●ぽんぽこ5-15 エリュマントスの猪
本拠地から北西方向。一面が赤土に覆われ、煉瓦のような岩が転がるサバンナでも特に乾燥している地帯。ライオンの群れに所属するギンヨウアカシアの植物族が作るまばらな林のなかで、イボイノシシが、ウマグマ、キョン、スナドリネコの敵三名による苛烈な攻撃に晒されていた。
スナドリネコが、その気性の荒さを示すように噴気音にも似た鳴き声を上げ、イボイノシシのふさふさとした尻尾に噛みつく。中型犬ほどの大きさのスナドリネコは、この場にいる動物のなかでは一番小柄ながら、優れた捕食者であるネコ科らしい俊敏さと獰猛さを持ち合わせている。灰褐色の毛衣に細長い黒色の斑模様。小型のヒョウのような風貌。
そんなスナドリネコの倍近い大きさのイボイノシシは、がっしりとした体をぐるんと回転させて、尻を大きく横に振った。尻尾に食いついたままのスナドリネコは振り回されて、傍にあったアカシアの樹に叩きつけられる。衝撃で牙が尻尾から離れ、スナドリネコは樹の根本に落下した。敵が体勢を整える前に、イボイノシシは顎からはみ出すほどに巨大な三日月状の牙を突き立てて、即座にスナドリネコの体をアカシアの樹に張りつけにする。スナドリネコの体力は一気に失われ、その肉体は動かなくなった。
一瞬の攻防。イボイノシシの強力な牙と突進力。仲間の植物族の能力上昇効果に加えて、イボイノシシの体は神聖スキルによって大幅に強化されていた。エリュマントスの猪と呼ばれる凶暴な怪物。狩猟の女神アルテミスがエリュマントス山に放ったという人喰いの猪。その怪力でもって、スナドリネコを一撃の元に葬ったのだった。
そんな怪物に対して、残った敵二頭は退こうともせず立ち向かう構えを見せる。その二頭もまた、ただの獣ではなかった。キョンは角は眩い黄金の輝きを放ち、蹄は青銅でできていた。エリュマントスの猪と同じく狩猟の女神アルテミスの関する神話。女神の戦車に繋がれ、それを牽く聖獣。矢よりも速く駆けるというケリュネイアの鹿の姿。その隣のウマグマはその灰褐色の毛衣が膨らんで全身が巨大化し、二本脚で立っいる。イエティと呼ばれる雪男の怪物の姿。と言っても、人に似てはおらず、ほとんど熊に近い姿ではある。
イエティはピュシスにおいては使う者が皆無である装備品を身に纏った。着込んだ甲冑の重量をものともせずにイボイノシシに立ち向かってくる。それを見たイボイノシシはヒグマに関する噂話を思い出していた。オオカミの群れに所属しているヒグマは、鬼熊という妖怪の神聖スキルを使うのだという。巨大化に加えて、人間のように直立二足歩行し、装備品を纏っても動作が鈍くならない効果があるらしい。それと似た神聖スキルに違いない、と判断する。
キョンが駆け抜けた瞬間、黄金の角が帯のように煌めき、青銅の蹄が硬い赤土を激しく叩いて、鉄琴をなぞったような音を立てた。イボイノシシは身構えたが、キョンは向かってはこず、ひたすらにアカシアの樹々を攻撃してその数を減らしている。人喰いの猪であるエリュマントスの猪の姿をしたイボイノシシは、今は雑食から肉食に相性が変わっている。キョンは草食動物。相性が悪く、体格も二回りほどは小さい。不利を悟ったキョンは、先にイボイノシシの補助をしている植物族を倒すことにしたらしかった。
走り回るキョンを捉えることは難しい。イボイノシシは大きな牙の鋭い切っ先を、まずはイエティに向けることにする。そうして猪突猛進、ドッ、ドッ、と赤土の大地を蹴り、真っすぐに突進した。イボイノシシの両目の下と頬にあるイボのような大きな出っ張りが、第二第三の牙の如く攻撃的に尖り、その四角張った頭部を、棘を纏った盾のように見せている。大盾によるシールドチャージさながらの突撃。攻撃は最大の防御を体現するかのようなその勢いに、イエティは怯む様子もなく両手を大きく横に広げた。甲冑の胸部を突き出して、真っ向から受けるという意思表示。
二頭が激突する。三日月状のイボイノシシの牙がイエティの甲冑を大きくへこませたが、貫くには至らなかった。イエティが籠手をはめた分厚い拳でイボイノシシの双牙をがっしりと掴む。押し合い。単純な力比べ。どちらも一歩も引くつもりはない。一対一の勝負に二頭の意識が集中しはじめた瞬間、横やりが入った。
イボイノシシの脇腹が、黄金の角で打ち据えられる。一瞬、ぐらりと足が揺れたが、イボイノシシは倒れずに、イエティとの力比べを続行させる。キョンの角はキリンの角程の長さしかない短いもので、それほど鋭くもない。しかし神聖スキルで金属化している今は、金の延べ棒を叩きつけられたのと同等の威力。キョンは踊るような軽やかさで突撃をくり返し、矢のような速さで飛び交う黄金の角が、イボイノシシの体を何度も打った。
イボイノシシはそんな攻撃にも耐え続け、更には双牙を掴むイエティを押し返して、微かに前進する素振りすら見せる。
「邪魔しないでよ!」
と、叫んだのはイエティの方。雪男とも言われるイエティだが、スピーカーの音声は女性的。
「何言ってんのアンタ。長がいつも早い者勝ちだって言ってるじゃない」
返すキョンのスピーカー音声も高い声。シカの仲間は、トナカイなどの例外を除いて牡しか角を持たない。しかし女神アルテミスは狩猟の神であると共に貞潔の神。その従者は乙女のみ。女神の聖獣であるケリュネイアの鹿も、角を持ってはいるが雌鹿であった。
「ひとの獲物を横取りするなんて、意地汚い真似はやめなさいよ」イエティがキョンを批難する。
「アンタがぐずぐずしてるからでしょ。その間にアタシは、この辺りの敵の草をぜーんぶ刈ったのよ」
キョンが言う通り、射られた矢よりも速いというその足で、見える限りのアカシアは伐採されていた。樹々が傷つき、倒れて、積み重なっている。そのグラフィックはしばらくの間残っていたが、時間が経過するごとに、一本ずつゆっくりと消滅していった。粉っぽい赤土の大地の上に、点々と落ちた黄色いアカシアの花びらだけが最後まで残っていたが、それもやがてほんのりと甘い香りと共に消え去った。
遠く離れた位置にアカシアの植物族の本体とも言うべき、プレイヤーが操作する一本の樹があるはずだが、そこからまた種を飛ばし、イボイノシシがいる場所まで根を伸ばして加勢するのは、かなり難しい状況であった。しかし、イボイノシシの気力は植物族のバフを失っても陰ることはなく、むしろこの逆境をはね除けようと高まった決意が肉体を前に進め、イエティをずるずると押しのけようとしていた。
「少しぐらい大人しくしてなさい」
イエティは力を増したように感じるイボイノシシの怪力に手こずりながらも、キョンに対して邪険な言葉をかける。
「嫌よ。アンタこそ引っ込んでなさいよ。押されてるじゃない」
キョンが目を尖らせて、短い四肢で地団太を踏んだ。青銅の蹄が赤土で打ち鳴らされて、鐘のような音を響かせる。
「草食動物がでかい口叩くわね。イボイノシシ、今は多分、肉食になってるのよ。さっきのアンタの攻撃だって、相性差で大して効いてないわ」
「中途半端な雑食動物風情に言われたくないわよ。そんなことアタシだって分かってるに決まってるでしょ。相性不利がなによ。アタシの足で一方的に攻撃し続ければ関係ないわよ」
口論の決着がつく前に、キョンが駆け出した。その行動をなじる声がイエティがスピーカーから漏れたが、キョンは止まるどころか加速していく。
イボイノシシは牙の反り上がった部分をイエティに掴まれており、上から押さえつけられるような形で足止めされている。掴んでいるイエティも今更それを離すことはできない。相手が力を抜く気配はない。むしろ込められる力は強まっている。最初の一撃を弾いた時、生半可な攻撃では歪みもしない高レアリティの装備品に大きな損傷を受けた。凄まじい化け猪の怪力。今、力を緩めたりすれば、今度こそ鋭い牙で甲冑を貫かれかねない。
キョンが吹き抜ける風を凌駕する速度で接近する。イエティの脇、イボイノシシの斜め前方に滑るように飛び出して来て、青銅の蹄を振り上げた。イボイノシシの頭にむかって緑青色の凶器が叩きつけられようとするその瞬間、
「があああぁ!」
と、イボイノシシが山が鳴動するような雄叫びを上げた。イボイノシシの足元を覆う煉瓦のような赤土が割れ、ヒビが広がる。同時にイエティの体が持ち上がって、横に流れ、キョンの青銅の蹄がその体によって弾かれた。
イエティが倒れて、キョンと折り重なりそうになったが、その瞬間、イエティは二足歩行から四足歩行に切り替え、ウマグマの名の由来となった馬のような走りで一時離脱を図った。キョンも倒れてきそうになったウマグマの体の下を潜り抜けるようにして駆け、二頭はイボイノシシと距離を取る。
「うるせえ!」
離れた位置で立ち止まって並ぶ敵二頭に、イボイノシシが憤怒の声を上げた。
「俺は貴様らの獲物じゃない! 貴様らが俺の獲物だ! まとめてかかってこい! 俺をあまり舐めるなよ!」
一瞬、キョンはその気迫に押されたが、すぐに立ち直って、気炎を上げるイボイノシシを睨みつける。ヨツメジカの別名通り、眼下線によって四つに見える目がぐりぐりと動いて、イボイノシシの状態をつぶさに観察する。確実にダメージは蓄積している。片一方の牙の先は欠けているし、後ろ足の状態もなんだかおかしい。さっきウマグマを横倒しにしようとした際に、無茶な力を込めたので怪我をしたようだ。強がり。見栄っ張り。プライドというやつだろうか、とキョンは考える。
「相手はああ言ってるよ」
キョンが、イエティに鼻先を向けて、耳をパタパタと動かした。イエティはそれを無視して、イボイノシシに声を掛ける。
「おい、イノシシ。あんまり強がるもんじゃないよ」
「舐めるな、と言っているのが理解できないのか。俺は貴様らが束になってかかってきても勝ってみせる」
「かっこいいこと言うじゃんか。けどね。アンタは狩られる側だよ。現に神話では見事、英雄に狩られてるじゃないか」
イエティが神話に言及すると、キョンは「そうそう」と頷き、イボイノシシは、ふん、と鼻息を鳴らした。
「エリュマントスの猪は罠にやられたんだ。英雄の仕掛けた猪口才な罠にな。真っ向勝負であれば狩られたのは英雄側だ。それに比べてケリュネイアの鹿はどうだ。キョン。お前の神聖スキルはその鹿なんだろう? その角と蹄ですぐに分かる。水を飲んでいて捕まった大間抜けがよ」
「言ってくれるじゃないの」キョンが歯を剥きながら前に踏み出す。黄金の角がきらりと輝いて、青銅の蹄が硬い音を鳴らした。
「落ち着きな。はねっ返り」
「うるさいな。ねえウマグマ。ふたりがかりでやっちゃおうよ」
「アタシは一対一で決着をつけたい」
「アンタの選り好みなんで知ったこっちゃないの」
すっかりやる気で騒ぎ立てるキョンとは対照的に、イエティは静かに自身の手元に視線をやる。先程のイボイノシシの一撃で、装備している甲冑の籠手が破損し、肘当て部分にまで被害が及んでいる。強い。血が滾る。邪魔者なしで、打ち倒したい。
イボイノシシが前足で地面をかきはじめた。打って出る構え。突進しようとしている。キョンはその動きを察知して、走りはじめると、疾風のように加速して、イボイノシシの背面を取った。
キョンの頭には血が上っていて、辺りへの注意がおろそかになっていた。そして、興奮状態にあったのはイエティやイボイノシシも同じ。大きな赤土の岩の影で、ポン、という微かな破裂音が鳴ったが、それを聞いた者はいなかった。
「おい」と声を掛けられてはじめて、キョンは背後に何者かがいることに気がついた。
「ひっ!」
と、小さな悲鳴を上げて、その後の言葉はスピーカーの奥に呑み込まれる。全身の毛が怖ろしげな気配に逆立つ。すぐに脱兎の如く駆けて、距離を取って振り返ると、黄金の獣が燦然と輝き、勇ましいたてがみが風に赤々となびいていた。
「……ライオン、何故いるんだ」
イボイノシシが唸るように言って、更なる力を漲らせる。
「俺様がいちゃ悪いか。せっかく来てやったのによ」
その言葉に、イボイノシシは目だけで微笑み、
「ふん。久々、だな」
「久々?」
ライオンが僅かに首を傾げる。
「ほんの何日か前に会っただろう」
「……なに?」
今度はイボイノシシが首を傾げる。確かにライオンに会ってはいた。しかし、イボイノシシの言葉は別の意味を持って発せられたものだった。
「ウマグマの言う通りにしてやったらどうだ」
と、乱入してきたライオンが藪から棒にイエティを鼻先で指して言った。
「なんだと?」イボイノシシが険しい形相でライオンを見つめる。
「俺様が見届けてやる。そこのキョンと一緒にな。望み通り一対一で決着をつけるがいい」
王の登場に、頭の芯まですっかり冷え切ったキョンは、冷静になって考える。ライオンの提案をはね除けたとして、二対二での戦闘に果たしてどれほどの価値があるだろうか。肉食獣二体相手に雑食獣と草食獣。相性不利ということ以上に、体格差、能力差も大きい。ケリュネイアの鹿は速度においては自信があるが、耐久力が強化されたわけではない。ライオンほどの瞬発力があれば攻撃やカーブで減速する瞬間を狙って、捉えることもできるだろう。一撃受ければ待つのは死。
間近に迫ったライオンは凄まじい威圧感だった。王者の貫禄。威厳。それにきっと神聖スキルを持っている。英雄の十二の試練。十二の功業。この場にそのうち二つに関わる者がいる。エリュマントスの猪。ケリュネイアの鹿。きっとライオンもそれに関わるスキルが使えるに違いない。そんな気がする。ネメアーの獅子。その神聖スキルが使えるとしたら、いよいよもって勝ち目はない。もし提案を呑んでイエティが勝てば、二対一でライオンと戦える。それならまだやれる可能性はある。
「……分かったよ」
キョンが足を引いて、短い尻尾をぷるぷると振った。敵にうまく乗せられて、時間稼ぎをされている自覚はあったが、キョンの生来の負けん気の強さが、この場から逃げるという選択肢を奪っていた。
「感謝するよ。アンタ物好きだね」
イエティが言ってイボイノシシの前に進み出る。
「キョン。終わるまではじっとしてろよ。大人しく勝負を見守っている内は、俺様も手出ししないでおいてやる」
言うと同時に、ライオンが嵐のような鳴き声を上げ、それはキョンの腹の底にまで響いた。キョンは赤土の大地にいくつか転がっている岩の傍まで移動すると、膝を折って腰を下ろす。ライオンも岩の元に移動すると、その上に登って、静観するように寝そべった。
「貴様らっ! 貴様らっ! 貴様らっ!」
イボイノシシは自分を置いて勝手な取り決めをした全員に憤っていた。そしてライオンまでもがそれに関わっていることが、更に大きな怒りとなって魂の奥底から噴出していた。
確かに、神聖スキルを使ったウマグマとキョンの二頭を相手に、自分がどこまで戦えるかは分からなかった。それでも誓いに懸けて戦い抜くつもりだった。ライオンと共に育んだ誇りに懸けて。
クソッ、とイボイノシシは心のなかで唾を吐いた。冷静な心では分かってる。二体二の混戦よりも、一対一で片付けていく方が負担は少ない。キョンが逃げたりせずにこの場に留まることを選ぶ性格だというのも把握している。防衛戦において重要な時間稼ぎ。俺に一対一の勝負を任せたのは信頼の表れ。
だが、だが、貴様ならこう言うはずだろう。共に戦おう、と。今の俺には貴様が突然、変心してしまったようにしか思えない。どうしたんだ。俺が手助け嫌いの一匹狼だと群れ員たちに噂されていることは知っている。しかし、貴様は知ってるだろう。それは貴様が俺と共に戦う立場ではなくなったからだ。貴様という相棒を失った俺は、貴様以外の動物と組む気にはならなかった。貴様は皆の王。俺だってそれぐらいのことはわきまえている。しかし、この場にまで来て、この状況で、何故、肩を並べて戦おうと言ってくれないんだ。何故だ。何故なんだ。忘れてしまったのか。ライオン。ライオンよ。群れを立ち上げ、縄張りを広げるために俺たちは共に戦ったじゃないか。
いかなる時も共に戦おうと、約束したのは、嘘だったのか?