●ぽんぽこ15-3 ハスキーの望み
業火に呑まれた渓谷の森。火災によって発生した分厚い雲が月のない夜空をおおい隠し、油絵の如き煙の凹凸が、深い影と、突き抜けるような明るさを内包して渦を巻いている。赤い霧とも見まごう大量の火の粉が熱風を乗りまわし、燃える森を駆け巡る。夜は昼へと反転し、昼よりも明るく輝いていた。
そして、巨大な炎に照らしだされたケルベロスもまた、太陽すら凌駕するのではないかという強い輝きを発していた。
黄金のケルベロス。シベリアンハスキーが与えた黄金の果実の効力で、あらゆる負傷は治療され、能力が飛躍的に上昇。
三つ首が高らかに掲げられる。噴出した焔が森の空に放物線を描いて、火種を大地に植えつけていく。
フェンリル、スコル、ハティの三頭は暴挙を止めようと、黄金のケルベロスに挑む。ハスキーが退散して距離をとるが、いまはそちらに構っている余裕はない。
先程と同じ方法で冥界の番犬の捕獲を試みる。正面からフェンリル、後ろ斜めからスコルとハティ。三方向からの同時攻撃。しかし、強化されたケルベロスは想像を遥かに超える動き。
火炎旋風が吹いたのかと錯覚する。地面をたったひと蹴りしただけで体長の十倍ほどの距離を跳躍。回転しながら着地して、三本の火炎放射で編まれた焔の大繩を鞭のようにふりおろしてきた。
「こっちだ!」
フェンリルは焦土に佇む大岩を目指して、その陰にとびこもうとする。ハティが追いかける。けれど、スコルは炎で分断されて、逆方向へ逃げることを余儀なくされてしまった。そちらに隠れる場所はない。炭になった樹々が、ささくれだった棘のように突きだしている焼け野原。遮るものを焼き尽くし、冥界の番犬が吐く炎が迸ると、大地に赤い火の絨毯が敷かれる。
発火するスコルを助けようと、フェンリルが踵を返したが、いつの間にか三本の火炎放射のうちの一本が、白銀の毛衣へと向けられていた。
「危ないっ!」
ハティにかばわれる。突きとばされて、岩陰へと押しこまれる。
別れの言葉を交わす間もなく、子狼たちは灰になり消滅。
大岩に炎が浴びせかけられる。大岩を盾にフェンリルは踏ん張るが、赤熱する岩が毛衣をこんがりとあぶってくる。
「ふたりとも燃えてよかったね」岩の向こうからハスキーの声。「あの子たちは仲良かったから。本当のきょうだいみたいに」
「ハスキー。なぜそんなやつに手を貸すんだ……」
投げかけられた疑問に対して、ハスキーは熱っぽい声で、
「あなたに消滅してほしいから」
「なに? 俺のことを嫌っていたのか……?」
「違うよ。好き」こともなげに言って「でもハイイロオオカミが好きなんじゃなくて、あなたが好きなの。あなたそのものが。だからお願い。オオカミになって。そうしたら、見つけてあげる。見つけられるから」
「オオカミに……?」
岩そのものが炎に成り果てようとしている。フェンリルは岩からすこしずつ距離をとるが、そうすると、横からまわりこんできた火に焼かれそうになる。
「意味が分からない。俺はオオカミだ。ウルフハウンドにもそう言ったはずだ」
すると、ハスキーはくすくすと笑って、
「半人のこと知らないのね」
「半人?」
「あとで教えてあげる。じっくりと。現実でね。いっぱい哀しんでいてほしいな。そうしたら、なぐさめてあげる」
周囲の熱が耐え難い温度にまで上昇。大岩は炎に取り囲まれ、もはや火の監獄と化している。抜け道を探すが、あるのは燃え盛る炎の壁だけ。
呼気に混ざって火が体内に侵食してきた。喉が焼ける。
火の井戸の底で天を仰ぐ。鳥のように飛べたら、そんな逃避めいた考えまで浮かんできた。煙と雲の境目が分からないぐらいに空は混沌として淀みきっている。煙と雲。雲に煙が呑まれているのか、雲から煙が生みだされているのか。見える限りだと、後者に思える。雲をひき千切ったみたいな煙が伸びて、まっすぐに、こちらへと向かって……。
夜風が吹いてきた。
火を薙ぐほどに強い突風。火の囲いにほころびができたのを見て、フェンリルはすかさず脱出。ハスキーの悲鳴。山なりに遠のいていく声。暴風になぐられて、彼方へと飛ばされた。同時に、ケルベロスが喉をからませたような唸り声を発する。フェンリルが目撃したのは、意思を持ったかのようにうねる煙にまとわりつかれた三つ首の大犬の姿。
「ハイイロオオカミ。君いたの?」マーゲイの声がした。
テスカトリポカのスキル。仲間を生贄にして発動。肉体を煙状にして、変幻自在に戦う他、夜風を操る効果も持つ。話には聞いていたが、フェンリルが実際に目にするのははじめて。
煙の繭がケルベロスを包む。吐かれた炎が煙ネコの体を貫通したが、ダメージはなし。気体の肉体はあらゆる攻撃をいなすことができる。にもかかわらず、煙の爪で敵を切り裂いたり、煙の体で縛りあげたりが可能といった無法ぶり。
網目状にした煙の体で黄金のケルベロスを捕まえる。冥界の番犬の強力な肉体に黄金の果実の効果が加わった超強化状態ではあるが、仲間の命という特大の代償を支払って発動するテスカトリポカのスキルも負けてはいない。縛る力と、はねのけようとする力はほぼ互角。拮抗状態になる。
「こいつ強い! 手伝って!」
マーゲイの要請に、フェンリルがすぐに応じる。焦げた野を疾走。途中でケルベロスが火を吐いたが、開いた口には煙が押しこまれた。煙ネコはそのまま敵を体内から食い破ってやろうとするが、喉元で熱と煙の押し合いになって、それ以上は進めない。暴れる三つ首すべてをおおい続けるのは難しく、窒息を狙うこともできなさそうだ。
焦げた毛衣の白銀の大狼が黄金のケルベロスの尻尾を咥えてひきずろうとする。
「こいつを火炎に放りこみたい。消滅させるんだ」
「なるほど。そりゃいい。この世界から消してしまおう」
ケルベロスが抗議の咆哮をあげるが、かまわずフェンリルは、
「マーゲイ。運べないか?」
「無理。動きを封じるので精いっぱい。そっちでなんとかして」
細く伸びた煙の網は限界にまで張り詰めている。フェンリルは咥えている敵の尻尾を思いっきりひっぱったが、びくともしない。黄金のケルベロスは岩のように地面にへばりついている。強化された毛衣は硬質、地を踏みしめる力は強烈。
「こいつは黄金の果実を食ってるんだ」
「そうだろうね。こんなにキンキラリンなんだから」
「俺の力じゃ動かせない。効果が切れるのを待つしかないか?」
「待ってたらぼくのスキルの制限時間だって切れちゃうよ。バフの効果はあとどれくらい?」
「それが分からないんだ。使っているところを見たことがなかったから」
「じゃあ、いま頑張って! はやく! はやく!」
渾身の力をこめるが、それでもケルベロスを動かすことはできない。三つの頭は煙のロープにじゃれつくみたいに顎を開閉させて、大噴火の予兆の如くに、時折、ちいさく火を吐いた。いまにも煙をひき千切らんと、眼光鋭く力を滾らせている。煙ネコは一瞬も気を抜けない。
尻尾一本の力でもって、フェンリルが払われる。すぐに立ち上がって、再び尻尾に噛みつくが、黄金のケルベロスに対しては、強靭なフェンリルの肉体であっても力不足。
「はやくしてよ!」
「そんなに急かすな!」
猶予はあとどれぐらいなのか。時間の感覚が引き延ばされている。テスカトリポカのスキルが解けるのが早いか、黄金の果実の効果が切れるのが早いか。
焦りを募らせるふたりの耳に、遠くから吹いてきた熱風に混ざってイヌの吠え声が聞こえてきた。夜風で排除したハスキーが戻ってきたのか、とマーゲイが視線を向けると、姿をあらわしたのは、それよりもずっとずっと小柄なイヌ。一度戦い、取り逃がした敵。黒と白茶の毛色のチワワ。
「おやめください!」というのが自分たちに向けられたものかとフェンリルは思ったが、続く言葉でそうではないことが分かった。
「ウルフハウンド。なぜ森を燃やすのです? 植物族どもはいずれ取り込む予定ではなかったのですか? やつら消滅していますぞ。その力、どうやって手に入れられたのかは存じませんが、素晴らしい力です。心より敬服いたします。が、このようなことをする必要はまったくもってありません」
行動を共にしていたバロメッツのヒツジたちやヤドリギの植物族は炎に焼かれて灰になった。滔々と語るチワワに、ケルベロスは六つある目のひとつですら向けることなく、虚ろな繰り言。
「……狩りをしなければ。狩りを……。僕に狩りをさせてよ……」
「無駄だ」フェンリル。「こいつは頭がおかしくなってる。ピュシスのすべてを燃やし尽くすことしか考えていない」
「そんな……」
ちいさなイヌの大粒の瞳が見開かれる。黄金のケルベロスは煙に捕らわれ、もがきながら火を吐き続けている。そんな火のひとつがチワワに向かって放射された。咄嗟にマーゲイが夜風で小犬をすくいあげる。吹きとばされたチワワはフェンリルの後方へ落下。おそれおののき、へたりこむ。
「チワワ! 手伝ってよ!」煙ネコの体でケルベロスをがんじがらめに押さえこんでいるマーゲイが呼びかける。「僕らがやられたら、次に焼かれるのは君だぞ! 焼かれると消滅するんだ! 逆にこいつを焼いてやらないと!」
「忠実な部下である私めを焼くなど……」
ない、とは言えない。いま、まさに焼かれそうになった。火を吐く黄金のケルベロスの瞳には狂気だけが宿っていた。煙の拘束が永続でないことをチワワは知っている。マーゲイが使うテスカトリポカのスキルは強力な反面、制限時間が設定されているらしい。それが切れたとき、解き放たれた狂犬がどんなことをしでかすか、この惨状を見れば想像に難くなかった。
チワワの双眸が突如として落ちくぼむ。
「……あとで復讐なんかされないように、そいつを確実に殺してくださいよ」
まぶたも眼球もない暗い眼窩。神ショロトルの顔。奇形と双子を司る神。そのスキルの効果でフェンリルを強化。次の瞬間、白銀の大狼の頭が二つに。
火に濡れたように照らされた双頭のフェンリル。黄金のケルベロスの尻尾に二つの顎で噛みついて、腰を落として力をこめる。
「やってしまってください!」
甲高く、チワワが叫んだ。