捻ってその手を振りほどき、両手を広げて叫んだ。
「愚かなのはどっちだ! 今見える堕府軍を退けたとて、いったい後方に何千何万の兵が控えると思っているッ。戦ってどうにかなるものではない。而して降ったならば、それは無抵抗のまま殺せといっているようなものではないかッ」
堕府という国は侵略後、余程の有能な者でない限り投降を認めない。
「ならば逃げるが得策。それとも貴殿らは堕府に登用してもらえる自信がおありか」
飯綱はとうに逃げ去った伊福部らの背を追う振りをして、そして一度立ち止まり、
「居残る愚はないぞ。考えずともわかる、蔵座に殉ずる価値はない」
主戦論者の後ろで、いまだ判断できず、ただ只管に周囲に迎合することのみに意識を寄せている兵卒どもに向けて、必死の形相を形作り飯綱は逃避への啓蒙を続けた。
生国ぞ、捨てるのかと何者かが叫んだ。
「ただそれだけだ。そんなもの一命を擲つ理由にはならん!」
「現世利益のみに人は生くるのではないぞ飯綱! 義を重んじずして何が士であるか!」
その義とやらを自分たちの都合のいいように振り翳して、いったいどれほどの国がどれほどの民を苦しめていることか。
大義名分を押し立て、したり顔で行われる虐行ほどたちの悪いものはないのだ。
人を支配するに義を前面に押し出すは、おのれの統治力のなさを声高に喧伝していると同義である。
それは残雪の言葉だ。
鬨の声が間近迄。
身を燃されるが如き相にて飯綱は怒鳴り返した。
「義で飯が喰えるか、子を育めるかッ! 義で人は護れぬわ! 逃げるのだ、最早指揮を与える者も逃げ出したのだぞ!」
主戦論者ではない兵卒が口を挟む。
「しかし御主君をお守りするのが」
守りたいのは主君ではなく、おのれの将来だろう。しかしそれは、彼らの中では完全に同義なのだ。
「女色にうつつを抜かしてばかりの何が主君か。その主君のせいでこの状況ではないか。少しでもまともな国主であるならば、せめて有事の対処くらいは決めていようぞ!」
違うかと飯綱は問う。問いに対する答えはない。それでも表の鬨に色を失くしつつ兵卒の群れは互いが互いの顔色を窺い続けた。なんのことはない、今すぐにでも逃げ出したいのだが、先頭切って逃げ出すのが憚られるだけなのだ。この期に及んで今後の処世に頭がいっている。伊福部が引き連れていった上層部ほど逃げ足が速いというのも問題なのだろうが、その見切りの良さが又人の上に立つ者の特性ともいえる。喫緊時の判断に情を介在させない。おのれの行動指針に情を挟みこんでいては指の一本も動かせなくなることを、蔵座の上層といえど理解しているのだ。人生経験の足りぬ若い兵卒どもにはまだそこがわからない。
まったく骨が折れる。
「この国を守ることに未来など微塵もなく、ましてや国主の楯になるなど美談でもなんでもないぞ!」
数人足を踏み出そうとする。
もうひと押し。
「蔵座での美しい記憶を思い出せるか。なにひとつあるまい。命を賭すならばもっとましなものにしろ」
更に数人。
「逃げればまだ生きることもできるのだ! 生きていなければ出来ぬことは山のようにある!」
いろいろ模索しながら言葉を発したが、どうやらそれが殺し文句となったようだ。最初はばらばらと数人が逃げ、やがて堰を切ったように蔵座城兵のほとんどが我先にと裏門へ殺到した。
偽堕府軍の雄叫びが聞こえる。
それでも逃げ出さぬことに自己を確立している者が数十は残っていようか。数少ない軍備に身を固め、一点大手門に視線を注いでいた。その眼差しは只管に真摯であり、飯綱のように世を謀って生きることに長じた者には若干眩しく映った。
潮時か。
煽るだけ煽って逃走を促し、次の段階へ入らなくてはならない。とりあえず一度城を出る。その前に正門上に設けられた矢倉が空になった間隙を突き、そこへと登る梯子を外しておく。幸いあたりはごった返しており、飯綱の奇妙な動きを気に留める者は誰ひとりいなかった。
飯綱はそれでも後ろ髪の引かれるような思いを覚えつつ、搦め手門から城外へ零れ落ちた。
※
我が城から我が兵が逃げ落ちていく様を見下ろしつつ、頼益はなにもできず、横に立つ児喰を殴りつけ、声にならぬ声をあげた。
「どうして逃げ出す! なぜ戦わぬ!」
児喰はなにも答えなかった。
頼益は更に大兵の士を殴りつける。最早頼益にとって頼るべきは目の前の忠臣しかおらぬというのに。
「そうだ、石切を喚べ。石切ならば」
その石切は既に私邸へと駆け戻り七鍵へ落ち延びる支度に忙しくしていることなど、無論無能なる国主は知る由もない。特に児喰が仕えるようになって以降、意識的に身辺から遠ざけていたのだ、今更なにをかいわんやである。
石切彦十郎は利口に過ぎた。
その点児喰は茫洋としており、無口で、なにより国主に諫言を吐かなかった。
殴りつける。
児喰の口の端が切れ、血が滲んだ。
殴られながらいったいなに思う。
道了尊はその赤銅色に染まった横顔を見ながら思う。とりあえず、伊福部も飯綱も無事責務を果たしているようだ。
さて自分は。
国主を見た。
この男は遁走するか。それともしがみつくだろうか。この男にとってのみ、この国は極楽であったに違いない。
逃げねば斬るか。
しかし今は丸腰である。
さすがに二本差しの大兵を相手に徒手空拳では分が悪い。そして残雪は、頼益は殺してはならぬと道了尊に厳命していた。どのような状況であれ生け捕りにせよと。それにどういう意味があるというのだろう。道了尊としては首のすげ替えを行うのであれば、古いものは斬却してしまうが得策のように思うのだが。
児喰がおらねば縊り殺すものを。
頼益がごとき男にいったいどのような利用価値があるというのだ。もとより三光坊は簒奪者の血。加えて頼益などは、その三光坊でも傍系の血筋である。どうあれ玉座に鎮座すべきではない。
貧しくとも営々と続いていたこの国を、ここまで寒々しくしてしまうとは。
実際道了尊は実に腹立たしい思いでこの場に立っている。是非とも目の前の出来損ないを斬り棄ててやりたい。
確かに道了尊がこの地で暮らしていた時分も、主家の継嗣と雖も冬期はろくなものを食べた記憶がない。三光坊の直系の末孫であった自分がそうだったのだから野に暮らす民などは推して知るべしだろう。それでも、その当時はまだ、蔵座に暮らす者の顔に今ほどの暗色は感じなかったが。
道了尊は自分の思い違いだろうかと、おそらくはじめて、現国主頼益、つまりは自分と血の繋がりのない従兄弟だか再従兄弟だかの顔を見詰めた。いったいどのようにして自分が逃げ去った後、三光坊の総代の座に座り得たものか。
極めて無能であるのに。
道了尊は今、酷く勝手な後悔に苛まれている。
蔵座国兵法指南役道了尊。
本来の名を三光坊宵待。その名の示す通り、現行蔵座国支配三光坊家の正式な後継者だったが、元服も近い或る年にまるで発作を催したように窮屈な将来に悲観し逃げだした。
諸国を巡り、身勝手に国を捨て去った罪を償おうと算段を練っていた矢先、残雪と知り合った。
何故自分が過去の蔵座国王だと知り得たのかは何度問うても答えない。
道了尊こと宵待に、蔵座の危難を知らせた者と残雪が裏で繋がっている事実を想像すらしないあたりは、やはり育ちの良さが出たものか。
残雪はこの後、残った兵卒らは同士討ちをはじめ更にその数を減らすといった。
蔵座を只管に守らんとする者。
堕府に名を売らんと欲する者。
その相容れぬ志を持った同士は、迫りくる堕府の偽兵の圧力に曝され、やがて堤防が決壊するかのようにぶつかり合うだろう。否、ぶつかり合わずとも、売名側からすれば目の前の蔵座兵などは、堕府に阿るに当たり格好の獲物でしかない。手を拱いて見ているはずもなし。
宵待は天守から正門付近を見下ろした。すると、正門上への矢倉に登る梯子がなくなっているのに気づいた数人が右往左往しているのが見え、更にはその背に忍び寄る影がこれも数人あった。
宵待は短く反応した。
忍び寄った影は抜刀し同輩を背中から斬り伏せてしまった。
正門付近だけではない、耳を澄ませば明らかに今までとは異質な混乱の声がそこかしこからあがっている。
やがて攻城側は正門を破壊し、蔵座城域に進入してくることだろう。さもなくば裏切った蔵座兵が閂を抜き去って開門せしめるかも知れぬ。
宵待は舌打ちをする。
このままでいいのだろうかという焦りにも似た思い。そして蔵座の、気概も気骨も技術も馬力もない弱兵に対する落胆。
偽の脅威を操り恐怖を煽り、先ず保身を考える者どもを退去させ、そして同士討ちを誘発させ、やがてこの騒擾の元凶が悠々と正門を潜ってやって来るのだろう。
本当にこのままでいいのか。
不図宵待が横を見遣れば、忠臣を殴っても埒の明かぬことにようやく気づいた国主が、今度は歯を鳴らしていた。おのれの命があとどのくらい保つのか考えているものか、逃げる算段を編んでいるものか、不摂生と酒色とで浮腫みきったその顔からは判別はつかなかった。
児喰の顔は変わらず硬い。
このふたりはいったいどうするのだ。
それに意識を払いつつ、宵待は突如あがった歓喜の声に外を見た。
閂が外され門が開く。
予想できていたことだが、蔵座に於いて一命を賭して城を守ろうとする者より、一も二もなく逃げ出す者、そして大国に媚び諂おうと仲間を殺す者のほうが多いとはなんと嘆かわしいことであるか。
頼益はどう思っているのか、宵待は兎に角それが気になる。
城門が開き、紅い具足を纏った男が入城してきた。知らぬ者がその姿を見れば、さぞ立派な大将が現われたと感嘆の声をあげるに違いない。
貧相な馬に乗った銀髪の男が続く。
「む」
震えてばかりいた頼益が唸った。無理もない。残雪が天守には届かぬ程度の声で黒い一団に何事かを伝え、それを聞いた者どもの大半が城から去ってしまったのだから。
裏を知っている宵待に当然驚きはないが、まるで実を知らぬ頼益や児喰などにはさぞかし奇異な光景に映っていることだろう。
着実に残雪の策は段階を上げている。
しかしどうしてか、やはり宵待の心中はさざめく。
このままでいいわけはない。
やがて、引き返させた偽堕府兵と、門域に待機させた家付きの郎党らのかわりに、造反した蔵座兵数人を引き連れた正十郎が天守にやって来る。
「児喰殿、如何なさる」
児喰高明は憤怒相で考え、やがて重い口を開いた。
「斬る」
「誰を」
「蔵座に仇為す者はすべて」
「御尤も」
すると児喰は床を鳴らして次室へ消え、やがて宵待から引っ剥がした得物を手に戻ってきた。
「貴殿もこの国の兵法指南であるならば」
「皆までいわずとも、当然そのつもりでおりますよ」
宵待は大鎌を手にし、一度頼益を見た。
頼益は威厳など欠片もなく、床にへたり込んでいた。圧迫し続ける恐怖に脳味噌をやられたような、そんな顔をしている。
派手な足音が響き、激しく戸が開いた。
児喰が動く。
非常に大柄であり総身を鎧うがごとき頑健な体躯であるから動きは愚鈍であろうと、宵待は勝手に判断していた。
一番乗りは儂じゃ!
ならば一番槍は儂が!
目の色を変え国主へ殺到する蔵座兵に相対し、児喰は軽々と太刀を操り次から次へと斬り棄てていく。
非常に洗練された殺人剣であり、宵待の嗜好する近接戦闘に特化した攻守一体型の刀術であった。
宵待は児喰の動きを具に見ながら、児喰の操る刀術がどこの国のそれと近しいか考えていた。児喰は元々蔵座の者ではないと聞く。前歴はどこぞの国の有能な士卒であったのかも知れぬ。
三人、四人、五人、六人、
まだ絶えぬ。
掘っても掘っても残雪も正十郎も現れぬ。 天守へ至る途上、残雪が造反兵どもに蔵座国主の首の価値を滔々と説いたに違いあるまい。
七人、八人目の首は天井まで跳んだ。その一撃で児喰の太刀はひん曲がった。それでも腰のもうひと振りを抜かないところを見ると脇差のほうは飾刀なのだろうか。
「道了尊殿、助太刀頼む」
道了尊こと宵待は一歩も動かない。当然それは残雪との約束事である。
九人目が現れた。
「道了尊殿!」
斬ってはならない。
すべては現行蔵座の内輪での殺し合いにするのだ。
其処迄極まった状況を一体何処の何奴が覚えているという。その策を耳にした宵待の率直な感想に対して残雪は、貴様が見ているといった。意味がわからんと素直に返せば、偽りに偽りを重ねても要所では実を得よとの返答。余計に意味がわからねえとやや荒く問うたならば。
人間、それほど嘘ばかり吐けるものではないと傲然と残雪はいい放ったものだ。
九人目は太刀を大上段に構え、間合いも考えずに突進してきた。
児喰はおのれの太刀を横に薙ぎ刀身にたっぷりと付着した血のりを無防備にあいた九人目の刺客の顔面へと飛ばした。刺客は一瞬怯み、その間隙を突かれ児喰に顔面を鷲掴みにされ木の床に強かに叩きつけられた。床に、刺客の頭を中心に放射状に黒い染みが広がった。なんという怪力であるか。
児喰は返り血で真っ赤に染まった身体を起こし、
「道了尊!」
大喝した。
「情けなし、臆した」
宵待はいって、児喰の血まみれの顔を睨みつける。児喰は臆したのならば去んでも構わん、足手纏いだと吐き棄てた。
それにしてもなんという剛力だろう。本気で斬り結んで、果たして勝ち目はあるだろうか。宵待は背に負った得物の感触を確かめつつ考えている。
九人で止まっている。
造反兵はもういないのだろうか。ならばじき、狗賓正十郎が入ってくるはずだ。
宵待が児喰と現国主を捕縛する。そのように残雪に謀られて。
狗賓正十郎が姿を現した。
「三光坊頼益はおるか!」
天守の間に現れた正十郎の首根っこをつかみ、床へ押し付けたのは宵待であった。
「な、ど、道…」
余計なことを吐かれては面倒と、首をつかむ手に力を込める。
正十郎はわけがわからぬまま、顔も、目も真っ赤にして、涎を垂らし、鼻水を垂らしてもがく。その面のあまりの酷さに憐憫の情がわく。
本当にいいのか。
ぎしり。
残雪が現われた。これだけの騒乱を演出しておきながら汗ひとつ掻いていない。
「残雪」
宵待は呼ぶ。特に意味はない。
宵待に組み伏せられた正十郎も声にならない声をあげ、もがく。
残雪はまず腰を抜かしている現国主に目を遣り、次いで児喰を見た。宵待にも、その下で顔を朱に染めている正十郎にもひと目も呉れない。正十郎が身に付けた具足が矢鱈に華美であるだけに一層物悲しい。
「残雪っ」
再びの宵待の呼び掛けにも残雪は現国主を見、
「これが現実だ」
といった。
元来感情の発露のない男であるが、その声は普段に増して低く、なにもかもを殺した声であった。
「ひとたび戦乱に巻き込まれたなら、貴様を守る者はひとりもおらぬ」
頼益は床にへたり込んだままの姿勢で低く唸り、
「だ、堕府は、堕府はこの国を、土地を望んでいるのか」
少なくとも残雪はそう触れ回って群衆を煽動した。
「来ん」
「な…」
児喰は零れ落ちんばかりに目を見開いて、この奇妙な闖入者を凝視していた。
「来ない、と? 今そういったのか」
「ああ」
早くその謀反人を縛りあげろと、残雪は宵待に命令した。
奥歯に罅の入る音が聞こえたような気がしながらも、宵待は従った。懐にしまってあった麻縄で正十郎を縛り、猿轡を噛ませる。正十郎は涙目で、米噛に静脈を幾筋も浮かべながら震えていた。
宵待は横目に児喰の挙措を窺いつつ頼益に近づく。
残雪は革の外套を翻し、頼益と宵待の間に立った。
「頼益公はまるで知らんのだろうが、そこの者、本当の名を三光坊宵待という」
「さん…光坊宵待?」
「三光坊家の正当な世継ぎだ」
「よい、ま、」
うつろな眼差しで宵待を見、頼益はおのれの煮えた泥のような記憶の海を徘徊している様子。潜っても漁っても出てくるのは閨の記憶ばかりだろうに。
「先ほどまでこの城に殺到していた軍なのだが」
「だっ堕府の軍」
「あれはな、この国の民草よ」
ハァッと頼益は素っ頓狂な声をあげ、漸く立ち直りかけていたものが崩れそうになりながら、
「民ィ?」
やはり素っ頓狂な声をあげた。
「つまり官も兵も、そして民も誰ひとり貴様の蔵座支配を認めていない」
「そ」
いわれなくとも知っていると頼益は今度は怒鳴った。怒ることでほんの僅か回復する。
「自分は張りぼてだ。名ばかりの国主だ。それのなにが悪い! 皆好き勝手やってきて今更なにをいう!」
「善政を施して民意を得る努力もなければ、恐怖で縛り付ける工夫もなかった。いずれこうなることがわかっていながら、目先の快楽に溺れたな」
「だからそれのなにが悪い! わ、私は、傀儡よ。ただ居ることに意味があるのだ」
「そうだ。しかし傀儡ならば後ろ暗い過去のある血脈よりも、そこの」
狗賓正十郎。
「蔵座支配正統の家系のほうがふさわしい」
「な、なにがいいたい…」
残雪は革靴で木の床を踏み、居室の真ん中で止まった。
つ、と右手中指で額の真ん中に触れた。
「だが狗賓には死んでもらおうと思う」
ぐうとくぐもった唸りが響く。声も出せぬ身動きもままならぬ状況で、いったい正十郎はなにを思うものか。
残雪は容赦なく続ける。
「国を簒奪するに欲しいのは大義。しかし国を経営するに大義を掲げ寄り添った民意は邪魔となる。適度な均等を保つため、蔵座支配の正統なる血脈はここで絶つ必要がある」
それには宵待が言葉を返した。
「つまりは狗賓をいいように利用したということか」
「蔵座を建て直すためだ」
「おめえナニモンだ」
「貴様と議論をするつもりはない」
「殺すことはねえ」
「ならばお前は王になれんぞ。蔵座国民は狗賓に心を寄せている」
「殺せばその民意とやらは離れるだろう。だいたい俺はこの国の王様になりたいわけじゃない。ただこの国を守りたいだけだ」
今回の混乱の根にあるのは残雪の作出した大いなる欺瞞、大堕府の蔵座侵攻であるが、堕府や七鍵が蔵座を狙っているのは遠からぬ事実である。
「正統であろうと狗賓は謀反人、やりようはいくらでもある」
まあそのあたりは私に任せておけと残雪はいって、一歩頼益に近寄った。
頼益は金切り声で叫んだ。
「こッ児喰! 斬れ! こやつらを斬れ!」
児喰は喉の奥から、刀がありませんともらした。
「そ、その腰の脇差はなんだッ、まさか竹光ではあるまい!」
それに答えたのは残雪である。
「抜けんよ。その脇差は児喰高明、七鍵軍任官の際に下賜されたものだろう」
児喰は無言であった。
事実腰にさげた脇差の刀身には七鍵に生涯奉仕することを誓うと、同国特有のいい回しで刻印してある。
「この国であれば七鍵王から頂戴した刀をさげていても問題ないと踏んだか」
「よく調べたな」
「なにをいう。そもそも名すら偽っていないではないか、堂々としたものよ」
「ふむ…」
「お陰で貴方に関しては楽だったよ」
「自分に関しては、な」
苦渋に満ちた顔つきのわりに児喰の声は明瞭であり、落ち着いて聞こえた。
「認識が甘かったな」
頼益はふらりと立ち上がり、膝関節に油を差したような奇怪な足取りで大兵の士に近寄るとその胸倉をつかんだ。
「い、今の今まで謀っていたのか! いったいなにゆえッ!」
「蔵座と我が国七鍵を隠密裏に繋ぐため、拙者はこの国へ参りました」
「堕府に気取られぬためには蔵座の内部に食い込み、徐々に国主の意識を七鍵に近づけていくが有効と踏んだか」
とは残雪。児喰は尤もであると答えた。
「ならばあの、あの椿とかいうどこぞの貴族の娘も」
「椿様ですか。さて」
正体が知れて尚、児喰の頼益を見る目には変化がないように見える。
「とぼけるでないッ。あの女、ことあるごとに七鍵の話ばかり。いずれ堕府か七鍵、どちらかにつかねばこの国は滅ぶ。従うのならば七鍵にせよと枕を交わすたびに何度も何度も何度も…」
口角泡を飛ばす頼益を横から見、残雪は口元に手を当てた。どうやら笑っている。
児喰はやはり関係を否定した。
頼益は益々激昂する。
「ならばここへ呼んでやる! 椿! 椿!」
新しく建築中の妾館はまだ人の住める状態にない。それゆえ頼益は新しい側室、御牛車路椿を城内に住まわせていた。頼益の正妻は持病である肺臓の病を悪化させ、今や口を利くことも儘ならないとはいえ遣り過ぎの感は否めない。
果たして正室殿は今の状況に寝所で怯えているものか。今更ながら宵待はそんなことを考えた。
呼べど叫べど椿は来なかった。
それも当然で、椿は既に石切彦十郎に連れられて遁走した後であった。
たっぷりと間を置いて、そして国主は脱力した。
「蔵座の民は、今回のことで自分たちが国を変えることができると知った」
「お前が知らしめたんだろう」
「蔵座はな、頭のすげ替えだけではどうにもならぬ貧弱な国だ。その国がおのれの足で立ちあがり、今後も何処へも拠らずにいるためには民の力が必要不可欠だろうと、私は思うのだ」
「それを知らしめるために、狗賓をだしにしたか。片棒担いだ俺がいうことじゃないが、ほんとお前何様だ」
そして宵待は、もう少しで怒りに身を委ねそうになる自分をどうにか抑えつけている。
「実に有効に使わせてもらった。民意を束ねるに当たり、建国者の血脈ほど使い勝手のいいものはない」
「そんなもの、それほど大事かよ」
「当然だ。人はなにかを為そうとする際、他人ばかりでなく自分自身を納得させる行動意義を欲しがるものだ」
「ふん。それで今後狗賓をどうするんだ。俺はそこまで聞いちゃいない」
残雪は顔色ひとつ変えず答える。
「公開処刑だ」
「…公開処刑だと? 本当に殺すってのか」
「ああ」
頼益が少し動く。
その様を残雪が見、児喰が見、そして宵待が見た。
「頼益公、まだこの国の王でいたいか」
「居た、いや私は…」
居たいのだろう。当然だ。王の座から滑り陥ちて後、いったい頼益などにどのような展望が待っているという。
しかし残雪の極寒の眼差しはそれを許すはずもなく。
「いや。居たくはないもう、よい…」
頼益の支配は悪政とはいえぬまでも、現今の劣化した蔵座の象徴である。断罪はしなくていいのだろうか。
「児喰よ」
「なんだろうか」
「七鍵に戻って国主に報告するのだな」
「報告とは」
「蔵座は堕府にも七鍵にも与せぬ、屈しもせんとな」
「しかし残雪氏、いったい蔵座をどのように継続させる。我が七鍵が手を伸ばさずとも、いずれ本当の大国がやってこよう」
「国家永続の策略を敵国に教える愚はなかろう。早く去るのだ」
大兵はうむと低い声で頷くと、木の床を軋ませて踵を返した。
その広い背に向かい、
「いまひとつ」
児喰は振り向きもせず、なんだろうかと返した。
「七鍵で石切彦十郎なる者に会ったら伝えてくれ」
「なにをだろう」
「蔵座には戻ってくるな」
「了解した」
児喰高明は胸を張って城を去った。
宵待は二度ほどいいのかと繰り返した。
「七鍵は敵国なんだ。しかもあの児喰、本国ではそれなりの要職にあるのではないか?」
なにせ国主から刀を下賜されているほどの者である。
「あいつこそ殺したほうが良かっただろう」
後顧の憂いを断つのは戦時の常道。しかし残雪はやや眉間を開いていう。
「児喰を殺すなど、勿体なくてできぬ。それに今はまだ七鍵から不興を買うのは得策ではない」
「しかし石切は七鍵に逃げた。保身の為あることないこと吹くに違いない。七鍵に取り入るため蔵座の情報を漏らすに違いないのだ。…ああ」
その抑止力とするために児喰を本国へと戻したのかと遅ればせながら宵待は得心した。
「多少予定は狂ったが、これからだ」
「狂った? どこが」
「貴様は早々に頼益を殺すと思っていたが」
ひいと、頼益の悲鳴。
「お前が殺すなといったから俺は」
「律儀なことよ」
「殺してたらどうだってんだ」
いって宵待は頼益の襟首をつかんだ。
「あ? なんなら殺してやろうか、今」
「よせ。今はまた別の策の中だ」
「好き勝手いうんじゃねえ!」
宵待の咆哮に肝を冷やしたのは頼益と雁字搦めの正十郎のみ。
「そうやって人を弄びやがって。人はな、お前の道具じゃねえぞ!」
「意味の通じるようにいえ」
それはとぼけているわけではなく、残雪の本心であるようだ。
宵待は弓手に頼益を、馬手で残雪の胸倉をつかんだ。
「確かに俺はあんたの策に乗っかった。身勝手だろうと俺は俺でこの国を救いたかったからだ」
残雪は、頼益に声をかけた。
「なにをしている、早くこの城を出ろ」
「ふざけるな。お前の望みどおり俺が殺してやるよ」
再度頼益は悲鳴をあげた。
「心配するな、今更そんなことはさせん」
こいつッ。
その瞬間、明らかに宵待の目の色が変わった。以前宵待自身がいっていた、なにもかもどうでもよくなる瞬間が訪れたものか。
宵待は両手で残雪の胸倉をつかみ、力任せに持ち上げ、押し込んで板壁にその背を叩きつけた。
それでも残雪の顔色は変わらない。
落ち着いているというよりはやはり感情がないのだろう。
頼益は腰を抜かした姿勢で四肢を面白いほど散らせながら天守の間から逃げ去った。
いったいどこへ逃げおおせるつもりか。どのような場所でも生きられるほど強くはないだろうに。
それでも叩き殺されるよりはましか。
そして宵待は又、遅ればせながら気づく。残雪は頼益を逃がすため、わざと自分を激昂させたことに。
「残雪!」
「怒鳴らずとも聞こえる」
奴は本気で俺が殺すとは思っていない。
人は利や保身でのみ動くと思っている。
おのれに感情のないのが、
お前の命取りだ。
宵待は背の大鎌を構えた。
残雪の心は動いたのだろうか。
それとも、この展開も織り込み済みだというのか。
「蔵座を建て直すには」
「ああ?」
「聞け」
「聞くか!」
「蔵座を建て直すにはもう少し。後の策は飯綱に託してある」
「託す? なんだお前、だから死んでも構わねえっていうのか? ああッ?」
残雪は死ぬのは怖くないのか。
「いっときの感情に流されるもよし。しかし貴様がこの国に戻ってきた理由だけは決して忘れるな」
「死ぬのが怖くないてか? それとも俺が本気じゃないとでも思ってんのかッ?」
「死にたくはない。ただ私は人の気持ちというものが今ひとつわからん。兎に角今後は飯綱の指示に従うと約束せよ」
「お前の目的はなんだ。なんのためにこの国に関わる?」
今ならば答えるか。宵待はそう思って問うた。
「私はそういう者だからだ」
「意味がわかるようにいえぇ」
「目的も理由も意味はない」
「だから」
わからねえと叫んで宵待は鎌を逆手に握り残雪の尖った顎下にその刃を添えた。勢いそのまま顔面を削ぐつもりでいる。
人を人とも思わぬこの男、
機知ばかりが先立ち、信念もなにもないこの男を今後も生かしておくと、いずれ脅威となる惧れがある。
やはり殺すなら今だ。
「折角ここまで積み上げたのだ、しっかり最後までやり遂げよ」
蔵座を支配するに、残雪は邪魔だ。
「礼はいわねえ」
宵待はかいなに力を込めた。
そのとき。
「うわあああああああああああああッ!」
雄叫びとともに塊が宵待目掛け突進してきた。塊は宵待の身体にぶつかり、残雪を含めた人影は弾けて散逸した。
体勢を崩した宵待はなにが起こったかわからず、床に転がる塊を見る。どうやら人のようである。さては正十郎の縄が解けたかと思ったが違った。正十郎は未だ雁字搦めのままだった。
脇腹に激痛。
見れば短刀が深々と突き刺さっていた。
さては先ほど逃げた頼益が舞い戻ってきたのかと、宵待は床で丸くなって震えている塊に近寄るとその頭を引っつかみ、顔を見た。
「銭神…」
それは以前、この城の中庭で行った剣術披露の際に宵待が保身のために右手を切り落とした兵卒、銭神廿郎であった。
一命を取り留めたとはいえろくな治療も受けていないのは明白で、顔色青黒く目のふち赤く、呼気荒く大量の脂汗を掻いている。加えて若干の腐敗臭。おそらく傷口が膿んでいるに違いない。
銭神は膝を折った姿勢で鎌首を擡げ、
「ぁあなただけは許さないぃ」
そう呪った。
「中途半端なことをするからこうなるのだ」
残雪は緩やかな口調でそういった。
「お前がこいつを仕込んでいたのか」
「どうだろうな」
あの時の残雪は顔色を変えぬまま死を覚悟していた。
気づけば銭神は絶命していた。
「大鎌とは機能的な武器ではないな」
まるでなにもなかったかのようにそういいながら、残雪は宵待の脇腹に突き刺さる短刀を見つめ、その刃につと指先を触れ、指先の匂いを嗅いだ。
「どうやら毒類は塗っていないようだ、助かるかも知れん」
宵待は強烈に頭が冷えていくのを感じている。
こんなところで昏倒しては、残雪に寝首を掻かれるだろう。なにせつい先ほどまで宵待は残雪を殺そうとしていたのだ。
寝てはいけない。
寝ては…