●ぽんぽこ15-16 罪の行方
ギンドロの木陰で横になって、体を丸めるハイイロオオカミ。片銀の葉っぱに反射した陽射しを尻尾でよけながら、舞い落ちてくる白い花の綿毛を眺める。風が通り過ぎるたびに、灰色の毛衣が右に左に梳かされて、尻尾の先が使い古した刷毛みたいにけば立った。
お互い声をかけることもなく、ただひたすらに静寂をむさぼっていると、
「私、ヒトを殺したの」
突然の告白に、驚いた尻尾が棒のように突き立てられて、とがった鼻先が梢を見上げた。息を呑んで、しばらく硬直していたが、ゆっくりと尻尾がおろされて、
「……現実での話か?」
「ええ」
まるで感情が抜け落ちてしまったかのような声。
「いつのことだ」
「ついさっき。試合中」
こともなげに落っこちてきた答えに、ハイイロオオカミは目を見開く。
「試合中に? 一体なにがあった?」
「どうしても……、勝ちたかったの……」
ゆっくりと、絞りだすみたいに、ギンドロは言葉を並べる。舞い散った白い綿毛と片銀の葉が、灰色のオオカミの背にふわりと積もった。
「だから……、だから……、麒麟を、とめるには……」
「まさかキリンを、キリンのプレイヤーを殺したのか?」
「そう。おばあちゃんを」
語る声は風に吹かれてかすれている。
「おばあちゃん、か……」
木陰を離れ、陽の当たるところに身を置いたハイイロオオカミに、ギンドロが、
「私がこわい?」
オオカミは黙して、木肌の上から下へと視線を滑らせる。そうして、根本でとめたまま、動かなくなった。
「あなたは、俺をこわがるな、って言ってたよね。でもそれは逆。こわがられるのは私のほう。こわいんでしょ?」
雨に打たれたみたいに耳や尻尾がへたって、鼻先がうなだれる。
「……正直に言って、こわい。ヒトを殺しただなんて……。しかも理由は、ゲームに勝つため……」
「そうよね」
どこまでも平坦で、傾いた声。滑り台みたいに、言葉が滑り落ちてしまいそうな具合。ギンドロは一度流れだしてしまった言葉をとめられないというように、ひとりごとめいた調子で滔々と語り続ける。
「でも、殺す気なんかなかったのよ。死ぬなんて思わなかった。私は起こそうとして、ログアウトさせようとして、ほんのすこし、おばあちゃんをゆさぶった。全然起きてくれないから、頬をたたいたの。強くじゃなかった、と思う。軽く。でも、当たり所が悪かったんだろうね。というより、当たったものが悪かった……。私の手は、知らないうちに硬い樹になってた。自分の体のことなのに、全然分かってなかった。だから、それで、おばあちゃんの頬を打った。木槌でヒトをたたいたら、あんな音がするんだね。頬骨に当たって、こーん、って、甲高い音。脳震盪でも起こしたのかな。乾いた鼻血がすこし垂れてきて。私は拭った。拭ったらまた垂れてきたから、もう一回拭った。そうしたら、おばあちゃんが息をしていないことに、気づいたの。病院に連絡しようにも、冠は通信障害……。死んじゃったって、意識したら、こわくなって……、なんにも、考えられなくなっちゃたのよ……」
つっかえつっかえ雨だれのようにこぼれ落ちてくる言葉に、ハイイロオオカミはじっと耳を傾ける。そうして、じっくりと内容を呑みこむと、ずっと心にひっかかっていたことを尋ねた。
「樹になってた、っていうのは、なにかの比喩なのか? ウルフハウンドやハスキーも妙なことを言っていた。俺に、オオカミになれ、ってな。それも現実でだ」
「そう。あなたはオオカミになる」
「それは確定事項なのか?」
「私はギンドロ。それがピュシスの定めた運命。半人って言うんだって。動物や、植物になろうとしている人間のことを。現実の体が、ピュシスでのこの肉体に変質していくのよ」
「半人……、たしかにウルフハウンドもそんなことを言っていた。しかし……、信じられないな」
かぶりをふるオオカミに、強い陽射しが降り注ぐ。思わず目を閉じて、むせかえるような植物の香りに軽く咳こむ。上がった体温を舌を垂らして調整。立てた両耳のあいだを風が吹き抜けていった。
予感はあった。信じがたいことだが、その一方で、ありえなくもないと思ってしまっている。現実での自分の体にじんわりと宿りつつある獣じみた感覚。理性が否定しても、本能が肯定する。俺は、オオカミなのだと。
「俺は人間だ」
声にして、言い聞かせる。
「そんなに信じられないというのなら、私に会いにきて。見せてあげる。私を。けど、きっとそんなことをするまでもなく、ちょっと外出すれば、どこかの街角で、動物や植物の姿を見つけられると思うけどね」
「すでにそれだけいるってことか……」
「私が見たのはトラ、ポイズンアイビー、クズリ、クロハゲワシ……とか、あとはゾウ? いっぱいいたな」
「クロハゲワシ? ってことは……、いや、分からない。その半人っていうものについてはみんな知っているのか? 俺は、はじめて聞いた」
「私も今日知った。トラが話しているのを聞いたのよ。でも、だれもが感じているはず。自分の変化を」
「……そうだろうな」
ハイイロオオカミは嗅覚を、聴覚を、最大限に働かせてみる。音の流れ、香りの流れ、人間であれば、分からないであろう雑多な情報。四肢をたしかめる。尻尾をふる。耳をとがらせる。爪で土をひっかいて、立ち昇ったにおいを嗅いでみる。そんな鼻先に、ギンドロの花のさわやかな香りが漂ってきた。
ぐぐっと伸びをすると、牙を剥きだすみたいに顎を開いては閉じて、
「本当に会いにいってもいいか。見させてもらいたい」
「いいよ」
こだわりのない返答。ギンドロはピッソ婆の食物店の場所をハイイロオオカミに教える。ハイイロオオカミがよく訪れる公園からそれほど遠くもない位置。学校のある地区とオフィス地区の隙間あたり。一度も利用したことがない店だったが、場所はすぐにぴんときた。
「俺がいくまでじっとしてろよ。逃げるなよ」
「あなた刑事?」
「違う」
「ふうん。これからすぐにくるつもりなの?」
「ああ。走っていく。たいして時間はかからないはずだ」
「でも、遺跡に向かうのじゃないの。トーナメントに優勝して、一番大事な役割を放棄するなんて」
指摘されると、ハイイロオオカミは前足で耳を押さえるみたいなしぐさをして、
「そうなんだが……、仲間がなんとかするだろう。頼りになるやつらだからな。無責任かもしれないが、お前を放っておくほうが心配だ。半人についてもちゃんと知っておきたい。ピュシスが危険なゲームなら、遺跡の件は失敗してしまったほうがいいのかもしれない。ピュシスがなくなったほうが、みんなのためになるのかもしれない。そんなことを考えている俺は、どのみち参加しないほうがいいだろう」
「じゃあ。待ってる」
やや幼くも感じる口調で言うギンドロに、ハイイロオオカミは上げた腰を、一旦下ろして、
「うん。しかし、もうちょっとだけここで休憩してもいいか。ログインするのは、最後かもしれないから」
目に、鼻に、耳に焼きつけておこうというふうに、感覚を研ぎ澄ませる。
「大丈夫だよ。きっと、もうすぐ機会惑星がピュシスになるから」
どこか上の空のギンドロ。
「人間が動物や植物になって、か。やっぱり信じられない。ログアウトするのがこわくなってきた」
「そんな世界になってもヒトを殺した罪は残ると思う?」
不意に聞かれたハイイロオオカミは、しばらく逡巡していたが、ややあって牙のない声で、
「罪はそんなに都合よく消えてはくれない。いつか、どこかで、お前を追い詰めることになる」
「……そうだよね。罪を消すには、罰を受けなきゃいけないよね」
「罰は罪を消すためにあるんじゃない。罪を許されるためにあるんだ。もしも、世界が変わったら、罪は残っても、罰はなくなるのかもしれないな」
「罰なき罪か……」
「植物の一生は長い」
「そうだね」
「まだ、お前は人間なのか?」
「半分は」
「それはよかった」
ハイイロオオカミはピュシスの隅々までもを心に留めようとする。どこまでも色鮮やかな自然。灰色で塗りたくられた機械惑星とは正反対。せっかくなら、ハイイロオオカミではなく、虹色のオオカミにでもなりたかった。そんなことを、すこし思った。