●ぽんぽこ6-7 カルマからの解放
今やサバンナの空に月も星もなく、黒象の瞳が妖しく輝くばかりだった。黒象は己の感情を支配できず、どす黒く膨れ上がった肉体が赴くままに、心は流転し続けていた。
『何故孤独を好む?』
アジアゾウの名前を音に乗せたスピーカーで、ライオンはそう言った。アフリカゾウは、その言葉に深く心をえぐられた気がした。
好きで孤独になったわけではない。知る限り、ピュシスにゾウは二頭しかいない。アフリカゾウである自分と、アジアゾウである彼女だけ。ゾウは異質な動物。ゾウのことを真に理解できるのはゾウだけ。己の半身を失った気持ちが王には分からないのだ。アジアゾウの失踪に関わっているであろう身でそんなことを言う権利があるのか。そう思うと、激しい怒りが湧き上がってきた。
遺跡を探すうちに深層に足を踏み入れることもあった。そこが怖ろしい場所であることをアフリカゾウは知っていた。アジアゾウは消滅したのかもしれない、という可能性に気がつきながら、ずっと目を逸らしていた。ログインしなくなったのなら、それでもいい。いつかまた、きまぐれにログインする時がくれば、会える機会はある。けれど、キャラクターが消滅していたら……。
ライオンを憎んだりする感情はこれまで一切なかった。アジアゾウが群れに所属していたのは短い期間だったし、関わりも多かったとは思えない。最強を目指す上での障壁の一つという認識しかなかった。けれど、今、この時においては、王と呼ばれるこの獣が憎くてたまらなかった。この獣がアジアゾウを死へ向かわせた、と暴走する心が断定し、雪山の上から転がり落ちる雪玉のように、みるみる膨れ上がる肉体を抱えて、ひたすらに黄金色の毛衣を追いかけることだけしか考えられなくなった。
これは復讐ではなかった。目の前の獣だけが、アフリカゾウの心のよりどころだった。アフリカゾウの心は出口を求め続けていた。
「彼女は死んだのか? 教えてくれ。死んだのなら蘇らせてくれ。彼女を死の国から、呼び戻してくれっ! こんな風に考えるぼくは狂っているのか? ぼくを笑うか? 熱くなるなって言うかい?」
言葉はアフリカゾウの心のなかで何度も反響して、外側ではなく内側だけに向かっていった。自分が自分を追い詰め、錯乱に導かれる。
「ぼくにくれ! その命を! ぼくを最強にしてくれ! 何よりも輝く存在にならなくてはならないんだ! もう一度、彼女に会いたいんだ!」
肉体は涙を流さない。けれどその心に大海のような涙が湛えられていることはライオンには分かった。黄金色の獣が足を止めた。振り返り、悍ましい魔象に姿を変えているアフリカゾウに鼻先を向ける。
「死んでくれっ!」
黒象が叫ぶと、ライオンが吼えた。
「死者は蘇らないんだ!」
ライオンの声は、黒象の嘶きによってかき消される。夜をつんざく黒象の鳴き声が天に届くと、魔王マーラが釈迦に放ったという怖ろしい苦難の数々が絶え間なく降り注いできた。
大風が吹き荒れ、突き刺さるような重たい雨が降りしきり、礫や泥が矢のように飛び交い、火傷するような熱い灰が舞い上がり、槍のように尖った鉱石が襲ってくる。それらが分厚い壁のように凝縮され、ライオンを包み、覆い、完全なる暗黒の繭となって閉じ込めた。
黒象は、暗黒の繭に対して、空を隠すほどに大きくなった自らの巨体を倒れ込ませた。雪崩のような音と共に、黒象は肉体を歪ませ、煤のような煙を吹き出しながら、繭を押し潰していく。
汚泥が広がるように、サバンナが染まっていく。その表面は漆のように輝き、しんと静寂が訪れた。
平べったく引き伸ばされた黒象が、大地にへばりついた。
押し倒された樹々が、のけぞるように頭を垂れた。
煤けてで淀んだ空気が、空で瞬く星々を隠した。
腐臭のような匂いが辺りに満ちた。
咆哮。
風が微かに揺れた。
黒象の一部が不意に動いた。
大きな、大きなあぶくが膨らんでいく。
ぐっ、ぐっ、と内側から押されているようだった。
ゾウ一頭分ほどの大きさに成長した泡沫が突然、ばちん、と弾けた。
闇が、消えた。
闇が祓われた場所には碧色のたてがみを持つ純白の獣。純白のライオン。
その足元は地に着いておらず、僅かに浮かんでいる。
黒象が放ったありとあらゆる苦難はライオンに触れることもなく消え去っていた。闇は霧散し、黒象の肉体は雲が吹き消されるように散り散りになっていく。神聖スキルによる変貌はなくなり、黒象は元のアフリカゾウの姿になって、赤土の上に倒れた。
ライオンはすぐに神聖スキルを解除する。純白の毛衣は黄金に、碧色のたてがみは濃褐色に戻った。メニューを見る。命力をかなり消費している。少しむきになって切り札を使ってしまった。カンセンケ、雪獅子とも呼ばれるもの。一度の咆哮で七頭の龍を落とすと伝えられる存在。その神聖スキルで黒象の纏う闇を解放へと導き、空に浮かぶ星々の輝きを遮っていた一切を消し去った。
体を向けた先には灰色の巨体。アフリカゾウが膝をついている。牙は折られ、痛々しい姿。それでも鼻を使って身を起こし、震える足を伸ばした。
「俺様の勝ちだ」
ライオンが告げる。
「ぼくは認めない。この戦いに審判はいない。結果を下すのは死のみ」
「じゃあ審判を呼ぼうじゃないか」
「どこにそんな……」
アフリカゾウが鼻先をぐるりと周囲に向けて、あおぐように大きな耳を羽ばたかせると、
「ここに」
と、大地が返事をした。
驚いた拍子に力が抜けて、ゾウはまたも膝をついてしまう。
「誰だっ!?」
大地が微かに震え、それは言葉となった。
「会いたいひとがいる気持ち。すごくよく分かる。寂しくて、哀しい気持ちも。アジアゾウってどんなひとだったの?」
アフリカゾウは足裏を声を聞き、考えるが、頭は空っぽになっていた。思い出そうと努力する。けれど、空の器の中身を掬おうとするように、いくら探っても、ひとかけらの記憶すら見つからなかった。
「……分からない。分からなくなってきた。それが、ぼくは、怖い。ぼくは何にこだわっているんだろう?」
「でも大事なひとだったんでしょ?」
「もちろん」
「会うために、いっぱい頑張ったんだね」
「うん。向こうは会いたいと思ってないかもしれないけど」
「私も時々そんなことを考えるよ。いざ会っても、大げさなことをするわけじゃない。ただ遊びたいだけなのにね」
「そうなんだ」
アフリカゾウと大地はゆったりと、言葉を交わし続けた。
「この会いたいって気持ちはどこから来るんだろうね」大地が言う。
「ピュシスでは、何もかもが剥き出しになってる気がする。欲望とか、願いとか、何故なんだろうか」
「それはきっと、この世界が死んだもので作られているから。肉体じゃない肉体では心を納めきることができないからじゃないのかな」
「ぼくには現実世界の方が困窮して、死にかけた世界に思えるよ。仮想世界のほうがよほど生き生きしてる。機械惑星では得られない、色んな感覚がここにはある。ログインしていると、生き返った気さえする」
「そうだね。私もどっちで生きているのか分からなくなることがあるよ」
「ぼくは、ここで生きている」
「うん。だったらさ。無理しちゃだめ。そんなにスキルを使うと命力がなくなっちゃう」
言われてアフリカゾウはメニューを確認する。
「……ほんとだ。こんなに減ってるなんて気がついてなかった」
「今回はライオンの勝ち。悔しい気持ちは次回の戦いに残しておこうよ」
「……」
アフリカゾウは黙りこくって俯き、それから顔をまっすぐに上げて、ライオンに向けた。その体からもう戦意は感じられない。ライオンは、ほっ、と息を吐いて、その傍に駆け寄ると、お互いの健闘を称えるように、がおっ、と小さく鳴いた。
ふたりの足元には小さな穴が空いていた。その奥から、プレーリードッグが顔を出す。ぽん、と変身が解かれて、プレーリードッグはタヌキの姿に戻った。横幅が増えたせいで腹回りが穴の入り口に引っかかったタヌキが、苦労して這い出してくると、アフリカゾウとライオンを見比べるように、慌ただしく首を振る。
「やっぱり狸寝入りだったか」
ライオンが、雷で黒焦げになっているタヌキの毛衣をざらついた舌で舐めてやると、
「図太さがぼくの持ち味、死んだふりは得意技だから」
と、心持ち明るくタヌキが返す。
「アフリカゾウ。すこしは加減しろ。消耗し過ぎると消滅してしまうぞ」
スピーカーを震わせながら、ひとのことは言えないが、と心のなかでひとりごちる。ライオンに声を掛けられると、大きな頭が下げられて、水が詰まったラッパのような鳴き声がこぼれた。
「我を忘れ、かたじけない」
若干、本来の調子を取り戻した様子でアフリカゾウが言う。
「前から思ってたが、お前の話し方ちょっと変だぞ」
「真正しきものと、確信できうるデータは、現存していない故に」
「それはそうだろうが……。まあいい。それより俺様がアジアゾウについて知ってることを教えておいてやる」
今度こそ心をざわつかせることなく、アフリカゾウはライオンの言葉を待って腰を下ろした。
「と言ってもほとんど知らん。昔、アジアゾウはトラの群れに所属していて、その時の群れ戦で一度戦ったというだけだ。だから詳しく知りたいなら、俺様じゃなく、お前が今所属している群れの長に聞くことだな」
「その勝敗は?」
「勝敗? その時は俺様が勝った。アジアゾウにも、群れ戦にもな。それ以降もトラの奴が突っかかってくるたびに戦ってやってるが、アジアゾウが戦に参加していたという話は聞いていない」
「成程」
アフリカゾウは思案するように鼻で自分のおでこ辺りを叩いた。
ライオンは、大山鳴動して鼠一匹という気分だ、と嘆息して空を見上げる。
そろそろ月が昇りきる。そうするとこの群れ戦は終わる。しかし、油断は禁物。最後のひと踏ん張りが必要な時間。巨大化したアフリカゾウから逃げる過程で、本拠地の方向へ引き返す形になっていた。現在地は露出した赤土の大地とイネ科植物が作り出す枯れ草色の草原が交わる地点。草原はアフリカゾウが巨大化して押しつぶしたので、今はミステリーサークルが刻まれたように横倒しになっている。
全力で走れば、月が天辺に到着するまでに間に合うかもしれない。そう考えて、ライオンが本拠地の方向へと鼻先を向けた時、岩陰に何かの気配を感じた。
タヌキは激戦の後で気が緩み切っていた。アフリカゾウは思案に呑まれて、辺りに注意を払っていなかった。ライオンだけが、その危険を察知した。
「危ないっ!」
考えている暇はなかった。思わず飛び出す。肉体は心よりも早く動いた。スキルを使おうとしたが、その瞬間、世界全体にノイズが走った。メニューを操作できない。ライオンの感覚は引き伸ばされ、無限の時間を跳躍しているように感じられた。しかし、それでも現状を打破する方法を、見つけ出すことはできなかった。
アフリカゾウは目を見開き、タヌキは視界一面を被うライオンの体を、唖然と見つめることしかできなかった。
黄金の獣がもんどりうって、たてがみを血飛沫のように振り乱しながら吹き飛んだ。焦げた匂いが遅れてやってきて、バン、という炸裂音が耳の奥でこだましていることにタヌキは気がついた。とてつもなく、嫌な、匂いと、音。
銃声。銀色の狩人が、紫煙が立ち昇る望遠鏡のような猟銃を構えていた。銃口が向いた先には、倒れ伏すライオン。
咄嗟にアフリカゾウが飛び出して、次弾を装填しようとしている敵性NPCを鼻で激しく殴打した。がちゃん、と積まれた皿が崩れるような音。倒れたオートマタに、アフリカゾウが全重量をかけて、思いっきり踏み潰す。ぎしぎし、みしみし、と異音が鳴り響く。しばらくするとオートマタの体力がゼロになり、動作が止まった。
アフリカゾウがライオンを振り返る。黄金色の毛衣はぴくりとも動かない。タヌキが手を伸ばし、眠りから起こそうとでもしているように揺らした。その目の前で、ライオンのグラフィックは、数度歪み、テクスチャの粒子となって、跡形もなく消えてしまった。