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その十 『大国』

 その十


 『大国』


 蔵座国兵法指南役道了尊に割り振られた仕事はそれほど難しいものではない。しかしどうしたことだろう、今の道了尊は足裏の感覚鈍く、膝は笑い、喉は渇き、唇は罅割れていた。なにをそれほど緊張することがあるのかと最前からそれを考えている。

 この、身に慣れぬ加圧は、責任だろうか。

 今までであればおのれの行動の失敗は当然おのれの身にのみ跳ね返ってきた。しかし今回は違う。簡単な作業だとはいえ、道了尊の尖った双肩に数人の人間の命運が掛かっている。それがとても重く、酷く大儀だ。

「いや。数人じゃあない」

 後背に感じる蔵座国民の営み。ただその頭に浮かぶ営みも、もれ聞いた話を頭の中でいい加減に継ぎ接ぎしただけの、つまりは道了尊の勝手な想像に過ぎない。

 夜半までは雨が降り止みを繰り返していたようだが、今は雪が降っていた。

 蔵座の城を仰ぎ見る。

 蔵座城が防衛施設をまともに備えぬ貧弱な山城とはいえ、当然ながら人と比ぶれば堅牢にして巨大である。これをどうにかしようというのだから、やはり大変だ。

 大股十歩ほどで跳ね橋を渡り、矢倉の載った城門を潜り、城域内部中庭に至った。

 唾を飲み込んだつもりが空気ばかりで喉の奥が鳴った。今日は背に負った長大なる鎌がことのほか重く感じられていた。

 確かに度胸は据わっている。

 しかし道了尊とは元来、責任やら重圧やらから逃げ出した男である。肉体的な苦痛や苦境には強くいられるが、内奥に掛かる負荷に対しては酷く脆い。

 他人に寄らず。故に期待されることも請願されることもなく。面倒事には近寄らず、厄介事からは逃げ出す。そんな日々を送っていては精神力など練磨されるわけがない。

 中庭の真ん中に一本ある老松を見るともなしに眺めながら、そのような自己分析を頭の隅でして、そしてそれをふるい落とすように道了尊は一度強く頭を振った。

「おや、先生。今日和」

 声を掛けられた。

 振り向いて見てみれば頬の大きなほくろが特徴的な眉毛の濃い中年士官が立っていた。名は知らぬ。それでもその顔立ちには見覚えがあった。

「ああどうも」

「道了尊先生、今日はなにか御用事で? あれでしたら自分が取り次ぎましょうか」

「ああ、いや」

 そこまでは考えていなかった。今や自由に城に出入りできる立場ゆえの怠慢である。

 士官はやや訝しそうに眉根を寄せ、顔を斜めに道了尊を覗き込んだ。

「御用もないのに登城、ですか」

 どうせ自分の存在を快く思わない幾人かのうちのひとりなのだと道了尊は判ずる。そしてそれは間違っていない。士官の黒目の一枚向こうには険があった。

 嗚呼名はなんといったか。名を思い出せば適当なことをいってこの場を凌ぐのだが。どうしてこの世には名などあるのだろう、はなから人に名などなければ名を忘れた時のこの煩わしさもなくなるだろうにと勝手なことを考えつつ、それでも士官の濃い眉やら大きな目やら青い髭剃りあとやらを具に見ているうち、不図思い出したことがあった。

 道了尊は猫背気味であった背筋を伸ばし、わざとらしい咳払いをひとつ落とした。

「今日はまあ、大した用ではないのだ。それよりもあれだ、狗賓の行方は知れたかね。出仕せんようになって久しいと思うが。まさかあの噂、まことであったかな。これは本当に上官の監督不行き届きであるな」

 思った通り士官はあからさまに表情を曇らせ、居心地の悪そうな顔をした。人を攻撃する時は意気揚々と、逆様に自分が責められればわかり易く嫌悪を示す。

 この男は狗賓正十郎の直属の上司である。

「行方も、消えた理由もわかりませんが、まあ、」

「まあ?」

「そのうちわかりましょう」

 と小声でいって、士官はなんだか斜めに去って行った。おのれにも負い目があるというのに、どうして他人に対して強く出られるのか理解に苦しむ。

「ふん」

 道了尊は気を取り直し入城した。その懐には数冊の本。

 伊福部も、もうひとり飯綱という残雪子飼いの者も、蔵座城の要所要所にここ数年の堕府の動静を纏めた書物を置く手筈となっている。

 堕府の歴史。

 その文字情報を設置した上で、飯綱は下級士官や兵卒その他雑役夫などに、伊福部は上級士官、政官、そして兄であり実質蔵座の執政を任されている石切彦十郎に、そして道了尊はずばり国主に対して堕府の様々な情報を耳に届けなくてはならない。

 国主の耳に入れるといっても、実際に道了尊が話をするのは常に横に侍っているあの大兵の士だろう。

「兎も角、話だ」


 ひとつ、大国堕府の黒い歴史。


 ひとつ、堕府兵の残忍な所業。


 ひとつ、敗残国の哀れな末路。


 それら以外に堕府兵の軍装から戦争理念、率いる軍勢の規模や指揮官の能力、果ては兵卒の好む兵糧や酒の種類まで、微に入り細に穿った説明を施す。そうした先にいったい何があるのか、それは残雪しか知らぬ。

 道了尊は城に入って先ず、辛うじて顔を見知っていた飯綱を探し出し首尾を問うた。

 飯綱は暗い顔を綻ばせることなく、皆存外素直に聞いてくれていると答えた。それは純粋に情報として摂取しているという意味か、それとも現実感のないお伽噺でも聞いているような感覚か、そこまではわからないものの怪しまれずに耳に入れてもらえているのは喜ぶべきだろう。

「ところで飯綱殿。貴兄はその」

 と道了尊が語尾を濁したのへ、

「残雪殿のことか」

 飯綱はきっぱりとした口調で返した。

 場所は蔵座城西端にある、平素あまり利用されることのない梯子段の中程である。

 光量乏しく、杉材の匂いが薄闇に充満しているものの、夏期に比べれば息苦しさは少ない。

 みしり、と僅かな動きにも音が鳴る。

 潜み話にはもってこいの場所といえよう。

「そうだ、残雪のことよ。貴兄、なんぞ聞いてはおらぬか。その、あやつの頭の中というか」

「自分が聞いているのは今回自分がなすべきことのみ。いつもと変わりません」

「しかし気にならないか? いったい堕府の話を城の奴らに聞かせて、つまるところどうするつもりなのだ」

「この国を救うのでしょう」

「それとて真実であるかどうか」

「お迷いですか」

「…いや。迷いというかな。ああ否、迷いはない。もとより漂泊の身、今の身分が不相応と弁えてはいるよ。ただな…」

 いい、道了尊は人差し指と親指で鼻先をつまんだ。

 道了尊の煮え切らぬ態度に、飯綱は特別表情を変えることもない。

「残雪殿はすべてに於いて自己完結なさっているお方です。我々に意見を聞く前から既に答えは身の内にある」

「それはつまり今回、我らはあやつの道具に過ぎぬと?」

「どう取るかは各々の勝手だと思います。ただ自分は、自分が道具でも構わないと思っております故。所詮情の通った間柄ではなく、この先そうなることも有り得ない。残雪殿は我らを利用し、我らも残雪殿を利用する。お互い利用価値のみで繋がっている、それだけです」

「ふん、随分と割り切っているな。しかし残雪の最終的な目的は蔵座を救うことではあるまい。俺はそう思うが」

 自分にはそこまで興味はないですと、飯綱はそっぽを向いた。耳が小さい。

 道了尊は背の鎌を置き、小さく唸りながら階段に腰を掛けた。

「寒いな」

「冬ゆえ」

「しかしゆうべは神鳴であった」

「はい。冬の雷は吉兆です」

「西では凶兆よ」

 飯綱は暗い目に一層の闇を宿し、

「繰り返しますが、お互いに利用価値があるならば利用するまで。それでいいのではないでしょうか」

 薄闇の中の暗い眼差し。

 道了尊は飯綱の闇への旺盛な順応性を見て取って、こいつも自分とは違うのだと思い知る。しかしそれも勝手な思い込みだ。

 厭になる。

「どうにもそうした割り切りができんでな。…いやさ、悪かった。俺も与えられた役割をこなすとしよう」

 飯綱はなにも思うところがないのか、否、飯綱という仮面のせいか、極めて無表情なまま、もうよろしいですかと道了尊に問うた。

 道了尊は吽と頷いて、鷹揚に手をひらつかせた。飯綱は無言で階段を下りていった。

 迷いも悩みも振り払ったはずだがと道了尊も億劫そうに立ち上がり、立て掛けてあった鎌を背に負い直す。

 なにを迷って居やがるかと、おのれの太腿を拳で打った。

「残雪が使えんなら斬るまでよ」

 嘯く。

 今はもう遠く、飯綱の背にその声は届いているものか。


 救国の想いならば道了尊のほうが強い。


 残雪はそれを理解している。どこで仕入れたか、道了尊の実を知っている。当初その事実を知らされた時、道了尊は酷く狼狽し、そして困惑した。


 道了尊とは仮の名である。しかし所詮、道了尊にとって名など便宜上付いているものでしかない。何故道了尊かと問われれば旅の途中で見かけ、字面が気に入ったから頂いたに過ぎぬ。

 伊福部や飯綱などは公職にある身ゆえ偽名など使っていないだろうが、おそらく残雪は偽名だろうと道了尊は睨んでいた。


 ぎしり、と梯子段を一歩上った。


 見上げれば上方、闇に細く灯かりがもれていた。そこまで行けば国主のいる居室まではもう少しである。おそらくは衛兵に呼び止められるだろうが気負うこともない。自分は国主の信を得ている兵法指南役なのだ。

 堂々としていればいい。

 我褒めだろうともと道了尊は思う。胸を張り背筋を伸ばしてさえいれば、自分は大層な偉丈夫なのだ。

 段を上り切り木戸を開けた。

 上階詰めの兵卒がひとり歩み寄ってきた。

「道了尊先生ではないですか。どうなされたのです、大階段も使わずに」

 兵卒は道了尊の背に穿たれた暗い孔に目を遣り、そして道了尊の顔を見た。

 道了尊は後ろ手に木戸を閉め、

「なに、闇に慣れる訓練よ」

 途上考えたいいわけを述べた。

 兵卒はハアとかヘエとか唸って、それで用件はと言葉を継いだ。

「頼益公に教示したいことがあってな。この本を知っているか」

 そういって懐から単色刷りの冊子を取り出した。

「ああ、自分も本日城内でその本を見かけました」

「読んだか」

「いえ。勤務終わりにでも読もうかと思っております」

 娯楽の少ない国だ、(内容がどのようなものであれ)新しい本に対しての反応は早い。

「そうか。うむ、よく読むといい」

「それでその本がなにか」

「いやな。私も目に留まって斜めに読んでみたのだが、間違いは書いてないがどうも足りんのだな」

「足りぬとは」

「十あることを二、三しか書いていないというかな。頼益公がこの本を手に取って、仮にもし、堕府とはこういう国であったかと足りぬ情報を以てそれが堕府のすべてだと納得なされても後々宜しくなかろうと。老婆心ながらそう思ったのよ」

「なるほど」

 失礼しましたと深く辞儀をして、兵卒は道了尊に道をあけた。

 不図道了尊の耳に金属的な声が蘇る。


 永らく続いた安寧に加え、最近国主に近侍するようになった大兵の士の存在が一層兵卒たちの気を緩めている。目立った用件を誇示せずとも、目通りは叶おう。


 まるで残雪の言葉通りでなんとも気に入らぬが、道了尊は兵卒の脇を抜け、畳敷きの小部屋に入った。

 履物を脱ぎ、膝を折って腰を落とすと、今取次役を呼びますゆえと兵卒はいって、懐から錫の鈴を取り出し鳴らした。

 その涼やかで軽快な音を聞きながら、道了尊はどうしても覚えられぬ大兵の士の名を思い出そうと眉間に皺を寄せていた。

 瓢箪型の取次役がひょこひょことした足取りで現れ、愛嬌のある目つきをしつつも神経質そうな口調で用件を問い、この先は帯刀厳禁である旨を早口で告げた。その上で更に丁寧な身体検査をし、やがて道了尊を奥の間に導いた。


 二十畳敷きほどの畳の間であった。


 それを見た瞬間、頼益に聞かせる言葉の一部が決まった。


 堕府の国主の間は優に百畳を超えておるそうです。


 だからなんだといわれればそれまでだが、数量で比べるのは単純にしてわかり易い。だいたいにして、頼益がどのような反応をしても構わないと残雪はいっていた。ただ堕府とは是々斯う云う国で御座候と、堕府の軍とは斯々斯うした軍で御座候と、情報を与えさえすればいいのだと。

 この役は伊福部ではできぬ。飯綱など論外だ。無位無官でありながら、国主とこうして謁見叶う立場なのは道了尊のみであった。その許しとてついこの間、剣技披露の日からである。


 床板を鳴らして大兵の士が現れた。

 赤い眼光は真っ直ぐに道了尊を見据えている。道了尊は慇懃な態度を示しながらも、力を込めその目を見返した。

 先ほど丸腰にされたというのに、文句付けやがったら斬ってやるなどと思っている。

「堕府について頼益公の耳に入れたいことがあるそうだな」

 一言一言が大きく重い。

 まるで坊主の説法に出てくる地獄の獄卒のごときである。

 はたして頼益は居るものかと、道了尊は首を伸ばした。正面奥に御簾の垂れた部屋があるが、室内の光量は乏しくそこに人がいるのかいないのかまではわからなかった。

 国主の耳に入らなければ意味がない。上申不要と判断され、目の前の獄卒で話が止まることも十分考えられる。

 道了尊は平伏し、必要以上の大声で、

「堕府では酒場で女が歌い舞うそうで」

 聞き齧りの情報を発言した。

 大兵は返答しない。

 道了尊は耳を澄ました。

 暫くあって。


 …ほう。


 国主は御簾の奥に居る。

 善しと臍下三寸に力を込め、道了尊は知る限りの、覚えた限りの堕府の話を淀みなくはじめた。


 この行為がいったいどこへ行き着くのか。


 飯綱のいうように考えるのは止そうと思っている。考えるのは柄に合わぬ。


 残雪が蔵座を救うという。

 しくじれば斬られてもやむなしと。

 だから今自分はここにいる。


 突き進むのみである。


 時を同じくして、伊福部も飯綱も堕府の情報をおのれの言葉に変換して、掻き集めた者どもの耳へと入れていた。


 堕府の軍は十万という。


 軍装軍旗黒一色である。


 精強にして獰猛。堕府人は肉を喰らう。


 肉は獣であるとも、


 人であるともいう。



 ※


「馬に?」

「乗れんか」

「当然だろう」

 狗賓正十郎は泥沼の底のような精神状態から脱し、今は比較的能動的に残雪と言葉を交わしていた。

 どうした心境の変化か。

 慣れただけかも知れぬ。

 残雪は朝も明けぬうちから狗賓家の郎党を連れて出、午過ぎには戻ってきた。

 戻ってきた郎党は意気揚々と、黒鹿毛の立派な馬と薄汚れた荷駄馬を二頭牽いていたものだ。

 それが先の会話に繋がる。

 荷駄馬の背には柳行李がふたつ振り分けにされていた。荷を山寺の中へ運び入れた郎党に何やら指示して、残雪は柳行李を開けた。

 紅い具足が一揃い丁寧に入れられていた。


「馬といい、その具足といい、いったいどうするのだ、残雪」

「具足は貴様のだよ」

「自分の? 待て。い、戦はせんのだろう」

「せん」

「ならば」

 残雪は正十郎の言葉を話半分に、緋い錣に月輪の前立ての兜やら、緋縅の大鎧やら、そのほかにも手甲やら脛当てやらを取り出しては丹念に見る。

「それを自分が」

 正十郎は半笑いのていである。まるで現実感がない。それもそのはずで身を鎧うなど生まれてこのかた経験がない。

 それも、

「随分と古そうな物だな」

 華麗ではあるが前時代的な具足であった。残雪は手に付いた埃を払うと、敢えて古い物を仕入れたのだと答えた。

「何故」

「そもそもこの具足は典礼用」

「実戦では役に立たんと?」

「装飾が多くて戦い難かろう」

「ん、ああ。確かに酷く動きづらそうだ。これでは存分にやっとうもふるえまい」

「しかし反対に、今様の具足は機能性に重きを置き過ぎるきらいがあるゆえ、見た目の壮麗さに欠ける」

「壮麗、なあ…残雪からそうした言葉を聞くとはな。意外だ」

 聞いているのかいないのか、残雪は爪に入った埃の塊を気にしている。いったいどれほど永い間放っておかれた物を運び込んだものか。

「狗賓、見目の麗しさこそが肝要なのだよ」


 具足のすべてを身に付けるのに随分と手間取り、あまつさえその格好で馬にも乗らねばならない。幾ら正十郎が不平を述べようと残雪は一切耳に入れない。

 それでも桜などは、初めて見る我が夫の立派な姿に小さな嘆息を吐いたものだ。

 その後正十郎は庭へと引き出され、半ば無理矢理に郎党ふたりがかりで黒鹿毛の馬の背に乗せられた。

 残雪は軽く腕組みをし、声を投げた。

「せめて駆け足程度はしてもらう」

「無理だ。何度もいうが馬に乗るのは初めてなんだ」

 加えてこんな重い物を着せられてと、正十郎はわざとらしく肩で息をして見せた。

 正十郎を乗せている馬のほうは至って落ち着いている。余程人慣れした良い馬であるようだ。その立ち姿も大層立派で、後方で馬草を食む荷駄馬に比ぶればその威容は歴然としている。おそらく正十郎の生涯の稼ぎを宛てても手に入れられる代物ではない。

「残雪」

「金はな」

「いや、まだ何もいっておらん」

「違うのか。具足と馬の代金をどのように捻出したのか気になったのではないか」

 確かにそれは残雪のいう通りだったが、どうせまともに答えはしまいとも思っていた。

 ちなみに柳行李のもう片方には、具足と同じ仕様の馬用の装飾具が入っている。それとておそらく、聞けば目の玉が飛び出るくらいの値打ち物であろう。上品に輝く赤漆の艶が無言でおのれの価値の高さを誇示していた。

「まあ、うむ。高かったろう」

「ああ」

「金はどこから調達したのだ」

 残雪はからからと笑い声を上げた。

「単純なからくりよ」

 馬上の正十郎は慣れない格好に加えて慣れない視座を与えられ、鼻の下に汗を掻いていた。

「蔵座に販路を築きたい者がいてな」

「ハンロ?」

「堕府七鍵間に物流を作りたいのだそうだ」

「堕府と七鍵の間に…、ブツリュウとはなんだろう。しかし何にせよその二国の間になにかを築くなど無理だろう。その、決して相容れぬ二国に挟まれているのが蔵座なのだ」

「そんなもの支配者の勝手よ、民間には関係なかろう。国同士の背景がどうだろうと品が良ければ物は売れる。しかし現国主には興味を示されなかったのだ、その商人は」

「はあ、わかったぞ。それで自分が仮に国政を取り仕切る立場になって後、誼を通じたいと。その便宜をはかってくれと頼まれたのだな? その見返りにこの具足と馬を」

 正十郎はひとり得心した。自分が国政をなどと口にはしているものの、馬上で四苦八苦する彼の虚ろのごとき一色塗れの瞳を見るにつけ、相変わらず現実感はまったくないようだ。

 残雪はそんなところだといって黒鹿毛の斜め後ろに立っていた郎党頭にごく小さな合図を送った。

 郎党は馬の尻を叩いた。

 ぽくり、と馬は一歩を踏み出す。

「お、おいッ。う、動いているぞ」

「馬上でも話は出来る」

 残雪も荷駄馬の背に跨った。荷を運ぶ馬にしては若干貧弱な体格をしているものの足取りはしっかりとしており、且つ残雪は馬に乗り慣れているようだった。

「ついてこい」

 残雪はどちらかというと正十郎の乗る馬のほうにそういって、山寺の庭から出た。

 正十郎は気が気ではない。このような目立つ装いで立派な馬に乗っていては、見つけて下さいと触れ回っているようなものだ。

 正十郎は逃亡者なのである。

「村の者にみ、見つかってはいかんのではないか」

 楽しめよ正十郎、折角の具足が泣くぞといって残雪は馬腹を軽く蹴った。

「せ、せめて残雪」

 黒鹿毛の馬も早足についていく。

「残雪がこちらの馬に乗るほうが似つかわしくないだろうか。じ、自分は」

「あまり口を利くと舌を噛むぞ」

「自分にはこのような立派な馬は似合わん」

「高き視座は人物を大きくする。上から見下ろすだけでおのれが少し偉くなったような気がしないか」

「子供でもあるまいにそのような…まあ、しなくはないが、そんな気持ちになってもだな…じ、自分はどのみち傀儡なのだ」

 ふん、と残雪は鼻から息をもらした。

「傀儡こそ美しく飾らねばならぬ。能力がないのであればせめて美しくあれ」

 未だ根雪にはなっておらず、道はぬかるんでいる。それでも豪勇のごとき馬と農民のごとき馬は足を取られることなく軽快に四肢を動かし続けた。

 人通りのまるでない道ならぬ道を抜け、正十郎にも見覚えのある山道に出る。もう少し下れば村落へと通ずる道に出るはずだ。

 やがて川の音が聞こえはじめた。

「それは先の話だろう? 行き着く先が国主の座であろうと、今はまだ一介の兵、いや、最早兵士でもないのだ」

「家が見えてきたぞ」

 あれは、と正十郎は無声音に発する。手造り蒟蒻が旨い二本松家であった。


 残雪はすうと初冬の冷気を肺臓いっぱいに押し込み、朗々と大声を張り上げた。

「さあさご覧じろ。困窮極まる冬の蔵座へ狗賓正十郎が戻って参ったぞ」

 平素は耳障りのする金属的な声であるのに一転大声を出したならば何ともいえぬ雅声であった。殷々たる大音声が牙状の峰々に響き渡り、ややあって軒から覗く顔があった。二本松家の気の強い女房だ。

「見よこの御姿。堂々たるもの」

 やがて二本松家以外にも近隣の者らがわらわらと集まり、馬に乗った正十郎の壮麗なる武者振りに息を呑んだ。

 正十郎はおのれの周囲に群がる者どもを一段高い位置から見下ろし、考える。

 村落の者どもは、今の自分をどう思っているのだろうか。現国主三光坊頼益にかわり国の長となることを望んでいるのか。それとも国家反逆の謀反人として、酷刑に処されることを望んでいるのか。はたまた、何処へなりと早く姿を消してほしいと望んでいるのか。

 正十郎はやや俯き加減に、おのれの姿をなんともいえぬ眼差しで見つめる者どもの顔を見ることもできずにいる。

 逃げ出したのだ、自分は。

 正十郎はそう思っている。

 しかし実際、狗賓正十郎を謀反人だと思っている者は村には誰ひとりいない。狗賓家を蔵座の捕吏が囲った事実もない。それも当然で、正十郎を捕縛するため数人の士卒が蔵座城を出たなど、狗賓正十郎をいいように扱うための残雪の捏造に過ぎぬ。

 だから村落の者どもは、正十郎が姿を消した理由を単純に、寒く貧しい蔵座での暮らしを棄てどこぞの国へか流れていったのだろうぐらいに思っていた。

 その齟齬には、おそらく誰も気づかない。

 残雪以外は。

 今、村落の者どもは正十郎を見、正十郎は何処ぞの国で成功を掴んで戻ったのだと、ごく短期間で豪く成功したものだとそう認識している。

 一生を擲っても手に入らぬような具足と馬とを手に入れた、成功者。

「どうだ、狗賓」

「どうもこうも…」

「皆、貴様に羨望の眼差しを向けている」

「逃げ出した者であるのにか」

「しかし良い具足を纏い、立派な馬に跨って戻ってきた」

 正十郎はおのれを見る。

 黒く艶めいている馬のたてがみを見る。

「皆、自分を羨ましいと?」

 溶けた雪でぬかるんだ道に馬蹄は鳴り響きはしないが、それでも颯々と歩く(実際うまく身動きがとれず、緊張に背筋が伸びているだけなのだが)正十郎を見て、二本松家の女房が声を投げた。

「ぐ、狗賓さん? 本当に狗賓さんなのですか?」

 その夫は正十郎の同輩であり貰いもほぼ変わらぬ。それでも味噌を作ったり酒を作ったり蒟蒻を作ったりで商いをしている分、狗賓家よりも二本松のほうが暮らし向きはいいと思われた。

 残雪が無声音にいう。

「皆はな、貴様の今の姿を見、蔵座の貧しきを再認識し、他国の富裕を夢想している」

「他国とは」

 すると残雪は、


「近くこの国を堕府が押さえる」


 吼えた。

 集まった有象無象は音に聞く日輪最大国家の登場に、戦慄と羨望とが綯い交ぜになった眼差しで正十郎を見た。

 そういえば正十郎には堕府に行儀見習いに出している妹がいたなと誰かがいえば、そういえば隣の男の着ているものは堕府人の装いではないかと答える。

 その様子を視界の隅に捉え、残雪は口を開いた。

「狗賓殿は蔵座出身の情けとして、一度堕府を出、この国の民を啓蒙しに参ったのだ。堕府とは壮大にして力強き国。必要なものであるならばまるごとすべてを呑み込み、不必要なものであるならば徹底的に排除する。堕府が今手に入れたいのは蔵座のあるこの土地である」

 その話なら旦那に聞いたと、二本松の内儀は頬に手を添えた。

「と、土地だけかい」

 何者かが声を上げた。

「土地のみよ。人など堕府には溢れている。余程有能な者でなければ堕府は欲しがらぬ」 残雪はゆっくりと馬を歩かせ、集まった者どもの顔ひとつひとつを見た。

「どうだ、堕府に呑み込まれて後生き残れる自信はあるか。自分は堕府に必要な人材であると思うか」

 正十郎は内心穏やかならざるも残雪を見守るしかない。

「今ならば狗賓殿が堕府に取り成してくれよう。但し、蔵座の城を押さえるのに協力した者だけだ」

 槍も刀も扱えんわと誰かがいえば、

「そんなものは必要ない。蔵座の城など大堕府の威光の前では紙細工に等しい。蔵座が現今兵として出せる数は百にも満たぬ。一方の堕府は十万だ」

 マンとはなんだといった言葉にはなにも返さず、

「であるから今、狗賓殿が堕府へと取り成し易いよう、諸君らの姿勢を示しておくべきなのだ」

 と述べた。

「二日後、我々は蔵座城に参る。それについてくるだけでよい。諸君らが協力してくれた姿は、堕府の使者の耳目に必ず入れよう。自然狗賓殿も諸君らを堕府へと連れて行き易くなるというもの」

 媚を売れといっておるんかといわれれば、

「それで生き残れるのならばそんな楽なことはない。多少の誇りを捨て、かわりに手に入るものは大きい」

 衆愚は正十郎の姿を見る。

「それでも堕府に与するなどできぬというのならば、待つのは死である」

 死。

 重いが、実際にあまりその言葉を現実的に受け止められる者は少ない。

 所詮人は現世利益に目を奪われるもの。

 蔵座が自棄糞になったとしたら、儂らは斬られるのじゃないかねと年老いたひとりがいう。

 残雪は一瞬苛烈に吹いた風に長い髪を散らした。

「明日この場に木桶に墨を用意しておこう。その墨で着ているものも顔もすべて黒く塗り潰すのだ。さすれば万一の場合も諸君らの素性は知れず、蔵座の上層から睨まれることはない。尤もそれで生き永らえたところで、やがては堕府の本隊が蔵座を攻め、蔵座は潰されよう」

 真っ黒で誰が誰やらわからんくしたのでは堕府の使者にも顔を覚えられんのじゃと、先ほどの老人が尤もなことを尋ねる。

「全身を黒く染めるのは意志の固まった時に行う蔵座の習俗であるとでもいっておいてやる。顔は私が覚えてやろう」

 皆はお互いの顔を見、半端な表情をかたちづくっては首を捻っている。

 残雪は馬上、静かに、しかし深く寒気を吸い込み、


「血の正統は狗賓にある」


 続けて、


「大義は我らにあるのだ」


 いった。

「諸君らの賢明なる判断に期待する」


 正十郎は結局一言も発せず、残雪のその言葉を切り文句に騎乗のふたりは去った。


 翌日同所には杉材の大きな木桶になみなみと入れられた墨が用意された。

 しかし墨は丸一日誰にも触れられず、残雪の宣言した二日目の朝が明けた。



 ※


 その日の訪れは蔵座国国主三光坊頼益にとっては、まさに寝耳に水であったろう。

 頼益という国主は、暗愚は暗愚なりに自分という人間は名にのみ実があると認識していた。加えて、自分が連夜貪るように女色に溺れるのは、下の者が自分にかわって執政の主導権を握り易い様敢えて駄目な国主を演じてやっているのだと、人知れず思っていたものだ。

 蔵座はそうして運営されていくのだ。

 自分が能天気に女の尻を追いかけ続けておれば蔵座は安泰だと。それで永劫、今の生活が続くのだと。


 三光坊頼益、やはり暗愚。


 破壊者は雷光のごとし。

 迅速に、且つ地を這う虫を思わせる気配のなさを以て蔵座の中枢に出現した。

 破壊者は尾に猛毒を有した銀の蠍である。

 蠍に関わった者の話を聞いたならば、まるでその者偶然を操るがごとき、神算鬼謀縦横無尽の印象を受ける。

 だが、その者の目線を辿ってみればなんのことはない、蠍は迅速且つ的確に、おのれの息のかかった者を幾人も蔵座の要所に配置したに過ぎぬ。時に名を騙り、時に取引をし、或いは様々買い取って。であるから狙われた者は、無闇に動じず、じっくりと蠍の動静を観察せねばならない。その毒の尾は刺されたが最後。悶え苦しんで死にたくなくば、その毒虫を見つけ次第叩き潰すが得策か。

 しかし、気配なく足音なく姿を現したときは背後を取られている。



 ※


 正十郎はこの二日でなんとか駆け足まではこなせるようになった。とはいえ結局、馬を御せるようになったわけではなく、馬の動きに身体を合わせられるようになったというほうが正しい。

 それでいいと、残雪はいう。

 見た目のみ肝要と。

 ならばそれでいいのだろう。


 紙のように白い顔をした桜に見送られ、一番鶏の声とともに正十郎を先頭とした一団は山寺を出た。正十郎以外の郎党らは具足こそ身につけていないものの、総じて黒い装束である。

 正十郎はおのれのほとんどを残雪に委ねているが、ひとつ懸念があった。

「村落の者は来てくれるだろうか」

 全身を墨に染めて。

「集まりが悪ければ策を変えるまで」

「変えるのか? 今更」

 とはいえ正十郎は残雪の頭の中を知らぬ。これから人の業を超えた行いをなそうというのに。

 あれほど蔵座に反旗を翻すことに前向きであった桜でさえも、出立の朝はまともに正十郎と目を合わせなかった。

 これから向かうのは、死地なのだろう。

 浮かれているように見える郎党らも、実際は興奮に脳がやられているだけなのかも知れぬ。

「残雪よ、…まあ、あれだな。人が集まらんのなら日を改めても、なあ。なんだかんだいっても策を変えるのは厭だろう?」

「日は変えぬ」

「そ、そうなのか」

「悠長に構えていられなくなったのだ」

 蔵座執政代官石切彦十郎邸に密偵として送り込んだ女からの情報。

 蔵座が七鍵と通ずる可能性がある。

「人は来るかな」

「貴様が気に病むことではない」

 しかし正十郎の言葉は止まらない。

「昨日の時点で、まるで墨に近づく者はいなかったと聞くぞ」

 昨日は昨日だといって残雪は痩せた荷駄馬の腹を軽く蹴った。馬は鼻先を一度上げ軽く嘶き足取りを速めた。正十郎の馬も続く。

 川のせせらぎ。

 二本松家が近づく。 

 正十郎は空唾を呑んだ。

 居た。

 しかしひとり。あれは、

「二本松の」

 総代。気の強い女房から話を聞いて、それから何を考え今に至ったものか。決して気の狂った同輩を諌めに現れたわけではないことは、彼が身に纏った黒衣からも知れる。

「たったひとり。残雪よ、たったひとりで何ができる」

 残雪は戛と馬を前へ出し、


 聞け


 天高く声を放り投げた。


 姿は現わさずとも、村落の者皆残雪の声にに耳を寄せているのは気配で知れた。


 残雪は馬を疾駆させ村落を巡り、

 歌うように宣告を放った。


 夏は風の冷たさに泣き

 秋は実りの乏しさを嘆き

 冬は寒さと飢えに苛まれ

 春に又同じ一年を繰り返す気鬱さを思う


 子を生し育てねばならず

 しかし産まれても育たず

 喰わせるものもまたない


 老いる前に死ぬか

 病んで捨てられるか


 蔵座に生まれ蔵座で暮らす諸君であるならばそれはごく普通のことであろう

 それ以外の生き方が自分にあると自分にもできるとそんなことは僅かばかりも考えたことはあるまい


 しかし考えろ


 時間はもうない


 我々は堕府である


 堕府はじき蔵座を呑み込みおのれの身の一部とする


 諸君らは蔵座の民から堕府の民となるのか


 残念ながらそれは違う

 堕府領には堕府人しか住めぬ

 なにを以て堕府人かと問われたならば

 堕府人とは大堕府に利を成す者である

 たとえば狗賓正十郎

 狗賓は堕府に認められた者

 狗賓は堕府に有益なるものを齎した


 よいか


 堕府は蔵座の寒民など要らぬ

 堕府が欲しいのは

 堕府に利を与える良民のみである

 これは当然のことと心得よ

 侵略と支配に一切の公平さは存在せぬ


 それでも堕府に与せよ

 命を賭す価値が今の蔵座にあるか考えよ

 生き残るには今この瞬間を逃してはならぬ


 蔵座は堕府に抗えぬ


 堕府は蔵座を諦めぬ


 さあ家を出よ

 顔と衣を墨色に染めよ

 堕府に協力するのだ

 蔵座から三光坊を追いだすのだ


「とく支度をせい!」


 すると、ひしゃげた家からこぼれおちるように若い男がひとり、道へ転がり出た。

「ほ、本当に堕府の軍勢は来るか」

 残雪は馬上、若者の顔を穴の開くほど見、

「待ってみるか」

 といった。

 若者は一度振り返り、戸口に心配顔で立つ若い女房と子、老いた父母を見つめた。

「若人よ、今朝はなにを食べた」

「なに喰った、だと?」

「答えよ」

「栃餅だが。あと、於朋泥のおここ」

「腹は膨れたか」

「ふ、は、冬に、は、腹が膨れっほど喰えるかッ」

「蔵座ではな」

 残雪は雑嚢から干し肉を取り出し、若者に放って寄越す。

「これは」

「豚肉の塩漬けを干したものだ」

「ブタニ? なんだ?」

「そうだな。猪は見たことがあるだろう」

「ああ、猪は知ってるが」

「それの親戚だ」

「それがブタニ」

「ああ、豚だ」

 若者は干し肉を握りしめたまま何度か頷いた。

 ぷん、と塩と香草の匂いが辺りに漂い、条件反射的に若者の腹が鳴った。

「喰ってみろ」

「これをか?」

 戸口に固まる家族は若者の動向を固唾を飲んで見守っている。

 若者は両手で干し肉を鷲掴みにしたまま、ゆっくりと、酷く緩慢な動作で静かに口に入れた。

 噛む。

 噛む。

 噛む。噛む噛む。

 山岳の国蔵座では手に入らぬ海の藻塩と香草の独特の香。脂の旨味。赤身の甘味。

 若者が咀嚼するたびに、干し肉の匂いが緩々と周囲に拡散していった。家々は静まり返っているものの、その状況を見守っていようことは冬の朝の凛とした空気に時折走る、罅割れのような感覚で知れる。

 噛む噛む噛む。

 いつしか若者は鼻水を垂らし、あまつさえ涙まで流していた。

 蔵座に居ては良質の蛋白質を得る機会も少ない。獣肉の旨味に涙するのも無理からぬことかも知れぬ。

「うまい…堕府の…嗚呼うまい。…堕府の人間は毎日こんなものを」

 残雪はなにも答えず、ただ後方遠くに据えられた木桶に目を遣り、無言のまま馬腹を蹴った。

 その背に向かい若者は怒鳴った。

「だ、堕府に協力すれば暖かい喰いモンもらえるか?」

「請け合おう。私はそのためにここへきた」

 残雪は駆け去った。

 そして再び、先と同じ宣告を繰り返す。

 気づけば若者は疾駆し木桶の墨を頭から被っていた。

 そのまま、身体が、そして気持ちが凍えて身動きが取れなくならぬよう大声で、

「うまいもんとあったけえ寝床と! 俺はそれを手に入れる!」

 いって、走る。

 村落を巡る残雪を追う。

 二本松も走った。

 正十郎と郎党らは互いに顔を見合わせ、ついていったほうがいいのかを思案している。相変わらず残雪からはなにも聞かされていない。つまりここで狗賓家がどう動こうが、あの男の奸計には影響がないのだろう。

 正十郎を筆頭とした狗賓の一団の視野は酷く狭まっている。

 若者にしても、二本松にしても、残雪に金で買われている事実に気づくことはない。若者の思わせ振りな演技に疑いを抱くことすらない。

 その愚鈍さと純朴さは、残雪にとっては良である。


 堕府に拠ることで壮麗な装い、それに敷衍する形で豪奢な生活を手に入れたであろうと連想させる正十郎を主軸に、蔵座では比較的成功した者と識知されている二本松が先陣を切って黒衣を纏い、次いで家族を抱えた類型的な蔵座貧民の若者が付き従った。

 残雪が二日置いた理由も、敢えて丸一日考える時間を蔵座の民に与えるためである。

 考えれば考えるほどろくな記憶のない来し方をいいだけ反芻させるために。


 残雪が適当に家々を巡って正十郎のもとに戻ってきた頃には、後背に十数人引き連れていたものだ。

 それらは純粋に、残雪に煽られた者どもである。

「残雪」

「さあ、行くぞ」

「行くとは」

 十数人は息を切らして頬を赤く染め、そして全身を墨色に染めた。

「蔵座城だよ」

「こ、この人数でか」

「今から村落の大通りを抜けていく」

 郎党のひとりが背に負っていた幟(これも墨色一色である)を一本一本集まった者どもに手渡していった。

「繰り返せ」

「なにをだろうか」

「先程私がいったのと同じように。多少ならば意訳してもかまわん」

「じ、自分がか?」

 そして残雪は、正十郎の乗る馬の尻を盛大に引っ叩いた。

「はじめるぞ狗賓!」

 疾駆する黒鹿毛を追う残雪。

 その後を幟を手に走る、墨衣の一団。

「叫べ狗賓、夏は風の冷たさに泣き」

「な、夏は風の冷たさに泣き!」

「秋は実りの乏しさを嘆き」

「秋は実りの乏しさを嘆き!」

 残雪は顔を斜めに、後方にもいう。

「諸君らも一緒に叫び給え。冬は寒さと飢えに苛まれ」

「冬は寒さと飢えに苛まれ!」

 たちまち言葉は十数人の合叫となる。

 その声と勢いに、今の今まで家に隠れていた者たちも意を決する。

 このままじっとしていてもやがて訪れるのが死であるならば、悪足掻きでも動いたほうがいいと。

 誰でもそう思う。


 叫ぶ正十郎、


 付き従う黒い集団。


 勢い弥増すその声が届いたわけではないのだろうが、


 蔵座の城、天守からの遠望。

 頼益はあれはなんだろうかと首を傾げた。

 横には大兵と道了尊の姿。

 遠く、麓のほうに黒い染みのようなものが見える。

 そういえば、と若干芝居がかった口調で道了尊が口を開いた。

「堕府軍が蔵座に侵攻するとかいう噂があったとか」

 所詮噂は噂である。その程度の噂ならば数年に一度耳にする。しかし道了尊は、やはりどこか地に足のついていない口振りで、

「黒。あれは黒い軍装をまとった兵士の群れではありませぬか?」

 といった。頼益が待てと牽制するのも聞かず、

「幟が見えまする」

 と大きな声で叫んだ。

「幟が!」

 大兵が大股一歩で道了尊に近づき、その口を押さえようとした。道了尊は半身を引き、触るんじゃないとやけにきっぱりいった。これ以上舐められてたまるかと、そう思っている。


 身分を弁えろ、下郎。


 あれは本当に堕府の軍であろうかと、道了尊をつかみ損ねて佇立する児喰高明こぐい・たかあきらに頼益は尋ねた。しかし答えたのは道了尊。

「黒い幟と黒の軍装。黒一色は堕府軍の証しで御座る」

「ああ、本にはそう載っていたのだったか」

 どうせ読んではいないのだ。しかしそんなことは道了尊は織り込み済みであるし、だいたい本など読まずとも、黒い軍といえば堕府であると日輪に住む者ならば誰でも知っている。


 鬨の声が聞こえた。


 頼益は再び外を見る。


 染みのような黒は人の群れであり、真実ほとんどの者が墨色の黒衣。

 曇天の下、山の麓から寄せる黒い集団は総勢三十有余名。

 その先頭を騎乗の者が先導している。


 あはたそ。


「彼は誰そ」


 頼益は外を指差す。

 未だ爪を噛む幼癖の抜けぬ国主のがたがたの指先は遠く、赤い具足の武人と白い外套を風になびかせた怪人を指差していた。

 児喰は首を横へ振る。

 道了尊もそれを真似た。

 残雪よ、本当に大丈夫なのだろうなと心中念仏のように何遍も唱えながら。


 同刻。

 蔵座城の上級士官室では伊福部福四郎が。

 兵卒のたむろする広間では飯綱が。

 堕府が攻めてくるぞと声高に騒ぎ立てている。

 平素焦燥することのないふたりであるだけに、額に汗し口角泡を飛ばし大声を捲し立てるだけで少なくとも兵卒らは動揺した。

 伊福部の兄、石切彦十郎のみ臍を噛む思いで、久方振りに顔を合わせる弟の話を聞いていたものだ。

 間に合わんか。

 慌てる半弟を宥めることもせず、石切は今後の身の振り方を考えている。七鍵に亡命するか。ならば、あの女を連れて行こう、などと。

 それでも只管に哀しかった。これで蔵座は戦乱に巻き込まれ、大国に蹂躙されることだろう。何故なら堕府に支配されることを軍国七鍵が看過するわけがないからだ。

 先ほど聞こえた音は鬨かなどと石切はもらして、伏戸を開け放ち白茶けた外を見た。

「あれは…」

 石切は息を呑んだ。

「あなや、狗賓正十郎かッ!」


 牙状の裾に広がった黒い染みは近づくにつれ形を成し、やがてそれが人の群れだと知れる。粗く数えて三十人は居ようか。中央の赤い具足は石切のいう通り狗賓正十郎。それに従う群れは黒い姿に黒い幟を押し立て、我々は大国の兵であると誇示している。行軍は速からず遅からず、威厳を保ちつつ且つ勢いを殺さぬほどの速度であると思えた。

 伊福部が、蔵座の執政である兄に問う。兵は出すのかと。

「出さずばなるまい。しかし」

 護るも迎え撃つも何もかもが不備である。

 それでも国主は守らねばならぬ。

 当面の懸念材料は狗賓正十郎の血のみで、ならば過剰な警戒はせず、急がず確実に段階を踏んで蔵座の先行きを考えていけばよいとそう思っていた。

 それがまさか、このようなことになろうとは。おのれの認識の甘さを痛感しつつ、石切は直感的に予定が狂った元凶を、蔵座では見慣れぬ風体の白い男に見た。

 石切は外へこぼれ落ちんばかりの勢いで前のめりになり、

「あの銀髪の男は何者だ!」

 大声で叫んだ。


 その声が聞こえたものか。

 銀色の長髪を風に靡かせた男は、

 まっすぐ城を指差した。


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