▽こんこん15-21 トラとして……
トラは……レョルは……もう人間でいるつもりはなかった。
ガラクタ山のてっぺんで、狩人に勝つために促進剤を使った。
研究所の飼育室で開発された、半人化の症状進行を促す薬品。
これを投与されたらしいヴェロキラプトルは本来よりも遥かに巨大に成長していた。レョルも促進剤の影響か、本物のベンガルトラを超える図体に変質している。
しかし、体は立派なトラに変わっても、ロロシーに指摘された通り、心はどうしようもなく人間のまま。
それが、なんとも不愉快であったが、いま、すこしずつ、動物に、トラに、近づきつつあるのを、レョルは感じていた。
先に待つのは穏やか心。荒々しい動物の本能が、より荒々しい人間の理性を鎮めてくれる。単純化していく思考が、迷路の壁をとびこえる。だが、果て無き分岐路が、レョルの脳内にはびっしりとこびりつき、出口はいまだ朧のまま。
脳内を猛獣が駆け巡る。
ヒトを探し求めて。
捕まえ、そして……
――解放されたい。
復讐という重荷。
惑星コンピューターを破壊する。
父を殺したカリスを。
母を泣かせたカリスを。
妹の心を奪ったカリスを。
亡き父からも、母からも、妹からも、解放されたい。
自由になりたい。
――トラは自由だ。
ヒトでいることに、少々疲れてしまったのかもしれない。
ざらついた猫舌で心を舐めまわされているうちに、そんなことを思った。
――ライオン……ロロシー……食いたいぐらいに、おまえのことが……
これは楔。
ヒトの情。
食い千切らなければ。
貪り尽くさなければ。
一片も残さず、平らげなければ。
トラの大牙がロロシーの首筋に触れる寸前、瞬時に危険を察知したロロシーは、とびのくと同時にトラの頬を殴った。ただし、爪はひっこめた状態。
着地して、深く息を吸う。通路の闇のなかで殺気を放つトラを見据える。
「……じゃれあい、では、なさそうですね」
「俺は、おまえを、食う」吐き出されたのは、毛玉みたいにからまった言葉。
「考え直しなさい。そんなことは不可能です。言ったでしょう。わたくしはあなたよりも、なによりも……強い」
「知らない、のか? トラは、ライオン、よりも、強い……!」
次の瞬間、トラはヒトの言葉を捨てて、激しいの咆哮をとどろかせた。壁や天井に張り巡らされたパイプ、金網の下を流れるコード類、それらすべてを震わせて、地下全体に響き渡る。
呼応するように、ロロシーの喉からもライオンの咆哮が迸る。
一切の間を置かず、トラが跳躍。ロロシーの命を欲し、奪うのが待ちきれないという勢い。ロロシーは床に両手をついた。四つ足になり、前後の足と柔軟な体でもって、トラの腕をかいくぐる。ヒトの体勢を保ったままではトラの攻撃速度に回避が追いつかない。
トラは牙と爪とが入り乱れる連続攻撃を仕掛けてくる。いずれも巨体の体重が乗った破壊力抜群の一撃。直撃すればロロシーの華奢の体はひとたまりもない。しかし、ロロシーはライオンの俊敏性を発揮して攻撃から逃れ、さらには隙をついて、こちらからも爪をふるった。
押し引きするうちに、ふたりは通路を移動して、八方に分岐する交差点へ。
距離をとり、睨み合いながら、お互いに円を描くように足を動かす。
身軽さではロロシーに、力強さではトラに軍配が上がる。
猫目の瞳孔が開く。闇のなかであっても、空間の形状、お互いの位置、ふたりはすべてを把握していた。
牙が襲う。避けたロロシーが壁に向かって跳躍。そのまま四肢で細いパイプに掴まった。トラが突進をくりだすと、ロロシーは逆側の壁へと大ジャンプを決める。そこからすぐさま折り返しのジャンプ。トラの背中を狙う。
だが、トラは両前足で床をたたいて身をよじると、背を反らせてムーンサルト。宙のロロシーに食いつくべく、大口を開けた。
あわや牙の洞窟に頭からとびこんでしまいかねないというところ、ライオンの爪が、トラの顔を両側から挟みこんだ。頭突きでもするみたいに顔を寄せて、トラの鼻をひと噛み。そのまま縞模様の上を宙返りで通り過ぎる。
床を蹴って反転するトラ。ロロシーは闇に溶けこんだ。血の香りがトラの鼻孔の奥に充満。嗅覚の働きが鈍くなる。聴力に頼ろうと、丸い耳を立てるが、ロロシーは音もなく移動しているらしい。
――たしかにおまえは強い。ライオン……ロロシー……。だが躊躇しているな。命を奪い慣れていない。おまえがどんな女か俺はいやというほど知っている。慈悲深い性格の半面、むざむざ殺されてくれるほどやさしくはない。やるときはやる女だ。自分を曲げない、その頑固さ、俺が変えてやる。おまえは強い、強いが、俺に慈悲を与えられるほどには強くはない。俺を殺しにこい。俺を食え。動物になれ。ライオンになれ。俺は食ったぞ。殺したぞ。研究所のやつらを、たくさん、たくさん……
ひげをとがらせる。ネコのひげの機能は人間のひげとはまるで別物。人間のひげはただの体毛だが、ネコのひげは洞毛や触毛と呼ばれる感覚器であり、鋭敏なセンサー。
全身をアンテナにして、ロロシーの気配を探る。
瞳に闇がしみこむほどに目を凝らす。
――くる!
感じ取ったときにはすでに、ネコひげに獲物が触れる距離。
反射的にトラは牙を剥いて齧りつく。が、引き裂いたのはライオンのたてがみ、ならぬ、ロロシーの髪だけ。鼻先をローブがかすめて、懐にとびこまれる。ライオンの牙が、トラの喉元を狙っている。それが刺さるのも構わず、トラは顎を思い切りうちおろした。
「ぐっ……」
ロロシーが呻く。
トラは首を差しだすように伏せた前傾の体勢。仰向けに引き倒されたロロシーが下敷きになる。腕で押しのけようとするが、トラの巨体は動かない。喉にライオンの牙がくいこんでいくが、それでもトラは体重をかけ続ける。深く刺さったライオンの牙が、トラとロロシーとを完全につなげてしまった。
顎でおしつぶされているロロシーのはみでた体、無防備な腹に向かって、トラは鋭くとがった爪をふりおろす。
致命傷必至。切り裂き、内臓を引きずりだし、食らうつもりのトラ。
ロロシーはもがくが、はねのけられない。
トラから流れ出た血で、溺れそうだった。
とてつもなく硬い音が聞こえた。
縞模様の毛衣と血と肉に埋まったロロシーは状況を知ることができない。
分かるのは、まだトラの爪が、自分に届いていないということだけ。
突然、トラが身を起こして、とびのく。咥えていたものを吐き捨てた。重たい音と共に、それは暗がりへと消える。
即座にロロシーは跳ね起きる。
と、すぐ近くにいる者に気がついた。
「ソニナ! あなた……」姿を見て愕然とする。
「無事でよかった。ロロシー、お嬢様」
ソニナには左腕がなかった。いままさにトラに食い千切られたのだ。その傷口を隠すようにソニナは体を斜めにして、袖を右手で引っ張る。
「あれを駆除しなければなりません」
腕を失ったばかりだというのに、ソニナは顔色ひとつ変えず、闇の奥に身を隠した猛獣へ、鋭い眼差しを向けた。