●ぽんぽこ15-9 怪物中の怪物
奈落タルタロスの荒廃した大地をおおい尽くした大小様々なヘビの大群。闇のなかから吹きつけてきた猛火に対して、ハイイロオオカミはぬめる鱗の海にとびこんだ。いまだその肉体はショロトルのスキルの効果で双頭。二つの口それぞれにはマーゲイとチワワが咥えられている。
潜った直後に、頭上を火炎が通り過ぎた。
まるで台風のような怪物の咆哮が奈落をゆらす。泳ぐハイイロオオカミの体にヘビがからみつき、噛みついてくる。しかし、すでに体力ゼロの死者。これ以上ダメージを受けようがない。不快な感触はあるが、それだけだ。
だが、火はまた別に違いないという予感があった。ケルベロスの火は体力だけでなく、命力をも削ってきた。同じだとすると、燃やされてしまえば消滅することになる。
冥界送りになる前、ハイイロオオカミは渓谷の森に出現した海で泳ぐ機会があったが、それとはまったく勝手が異なるヘビの海。身動きがとりづらく、シャー、シャーと噴気音がやかましい。
頭を押さえつけてくるような熱気。ヘビの海が火炎に焦がされる。
「マーゲイ。テュポーンと言っていたがなんだそれは」
ハイイロオオカミの質問に、ネコの尻尾がくるんと丸まって知識を絞りだす。
「タルタロスに収監されてる化け物のなかでもぶっちぎりで一番ヤバイやつ。御覧の通り、口から火を吐く。肩から無数のヘビが生えてるっていうから、ここはきっとやつの肩の上。神ゼウスは宇宙すら壊せる雷を武器に持ってる最強の神だけど、それに唯一勝利したっていう怪物中の怪物がテュポーン。そして、怪物たちの父親でもある。ヒュドラーやキマイラ、オルトロス、それからさっき殺したケルベロスも彼の子供。もしかしたら、怒ってるのかもね」
聞いたチワワがふんと鼻を鳴らす。
「あれの親ならどういう躾をしたのか知りたいものですね」
「弱点はないのか?」
「そんなものはないよ。最強の怪物なんだから」
「どうやって倒されたんだ。タルタロスにいるってことは倒されたんだろ?」
「神ゼウスの雷ありきの戦闘。ぼくらには絶対に不可能な方法ってことはたしか」
やや諦観混じりの投げやりな返答。
ハイイロオオカミは考える。ここは冥界。ギンドロの植物族のスキルによって生成されたフィールド。体力を強制的にゼロにされてスキルが使用不能になる。ただし、例外として、冥界の関係者、ショロトルのような神のスキルは使えるようだ。
「チワワはさっき見せていた姿以外には化けれないのか。鳥に」
「アホロートル、トウモロコシ、リュウゼツランの三種類だけなのですよ。伝承でショロトル神が変身したのはこの三つ。期待に応えられず申し訳ない」
「いいさ。できないものは仕方がない。目下のところは脱出よりも、焼かれないようにしないとな……」
ヘビの海の海中で鼻先を上げる。巨大な炎が冥界に渦巻いているのが、こすれあう鱗の隙間を透かして見える。犬かきでヘビをかき分けるが、炎を避けて深く潜ると水圧のように抵抗が増してきた。押しあげられそうになる。四肢や胴や尻尾にからみついたヘビが、ハイイロオオカミを外へと追いやろうとしている。ぬめぬめとしたとらえどころのない力の流れ。二つの口に咥えているマーゲイとチワワをもぎ取られそうになって、それだけはなんとかさせまいと首をそらす。
無数のヘビが竿と糸になって、釣りあげられるみたいにしてヘビの大群の外側へと放りだされた。
狙いすましたかのような焔の放射。
ハイイロオオカミは気合と共に尻尾を使って、ネコ科みたいに空中で軌道を変えようとしたが、イヌ科の身ではうまくいかなかった。せめて咥えているふたりだけでも放り投げて助けようとしたとき、チワワが、
「使いますよ!」
声と同時にヘビの海に大波。絨毯がめくれあがるみたいにして、ヘビの塊がひるがえる。壁の如き波によって火炎が防がれているあいだに、ハイイロオオカミはヘビの海に身を隠すことに成功。チワワが荒く息をついて、
「危なかった……、ショロトルのスキルでこのあたりのヘビどもの首を二股にしました」
体積が二倍になったことで、ヘビの海面が盛りあがり、炎からハイイロオオカミたちを守る盾となってくれた。
「お前に助けられるとはな」ハイイロオオカミ。
「ぜひとも恩義を感じてくださいませ」チワワがぺろりと舌をたらす。
炎をまとったヘビが海面付近でのたくっている。しかし、このヘビもテュポーンの体の一部であるからか、燃え尽きたりすることはなく、鱗に火炎を灯らせたままハイイロオオカミを追跡してきた。マーゲイが爪でひっかいて追い払う。けれど、わずかに火に焼かれて、命力が削られてしまった。
「やっぱり、命力ダメージがあるのか」
ハイイロオオカミが必死でヘビのなかを泳ぐ。四肢で押しのけ、蹴りつける。今度は流れを利用し、波を乗りこなすことに集中しながら、火と、火を伴ったヘビから逃げる。
「どうすりゃいいんだ……」
疲労を滲ませるハイイロオオカミ。双頭に咥えられているマーゲイとチワワはオオカミの涎とヘビのぬめりで毛衣がすっかりべたべたになっている。美しいヒョウ柄が見る影もなくなっているマーゲイが、
「試合終了まで待つしかないかな。これは負けだ。けど、どっちにしろ、ぼくらが優勝したのと変わらない。ギンドロにも言ったけど、この試合の勝敗に、もう意味なんかなくなってる」
それが賢い選択。ハイイロオオカミにも分かっていた。熱が全身の毛並みをけば立たせる。
「俺も、この際、勝ち負けはどっちでもいい。ただ、ギンドロにこれ以上このスキルを使わせたくない」
「ぼくだって燃えるのはごめんだよ」と、マーゲイ。
「そうじゃない。これはウルフハウンドと同じだ。ピュシスにおいて異質な、火を使うスキル。放ってはおけない」
「じゃあケルベロスと一緒で、燃やして消滅させる? 上まで火が届くかは分からないけど」
「いや。ギンドロはまだ踏みとどまれる。自分の内に怪物を飼っているだけだ。火は外側には向いてない」
「その火に燃やされそうになってるんですけど。ぼくら」口がとんがる。
「燃やされなければいいんだ。俺たちを燃やしたらもうギンドロは引き返せない」
「お優しいのはいいけど、ぼくを巻きこまないでね。シロサイにとどめを刺したのはギンドロだよ。シロサイのお腹に枝が刺さってた。炎のなかを懸命に走っていたシロサイを攻撃したんだ。下手したら消滅してたに違いない。PK未遂だ。そして、いまは完璧にぼくらを殺そうとしてる」
「あくまで未遂だ。俺なんかはケルベロスに実際に手を下した」
「やったのはキツネたちだけどね」
「同罪だ。俺も、お前も。あれは仕方ないことだったと、はっきり言えるが、ろくなもんじゃない」
「ぼくは気にしないけどね。ピュシスを守ったんだ」
「それでもだ。罪に対して罪の刃をふりかざしたにすぎない」
「ぼくの好みじゃないけど、正義を自称でもすれば納得するわけ?」
「正義なんてなかった。獣になれないヒトを、ヒトが退治した。英雄譚ではなく、これは悲劇だ」
「面倒くさいな君」
「それが俺だ。俺という人間だ」
ヘビの波にもまれながら口論するふたりをよそにチワワが耳を縮めながら、
「しかし、そろそろ太陽が昇っていてもおかしくはない時間ですが……?」
全員そろってヘビの海の外を見上げる。ハイイロオオカミが海面へと舵を取る。ヘビをかき分けるのも、だいぶん慣れてきた。火炎が轟々と猛っているタルタロスにこっそりと鼻先をだす。
奈落の天井に開いた大穴。その向こうにある楽園エリュシオン。銀に輝くギンドロの梢がかすかに見えている。エリュシオンの外に広がる渓谷の縄張りの様子は分からない。
「たしかによく考えたら、とっくに試合が終わってなきゃおかしい」
双頭の目を凝らして、二つの鼻と四つの耳で探る。
「バグかな」と、マーゲイ。
「縁起でもない……」
チワワは首をふって、
「でも、可能性はありますね。火災など前代未聞でしょう。ゴールのグラフィックが歪んでいましたし、とてつもない処理負荷だったんだと思いますよ」
「もしくは月の影響ということもあるか」ハイイロオオカミがちいさく頷いて、
「月を食ったハティがスキル使用中に消滅したせいで、月がバグったのかもしれない。月が沈む処理が永遠に完了せず、太陽を昇らせる段階に進めない、とかな。天体の運行で試合時間が定められているなら、試合も終わらない」
「ケルベロスやこのスキルもバグの産物っぽいけどね」
マーゲイが熱気に首をひっこめる。
しばらく身じろぎせずにいたが、やはり試合は終わらない。台風にも似たテュポーンの雄叫びが、闇の奥から響いていくる。群鳥のように焔が飛翔して、ヘビたちが激しくのたうつと、またしてもハイイロオオカミは海の外へとはじきだされた。
「チワワ! 頼む!」
「分かってますよ!」
ハイイロオオカミの要請にすぐに応えて、ショロトルのスキルが使われる。倍増したヘビが波立って壁を形成。火炎の嵐が吹き抜け、奈落の底を荒々しく熱する。地獄の窯には雲もなく、恵みの雨は期待できない。
千々になった焔の破片がとび散り、襲いかかってくる。火がついた尻尾をもんどりうって消火すると、ヘビを踏みつけ、双頭のオオカミが駆ける。
走り、走り、走りまわる。
どこまでも、ヘビで満たされている。これが一体の怪物の肩、その一部しかないというのが、信じられない思いだった。
闇雲に走っていると、台風の目のように比較的、火の勢いがおだやかな場所があった。一時立ち止まり、エリュシオンを仰ぐ。大穴の縁にいるギンドロの植物族。
「なんとか説得してみる」と、ハイイロオオカミ。
「それしかないか。白旗ふって降参ってわけだ。でも試合時間が終わらないんだったら、防衛側の勝ちは絶対にないわけだし、ぼくらがゴールを踏むしかなくなる。ギンドロがそれを許すかな?」
「余計なことを考えるなマーゲイ。お前はしゃべるなよ。一言多いんだからな」
「はいはい」
「私は火をいなすのに専念します。頼みますよ。ハイイロオオカミ」
チワワはいつでもショロトルのスキルを使えるように身構えて、火の動きを注視する。
遠吠えをするみたいに、ハイイロオオカミが声をあげた。
「ギンドロ! 聞こえるか!」
返答はない。それでも、呼びかける。
「この試合はおかしい! 終わらなくなっている! スキルを解いてくれ! このままでは俺たちは燃やされてしまう! 消滅することになる!」
はらはらと、銀の葉が奈落へと落ちて、闇に消えていく。
「ギンドロ! このスキルは危険だ! 火のおそろしさはお前もよく分かっているだろ! 多くの仲間が燃やされたんじゃないのか! 俺の、俺にとっての仲間たちも、目の前で燃えた! シェパ……、ドーベル……、それからハスキーも……。ウルフハウンドだって……。お前はウルフハウンドのようにプレイヤーを燃やしたりするな! PKなどしたら取り返しのつかないことになるぞ! お前は仲間が消滅する悲しみを知っているはずだ! それなのに、俺たちを燃やすのか……!」
絞りだすような叫びに、おごそかなギンドロの声が降り注いできた。
「大丈夫」
マーゲイが小声で「こっちは全然大丈夫じゃないけど」
「大丈夫」くり返して「あなたたちが機械惑星で生まれ変われるように、植物になれるように、わたくしが……、私が、祈ってあげるから……」
「植物に……? なにを言ってる? なんなんだ今日は? ハスキーにはオオカミになれと言われ、ギンドロは植物……、厄日か?」
「あなたたちは植物になるんです」
ギンドロが言い切った。