●ぽんぽこ15-8 楽園からの追放
ハイイロオオカミは二つになっている頭を左右に向ける。
広がるのは美しい園。死後の楽園であるエリュシオンのフィールド。空には月も太陽もなく、渓谷の夜を置き去りにして、うららかな昼下がりの明るさ。炭と灰にまみれていたのが嘘のような麗しい花々の香り。花園を吹き抜けるのは、どこまでもすこやかな風。
「冥界、か。冥界の番犬を突破したばかりではあるが……」
耳をとがらせたハイイロオオカミは、そびえ立つギンドロの植物族を睨んで、
「あくまでも勝負を続行する気なんだな?」
「わたくしは勝ちます」
ギンドロが高らかに宣言する。
マーゲイ、それから一応はギンドロの群れの一員であるチワワも冥界送りに巻きこまれている。
片面が銀に輝く葉っぱの梢を、マーゲイはまぶしそうに見上げて、
「もうやめようよ。ぼくらの勝ちでいいじゃない。トーナメントがなんのために開かれているか分かってる? 優勝した群れは、このあと遺跡ダンジョンに潜って、敵性NPCの巣窟を破壊する役目があるんだよ。君にその役目がこなせる? 君のお仲間たち、ほぼ消滅してるじゃない。これじゃあ、こなせないでしょ。だからどうせ、たとえ二位になってもぼくらがいくことになる。なんだか変なプライドがあるのかもしれないけど、ここで君が勝つことに意味はないどころか、ぼくらに勝利報酬の命力が入ってこない分、ピュシス全体にとって害になる行為だ」
「マーゲイの言う通りですよギンドロ。冷静に判断しましょう。今回のところはこちらの勝ちということでよろしいのでは?」
チワワが同調する。片銀の葉がはらはらと落ちて、ガラスのように輝きながら、瑞々しい草花の上に横たわった。
「たとえ、わたくしひとりであろうとも、敵性NPCをなんとかしてみせます」
「無茶を言うな」
ハイイロオオカミが眉をしかめるが、ギンドロは意固地な態度。
「やります」
「そうかよ。だが、それは本当に勝ってから言うんだな。マーゲイ、いくぞ」
「冥界からの脱出だね」
「ああ」
「私を置いていかないでください」チワワが慌ててふたりに駆け寄る。
「ギンドロ。ルール説明は不要だ。スタートを切ったら、ふり返っちゃダメなんだろ。俺たちは全力で駆け抜ける。これが最後の勝負だ。いいな」
傷んだ肉体に鞭を打って、霞むほど遠方にまで続いているギンドロの並木に双頭の鼻先を向ける。並木をたどってふり返らずに進めば冥界の出口があるらしい。残された時間はわずか。けれど、ハイイロオオカミに負ける気はなかった。
駆けだそうとする獣たちに、梢からは呪詛のような言葉が舞い落ちてくる。
「いかせません。いかせません。いかせません……」
「残念だが、俺たちはゴールへ……」
と、言いさして、地を蹴ろうとしたその瞬間、突如として大地が割れた。
「何事ですかっ!」驚嘆したチワワが尻尾を逆立てる。
双頭のハイイロオオカミは咄嗟に二つの口のそれぞれに、マーゲイとチワワを咥えて跳躍。しかし、崩壊から逃れることはできない。
ひび割れた花園。土の下にあった岩盤すら砕けて、大穴が貪欲な口を開けた。カンガルーでも跳べないであろう広範囲が一気に崩落。切り立った崖のような場所に佇むギンドロに見下ろされながら、ハイイロオオカミたちは穴の底へと落下する。
まるで深海へ沈んでいくように、空から遠のき、暗い場所へと。
「くそっ!」
空中でもがくハイイロオオカミ。しかし、翼でもなければ助かりようがない。
「怒ってもしょうがないよ」
咥えられているマーゲイがオオカミの頬をヒョウ柄をした長い尻尾でたたいた。
「どうなってるんだ。どこへいくんだ」
双頭が上へと流れていく風景を眺める。闇が濃くなっていく。いつ終わるとも知れない落下に、身を縮める。
「上は天国だったんだから、下にあるのは地獄に決まってるでしょ」
「ヴァルハラからの追放。ヘルヘイム、いや、その下のニヴルヘルってところか」
ハイイロオオカミがそんな言葉をもらすと、チワワが祈るように、
「いきつく先はシバルバーか、ミクトランか」
すると、マーゲイはふたりの言う場所を否定して、
「どれも似てるけど違うよ。この下はきっとタルタロス……、奈落だ」
ついに三頭が冥界の底へと到着した。強い衝撃に身構えたが、そんな予想は裏切られて、全員が無事。
「そういえば、ぼくら死んでるんだった」
双頭の口からこぼれ落ちたマーゲイがぴょこんと冷たい土を踏んで起きあがる。奈落にあるのはさびれた大地、さびれた山、さびれた丘、さびれた沼。さびれた野原のさびれた草花。どこまでも暗いのに、どこまでも見通せる不思議な空間。崖のような青銅の壁が地平線のさらに向こうをおおっている。エリュシオンにあった生き生きとした園とは打って変わってしなびた園。天を仰ぐと、自分たちが落ちてきた大穴を通してエリュシオンの空が見えた。穴からはわずかな光が射しこんで、底に届くこともなく闇に呑まれている。
「なるほど。体力がゼロになってるんだったな」
ハイイロオオカミが自分の体力を確認する。数値はゼロ。その他の状態は、冥界に足を踏み入れたときのもので固定されているようだ。火傷や怪我はそのまま。治ってもいなければ、悪化したりもしないらしい。
「どういうことです?」
きょとんとするチワワに、マーゲイがくりくりとした瞳を向ける。
「チワワはギンドロからエリュシオンのスキルのことを聞いていないの?」
「まったく。さっぱり。彼女はなかなかガードが固くてね。秘密主義なんですよ」
「君が信用されてないだけでしょ」
「いやはやこれは手厳しい。……それで、教えてはいただけないので?」
ペコリと頭を伏せて薄笑いを浮かべるチワワの額に、マーゲイはふうんと鼻息を吹きかけて、
「ぼくらが事前に入手している情報だと、冥界送りになった時点で体力がゼロになる。本来であれば、死体状態になって動けないはずなんだけど、冥界のなかだとそれでも動ける。そして、冥界を脱出すれば、生き返って、元の状態に戻れる。それまでは、スキルは使用不能。こんなところかな」
ハイイロオオカミも耳を傾けていたが、双頭の顔を見あって、
「しかし、強化は残るんだな」
ショロトルのスキルによって二つになった頭はそのまま。
「そういえばそうだね。なんか、変だな。スキルは……、うん。使えない」
「おいマーゲイ。いまスキルを使おうとしたのか?」
ハイイロオオカミが四つの耳をとがらせると、マーゲイはあっさりと、
「そうだよ」
「俺の心臓を奪おうとしたってことか?」
「そうだよ」
「勝手に……」
「それよりも、ハイイロオオカミはどう?」
嘆息しながらフェンリルのスキルが使えないか試してみる。
「……俺もだめだ」
「じゃあ、外から持ちこんだバフは有効ってことなのかも……」
と、結論をだそうとしたマーゲイの足元で、のそのそと動く影。
「私のスキルは問題ありませんね」
チワワの声。姿はアホロートル。メキシコサンショウウオ、もしくはウーパールーパーとも言う。ショロトルのスキルによる変身。二股のトウモロコシ、二股のリュウゼツランにも変身してみせる。
「あれれ? どうして使えるのさ」
「と、言われましても……」変身を解いたチワワは、ふっと顔をあげて「ああ。そういえば、ショロトル神は冥界下りの経験者です。双子ともされるケツァルコアトル神と共に冥界ミクトランに赴いて、新世界で人間を作るために、冥界にある前時代の人間の骨を取りにいったとか、なんとか……」
「ふうん。冥界関係者のスキルは使えるのか……、ケルベロスが生きてたら、こっちでも暴れてたかもね」と、マーゲイは、ふと気になっていたことを尋ねてみる。
「ケツァールとは仲いいの?」
すると、チワワは虚を突かれたという顔をして、ちょっぴり気恥ずかしそうに、
「以前から私はこの渓谷の近くにくることが多かったのでね。それで知り合ったんですよ。同好の士といいましょうか。そんな関係でして……」
「森林浴でもしてたわけ?」
「いえ……、私も彼も、マンチニールの歌が好きでして……、彼に手伝ってもらいまして、縄張りの縁で、その、こっそり聞かせてもらっていたんですよ」
「盗み聞きってこと? なーんか破廉恥でやだなあ」
ネコの目がつりあがったのを見て、チワワは慌てて首をふる。
「私はただ渓谷に満ちる音が好きだっただけです。歌はその一部にすぎません」
「なんだかなー。そーいうの、ちょっとどーかと思うなー」
冷たい視線に、横からハイイロオオカミが割りこんで、
「そんなことはどうでもいい。いまちょっと近くを見てまわってきたが、ここには出口がなさそうだ」穴が開いている天井を見上げて「あそこまで、どうにかして登るしかないか……?」
「ハゲタカが飛んでいますね」チワワも鼻先をあげる。「NPCのようですが、呼んで運んでもらうことはできないでしょうか」
「ぼくは関わり合いにならないほうがいいと思うな」
「なぜです?」
「あれはティテュオスのはらわたをつついているハゲタカだよ。ぼくらもつつかれるかもしれない」
言いながらマーゲイは改めてタルタロスを見渡す。
「向こうの山のふもとにあるのはシーシュポスの岩か。罰として山頂まで持ちあげないといけないんだけど、頂上に到着する直前にめちゃくちゃ重くなるっていう意地悪な岩。あっちはタンタロスの果樹っぽいね」
「タンタロスって、タルタロスとは違うのか?」
ハイイロオオカミの疑問に、マーゲイは尻尾を首の代わりに横にふって、
「タルタロスはこの奈落の名前。タンタロスは人の名前。罪人だね。自分の息子を殺して料理した。それを神様たちに食べさせようとしたっていうとんでもない罪。あの沼の上にある果樹に吊るされて、沼の水を飲もうとしたら水が引いて、果実を食べようとしても届かない。そういう罰」
「おそろしいものですねえ」チワワがしみじみと言ってちいさく震えた。
「詳しいなマーゲイ。ついでにタルタロスからの脱出方法も知らないか?」
聞かれると、ネコひげが悩ましげにうごめく。
「タルタロスは牢獄だからなあ。脱獄したなんて伝承あったかな……? 大戦ティタノマキアで神ゼウスが自分の軍に加勢させるために、ヘカトンケイルとかサイクロプスたちを解放したって話は見たけど、それ以外は……」
「ヘカトンケイルというと百の腕に五十の頭を持つという巨人ですな。サイクロプスは単眼の巨人。ううむ。おそろしい」チワワがうなる。
「五十の頭か……」
ハイイロオオカミが双頭になっている自分の肉体を気にするように目を伏せた。そうしてタルタロスの暗い大地に落ちるハゲタカの影を視線で追いかけながら、
「まさかそんな化け物どもがいたりしないだろうな」
「そんなのいるわけが……」
ぴくり、とマーゲイが体を硬直させて声を詰まらせた。ばっ、とハイイロオオカミに身を寄せる。
地面からなにかがぬらぬらと這いだしている。
「ヘビ?」
それも大量。腕ほどの太さのものもいれば、小指ほどの細さのものもいる。いずれも尻尾が見えないぐらいに長い胴。危険な気配。ハイイロオオカミは再び双頭でマーゲイとチワワを咥えあげる。
「獄卒ならマシなほうだけど……、これは……、やばいかもね……」
マーゲイがざらついた舌で口を舐める。
無数のヘビ。ヘビの海。その海面がせりあがってくる。闇のなかを埋め尽くし、奈落が海に没する。
足裏をぬめらせながら、ヘビの波の上でハイイロオオカミがバランスをとっていると、闇の奥が鮮烈な赤で輝いた。
「またかっ……!」
焔。マーゲイが叫ぶ。
「ここはテュポーンの肩の上だ!」