●ぽんぽこ5-17 夢の終わり
「案外、小賢しいことをなさるんですね」
「どういう意味だ?」
マレーバクの言葉にライオンが眉を上げる。
「いや失礼。ぶしつけでした。ご挨拶がまだでしたね。私、トラの群れで副長をしておりますマレーバクです。以後お見知りおきを」
ゾウの背の上から横柄かつ慇懃無礼にスピーカーを震わせるマレーバクに「そりゃ、ご丁寧にどうも」とライオンが言い捨てる。
マレーバクは夕日の照り返しに目を細めながら、
「ご自分が有利な場所で戦いたかったんでしょう?」
と、辺りを見回した。
赤土の岩が吹き溜まりのように集まった岩石地帯。見通し、足場、共に悪く、アフリカゾウの両肩が触れそうなほどに狭まった箇所もある。身を隠せる場所があちこちにあり、細かな高低差が多く、マレーバクの言う通りに、小回りの利く動物ほど有利に立ち回れる場所ではあった。
しかし、ライオンは「いや」と首を振って「俺様は戦うつもりがない」と低い岩の上に緩慢な動作で飛び乗る。
その言葉を責めるようにアフリカゾウが雄叫びのような鳴き声を上げて、問答無用とばかりにライオンに向かって走り出した。マレーバクは振り落とされて小さな悲鳴を上げる。ライオンが岩の裏に飛び降りた瞬間に、ゾウと正面衝突した岩が轟音と共に割れた。ライオンとゾウが、砕けた岩を挟んで向かい合う。
「一騎打ちの真剣勝負を望む」
と、ゾウは何度もくり返している文言を再びスピーカーの音に乗せた。
「俺様は望まない」
発散される威厳こそ維持してはいたが、ライオンは弱気とも思える後ずさりを見せた。子供のような言い合いに、岩陰まで転がっていたマレーバクが起き上がって笑い出す。
「いやはや。何をなさっておいでなんです? まあ、そちらの巨大なゾウさん相手に勝負を避けたいと仰る気持ちも分かります。しかし王とも呼ばれる方が……」
「アフリカゾウ。聞け」ライオンがゾウの瞳を見つめ、翼のように左右に広がる大きな耳に語り掛ける。
「今日はダメだ。いずれ戦ってやる。約束を取り付けてやる。この場では、どうかそれで満足してくれないか」
「否!」とゾウが鼻を振り上げると、ライオンが更に後ずさった。
夕日に引き伸ばされたふたりの影が、影芝居のように岩に映る。鏡のような大岩に暗雲のようなアフリカゾウの影。瓦礫のように積み重なった細かな石の山に歪んだライオンの影。ゾウの影が今にも雷を放つ直前というように膨らみ、ライオンの影は岩々の隙間に隠れようとするかのよう千々に千切れてに縮んでいく。赤土の岩のスクリーンで巨大な怪獣と小さな幼獣の活劇が開幕されようという寸前、もう一頭、飛び込んで来た影があった。
「長!」
「リカオン!」
煉瓦色の岩を飛び越えて、黒黄白の斑模様を振り乱しながら、リカオンがライオンの傍に着地した。視線はしっかりとアフリカゾウの巨体を捉えたまま、耳だけをライオンに向ける。
「おい長。ログインしてくれたのは嬉しいけど、せめて連絡役の誰かに伝えといてくれよ」
「すまなかったな」とライオンはリカオンの登場に喜ぶでもなく、むしろ歯切れ悪く、また一歩後退した。
そんな様子を見て「ゾウさん」とマレーバクが声を掛ける。
「拠点に向かってはどうです。今は群れ戦中なのですよ。ライオンさんは長として、王として、それを止める義務があるはず。あなたを止めるために戦ってくださるでしょう」
自身の群れ員の目の前であれば、流石に対面を重んじて勝負に乗るのではないかと思っての助言。マレーバクとしてはどちらでもいい。アフリカゾウが拠点を巡ってくれれば、手間が省けるし、ライオンを排除してくれるなら、それはそれで助かる。
ゾウは怒らせた目を輝かせながら、マレーバクの言葉にしばし逡巡していたが、やがてぐるりと振り返って、挑発するように無防備な背中を向けた。そして、ライオンの治めるサバンナの本拠地へと向かってゆっくりと足を進めはじめる。散らばる石を蹴り飛ばし、突き出した牙のような岩の間を潜っていく。
「長。どうする」
リカオンがライオンの顔を覗き込むと、なんだかたてがみが萎れており、口元は苦いものでも噛み潰したかのように堅く結ばれていた。
「どうしたんだ長? 体調でも悪いのか? せっかく来てくれたのは嬉しいけど、無理してるのなら……」
リカオンは心配しながら、ライオンと離れていくアフリカゾウを見比べる。巨体が岩の陰に隠れようとしている。それを見失ってしまう前に、リカオンは数歩、前に進んで振り返った。
「足止めできないか試してみる。元々長の参戦予定はなかったわけだし、今の戦力だけでもうまくやってみせるさ。だから、無理はしないでくれよ」
身軽な動作で岩に飛び乗って、アフリカゾウを追いかけていくリカオンを見送ったマレーバクが、動かないライオンに思案気な視線を向ける。
遠くからリカオンの小鳥のような激しい吠え声と、アフリカゾウに崩される岩の音が響いてくる。マレーバクはゆっくりと立ち上がると、アフリカゾウの後を追うことにした。歩きながら「ライオンさん」と、背後に佇む、王と呼ばれる獣に言葉をかける。
「あなたがこんなに臆病者だと思いませんでしたよ。噂というのは動物のように、変幻自在な形を持つものです。私は幻滅なんてしませんよ。期待もしていませんでしたがね。リカオンさんも可哀そうに。あんな化け物じみた体格の動物に挑んで、戦わないあなたの代わりに死のうとしています」
言葉とは裏腹に、仄かな落胆を滲ませる溜息をついて、マレーバクが蹄をゾウとリカオンが戦う地へと進ませていると、真っ赤な熱の塊が、すぐ傍を通り過ぎた。ライオンのたてがみに撫でられたマレーバクは驚いて飛び退く。戦わないというのも想定外ではあったが、こんな煽りに乗るというのもまた想定外、とバクは首を捻る。一体、何がライオンの心を動かしたのか、まるで分からない。
大地を踏み締めるように歩くライオンの背中は、決意のようなもので漲って、尻尾にある房状の毛の一本一本の先端までもを張り詰めさせていた。
「おい! アフリカゾウ!」
ライオンが呼び止めると、アフリカゾウが岩陰から姿を現し、瞳の奥に妖しい輝きを宿らせた。
二頭が向かい合う。アフリカゾウを挟んで、ライオンの向かい側にある岩の上にいるリカオンは、不安気に尻尾を揺らしてライオンを見た。
「リカオン」
「長?」
「本拠地に戻れ」
「だが……」
「行けっ!」
「……分かったよ」
リカオンが飛び石になっている岩を伝って離れ、止まり、振り返って、また離れていった。
「一騎打ちを望む」
「何回言うつもりだ」
「何度でも」
「俺様には理解できんよ。お前さんの考えは」
「理解不要」
「そうか……」
ライオンが身構える。マレーバクはそろりそろりと近づいて、二頭の戦いが良く見える岩の上に移動した。アフリカゾウの両側にはその大きな背丈をほんの少し超えるぐらいの小高い岩山があり、ライオンの尻尾の先あたりの地面に向かって、その稜線を緩やかに下らせている。二頭の間合いはゾウの鼻が届くほどの距離。ゾウが、どんっ、と足を踏み出して、長い鼻を持ち上げ、八双の構えをとった。ライオンは一切動かない。受けるつもりなのだろうか、とマレーバクはその様子を眺める。それならば好都合。ここで、潰しておくとしよう。
マレーバクの四肢がにわかに力強さを帯びはじめた。牙が震え、猪の如くに巨大化していく。鼻は蛇腹を伸ばし、尾は長くしなやかに。そして蹄は爪へ。白黒の体の模様はそのままに、マレーバクの肉体が変質して現れたのは、貘と呼ばれる幻獣の姿。夢を喰らう獣。
ゾウとライオンが真っ向から戦って、ライオンが勝てるわけがない、とマレーバクは考えていた。体長は三倍近く、体重は五十倍ほどある。そんな相手とまともな勝負になるわけはないのだ。草食と肉食という相性差や、狩りに適した身体構造かどうか、などを考慮したとしても、アフリカゾウはそれすら超越する規格外の存在。たった一つ、ライオンが勝つ方法があるとすれば、それは特別な力が後押しすること。神聖スキル。その存在が唯一の懸念点。アフリカゾウとライオンの戦いにおいて、神聖スキルを使わせないこと。それがマレーバクがわざわざここまで同行した本当の理由だった。
貘の力を使えば夢幻、幻想を喰らうことができる。つまり神聖スキルを無効化できる。カトブレパスの神聖スキルで囚われていたトラも、この力でもって救出した。
神聖スキルさえなければ、ライオンの敗北は必定。神聖スキルを持っていないならそれはそれでいい。これは保険。リスクヘッジ。
風が吹き、赤い小石を転がして、小石は岩にぶつかって止まった。静寂。夕日がより赤々と沈みゆく一瞬の輝きを見せている。
ゾウが鼻を袈裟斬りに打ち下ろした。ぶうん、と風を切る音が岩々に反響し、ライオンの頭を捉える。同時に貘は、ずずず、と長くなった鼻で何かを吸い寄せるような仕草をした。もし神聖スキルを使われたら、それを使った先から封じる構え。あくまでただのライオンとして戦わせる。
そんな三頭の輪のなかに「やはり助太刀する!」とリカオンが舞い戻って来た。ライオンは見上げ、驚いて、「やめろっ!」と叫んだが、リカオンは既にアフリカゾウの側面にある小高い岩から跳躍して、その片耳を噛み千切ろうとしていた。ゾウは闖入者に対して顔を顰めると、体を微かに傾け、ライオンに向けていた鼻を素早く振り上げた。すると斑模様の体が空中で易々とキャッチされてしまう。
「うおっ!」
と、リカオンが呻く。ライオンがたてがみを乱しながら、思わず前に踏み出す。しかしその動きには機敏さの欠片もない。アフリカゾウはリカオンを鼻で拘束し、首を持ち上げた状態のまま、天に向かって嘶きを響かせると、迫りくるライオンに向かって前肢を振り上げた。
そんななか、マレーバクは奇妙な違和感を覚えていた。どうやら様子がおかしい。何かが吸い寄せられてくる。誰も神聖スキルを使っている様子もないが、なんだ、ふわふわして、甘ったるくて、ほんの少し苦くて、すかすかで、すぐに噛み砕けてしまう、そんな夢。貘がその神聖スキルを口いっぱいに頬張って、ゴクリと呑み込んだ瞬間、ライオンの姿が弾けて消えた。
「えっ!?」
と、リカオンはアフリカゾウの鼻に巻き付かれたまま、信じがたいという表情で立ち昇った白煙のなかから現れた獣を見る。ずんぐりとした、まん丸い獣。太い尻尾。褐色の毛衣。つぶらな瞳の周りは黒い。タヌキ。
アフリカゾウもまた驚愕していたが、その重量から振り下ろされた足を止めることは、もうできない。突然現れた丸い獣は全身で慄いて、迫りくるプレス機のような大きく円い足裏を、ただ見つめることしかできなかった。