●ぽんぽこ7-3 決壊
トラとブチ模様の獣たちが戦いをはじめるより前の時刻。
サバンナの本拠地の東から攻め入っていたトラの群れの副長、イリエワニと、その仲間のムササビ、スイセンの三名は、バオバブの大木に取り囲まれて、進退窮まる状況へと追い込まれていた。
道を阻むように横一列に並んだバオバブの壁に足止めされたイリエワニは、真正面の分厚い幹を愚直に噛み破って突破しようとしていた。しかし、イリエワニの懸命な掘削作業中、仕掛けた網を窄めるように、バオバブはひっそりと新たな種を蒔いて列の両翼を曲げていき、ついには完全に閉じきってしまったのだった。
隙間なく円形に並んだバオバブ。イリエワニたちはその檻のなかに、完全に閉じ込められている。
「どうしよっか」
深刻さを感じさせない陽気な声で言いながら、ムササビがバオバブを見上げる。空はすっかり枝葉に覆われ、月が示す時間すら分からなかった。ムササビはイリエワニを手伝うでもなく、スピーカーでの応援に夢中になっていて、バオバブの動きにも全く気がついてはいなかった。
「こうなったら、あたしだけでも攻めてこよっかな」
ムササビは掴んでいたイリエワニの背中の尖った鱗を離すと、トテトテと走って、前足と後ろ足の間、そして後ろ足と尻尾の間にも張られた飛膜を広げて滑空する。目の前のバオバブの幹、イリエワニが掘った穴の上に飛び移ると、なだらかな木肌を登りはじめた。
それに対して、今まで眠ったように静かだったスイセンのスピーカーが震える。
「お待ちなさい。ハゲコウの目が光っていて近づけないと言っていたのはあなたでしょう?」
「そうだけど。ここでずっとこうしててもしょうがなくない? もうあのハゲちゃびんもいないかもしれないし」
「あなたの力が必要になるかもしれません。ここに残るべきです」
ムササビは足を止めて、首を傾げながら、イリエワニの周囲に身を寄せるように集まった黄色いスイセンの花を見下ろす。それから黙々と作業に勤しむイリエワニに目を向けると、
「副長はどう思う?」
と、尋ねた。
「そうだなあ」と答えながら、がじがじと分厚い幹を齧る顎は止めない。湿ったスポンジのような繊維質の食感。幹は削れて穴は広がっているが、向こう側に届く気配はない。ワニの大口に挟むことができないほど幹が太いので、せっかくの動物界最強の咬合力も活かせず、植物族相手なので肉食のワニが与えるダメージは軽減されてしまっている。
けれど「もう少しのような気もするんだよなあ」とイリエワニはやや楽観的に言う。
「水も大分溜まってきて、元気になってきたし」
イリエワニは水神金毘羅の神聖スキルを止めることなく、絶え間なく水を湧き出させ続けていた。特に狙いがあるわけではない。もうひとりの副長のマレーバクから、戦の間中、使い続けられるぐらいの命力を渡されていたし、はじめから景気よく使うことに決めていた。止めるという発想が元々なかったわけだが、強いて言えば、水がたっぷりあると水辺に生息するワニである自分は嬉しいし、植物族である仲間のスイセンも同じだろう、と考えていた。
完全に閉じたバオバブの幹の檻は、水槽となって水をため続けていたが、それでも決して溢れたりすることはなかった。一本でシロナガスクジラ一頭分もの水を溜められるというバオバブたちがそれを許さない。水は溜まるはしから吸い上げられて、水面は上がっては、ゆっくりと下がることをくり返していた。そうして現在はイリエワニの半身が浸かるぐらいの水位で安定している。
ムササビは樹上と足元を見比べて、結局、スイセンの言う通り、この場に留まることにした。パラシュートで降下するように滑空すると、作業に没頭しているイリエワニの頭上に戻ってきて腰を下ろす。そうしてふっくらした尾で、ワニの額をくすぐるように撫でた。
「まあ、そんなに頑張らなくてもいっか。別に群れの勝ち負けなんてどうでもいいし」
力を抜いてしまったムササビとは対照的に、イリエワニは「俺は副長として、最後まで戦うぞ」と、意気込んでいた。
「頑張るねえ。怒りんぼのトラにそんな義理立てしなくてもいいのにさ」
「そんな悪く言うもんじゃないぜ。俺を信頼して副長を任せてくれてるんだからよう」
「信頼?」
スイセンは疑問符を浮かべたが、張り切っているイリエワニの心意気に水を差すのも気が引けたので、なにも言わずスピーカーを閉ざした。
水がちゃぷちゃぷと揺れる音と、イリエワニが幹を齧る音、そしてバオバブの梢がざわめく音だけが巨大な水槽のなかにこだましていた。ムササビは尖った鱗の密度が低いイリエワニの首元に寝っ転がって、もう応援するのにも飽きてしまったようだった。
掘っても掘っても、掘っても掘っても、樹の繊維が阻んでくる。あとちょっと、と思いながらもいつまでもその時はやってこない。イリエワニの気力は少しずつ、少しずつ、時間をかけて削がれていった。
そうしてついにイリエワニが「ダメか……」と諦めかけた時、どこかから、みしり、と軋むような鈍く、重い音がした。
不審に思ったイリエワニが見上げると、顔に水が降ってきた。ホースから溢れ出したようなチョロチョロとした細い水流は、すぐに蛇口を全開にしたような激しさになった。雨ではない。辺り一帯のバオバブの幹から、太さ様々な水流が滲み出している。
「なにこれ!」
顔面にまともに水を浴びたムササビがはね起きる。
「根腐れ、ですよ」
萎れたように花弁を下げたスイセンが答える。その花は鮮やかな黄色から焦げたような茶色に変色していた。
「ねぐされ?」とイリエワニ。
「植物族にとっては致命的な状態異常です。この辺りの土壌は粘土質で水はけが悪い。水分が過剰に与えられて、言葉通り、根が腐ったんですよ。そして幹が脆くなり、閾値を超えてため込んでいた水が吐き出されたんです」
「それってスイセンは大丈夫なのか?」
増し続ける水かさに巨体を浮かせ、頭上から降り注ぐ水流を見回しながらイリエワニが聞く。
「いえ、ダメです」
「えっ?」
上げていた視線を下ろし、スイセンに目を向ける。その茎はしおしおと項垂れ、今にも朽ちようとしていた。
「そんな……、言ってくれりゃあ、スキルを止めたのに……」
「そうすると勝ちはなくなるでしょう? だから黙ってたんです。可能性に賭けたんですよ。ぎりぎりまでバフをまいて、手助けすることだけを僕は考えていました」
スイセンの声は正面のバオバブの巨木が傾く音で半ばかき消される。山が崩れるような轟音と共に、樵に楔を打ち込まれたかの如く、イリエワニによって幹に穴が穿たれていたバオバブは、外側に向かって倒れていった。
「点滴穿石。副長の努力が実りましたね」
教師が生徒を褒めるような口調でスイセンは言い、
「僕はここまでです。後はおふたりで進んで下さい……」
完全に枯れて沈黙してしまった。
バオバブの倒木と同時に、決壊した水が怒涛の勢いで流れ出した。流れに乗ったイリエワニが水槽からこぼれて押し出される。その頭に掴まったムササビが「センちゃん! 後でね!」とスイセンに呼びかけたが、水面に浮かんだ花の残骸からは、もう返事は返ってこなかった。
浮き沈みをくり返しながらイリエワニの巨体が大河によって運ばれていく。そうしてサバンナの本拠地方向へと激流となって進んでいく。
「たのしー!」
アトラクションに乗っているようにはしゃぐムササビに、イリエワニは真面目な声を向ける。
「ムササビ。先導頼む」
「船頭って、漕げばいいの?」
「違う違う、道を外れないように指示してくれ」
「あっ、そっちね。おっけーおっけー」
ムササビは体を震わせて水滴を払うと、助走をつけて、背中から飛び立った、湿った毛衣を乾かしながら、風を切って滑空し、大河の切っ先を超える。サバンナに自生する樹木の一本に着地すると、急いでその樹上によじ登った。高度を確保しながら、進むべき道を素早く確認する。
「こっちだよ!」
滑空。そして、また別の樹木に飛び移る。長距離を飛ぶことはできないが、ムササビの滑空は健脚の草食動物にも迫る速度の飛翔。サバンナにまばらに生える樹々の間を次々に移動して、激流の行く先に回り込んでいく。
イリエワニはその小さな姿を目で追い、声で導かれて、四肢の水かきや尻尾を使って方向転換しながら、後をついていった。
大量の水はサバンナの平たい大地に広がっていき、一方向だった流れは拡散して四方八方に向いていく。大河は大湖、そして波打ち際に押し寄せる大波のように変化していった。
それでも幾本ものバオバブがため込んだシロナガスクジラ数頭分にもあたる大量の水の勢いは失われることはなく、イリエワニを押し運んでいく。
ライオンの群れに所属する植物族のアカシアは、根っこの端々から大地の震えを感じとっていた。
イボイノシシをサポートしている最中、キョンによって痛手を与えられたものの、広い範囲に根を張っていたのが功を奏して、全滅には至らなかった。最終局面。もはや外縁の守りは必要ない。本拠地の東南東に残っていた己の分身である樹を操作し、種を蒔いて本数を増やしながら本拠地へ向けて林を広げる。
そんな時、幹に取りついてきた獣がいた。五感とも少し違う植物族の感覚で、それが敵のムササビであることに気がつく。何度も周辺をうろちょろしていたものの、その度にハゲコウに追い返されていたトラの群れの偵察要員。
敵同士の接触。とはいえ、アカシアは攻撃能力を有さない植物族。触れるほどの距離に敵がいても、どうにもできない……と、ムササビは考えていた。
「こっちー!」とイリエワニを振り返って叫ぶ。その時、体に異常を感じた。
力が入らない。めまいのようにくらくらして、幹から手が離れてしまった。アカシアに触れていた箇所が、黒ずんだようになっている。メニューを確認。すると、いつの間にか状態異常が付与されていた。呪い。
間を置かずに押し寄せてきた奔流にムササビは呑まれ、溺れてしまう。
「どこ行った!?」
イリエワニがムササビを探して声を上げる。水の流れはアカシアの幹を歪ませるほどの勢い。アカシアの後ろはもう本拠地。このまま放っておけば、津波のような巨大なうねりに運ばれたイリエワニがゴールに到達するのは確実であった。
アカシアは一か八か、神聖スキルを使った。ムササビを弱らせた力。キョン相手ではあまりのその攻撃が俊敏だったことと、ケリュネイアの鹿という神の僕たる姿には呪いに対する耐性もあるようで、通じなかった。
触れれば災いをもたらす。しかし、イリエワニは波の上。アカシアが触れることはできない。けれど今回、触れる必要があるのは敵ではなく水。アカシアに触れた水流が、刃を通されたように、真っ二つに割れた。
水の流れはアカシアの立つ位置から左右に分かれていく。アカシアが使った神聖スキルは、アカシアの樹で作られたという契約の箱。聖櫃。その中に納められた品のひとつ、アロンの杖の力。災いを起こす杖。そして、アロンの弟モーセが掲げ、海を割ったとされる杖。
流れの中央にいたイリエワニは水の分岐点から砲弾のように空中にはじき出された。その巨体に浮力を与えていたものがなくなり、落下。しかし、イリエワニは落下中も金毘羅のスキルを使い続けた。空中で水を纏い、サーフィンをするように軌道を制御する。そうして、補足した敵に狙いを定めた。
アカシアにイリエワニの巨体が衝突。棘つき棍棒のような硬い鱗で覆われた体で、幹を割って押しつぶす。すると、アカシアのスキルの効果が消えて、分かたれていた水が、また閉じた。閉じた水を頭からかぶったイリエワニが、水中から見上げる先には、ゴールを示す輝き。
イリエワニは尻尾をばねのように使って、光柱に向かって大ジャンプした。