●ぽんぽこ14-57 月のない夜
堰を切ったように事態が動きだした。
夜空に浮かんでいたはずの月が、いまはもうない。
月を食らう者、ハティのスキルの効果によって消滅したのだ。
まだ揺蕩っていたワインの海が、月の潮力を失ったためか、干上がる速度をあげると、断末魔のような潮騒があたりにこだました。
雲の切れ間から落ちるわずかばかりの星明かりが、舞台照明のように麒麟の姿を浮かびあがらせる。
龍か狼のような顔つき。鹿のような外形。スキルを使う前のキリンみたいな長首ではないが、体格は同等。かなり巨大な獣だ。肌には鱗。頭からは伸びやかな一本角が生えている。そして、たてがみは黄金色。
一歩、蹄を進めると大気がどよめいた。
定規で引いた線の上をたどるようにまっすぐ。まるで空中に道があるかの如く宙に蹄を置き、草花を踏むことなく駆ける。
向かう先には魔法のイヌ、ファリニシュ。虹色になったスパニエル。
角が低く構えられる。
ファリニシュは避けない。避けられなかった。麒麟とはあらゆる獣の頂点に位置する存在。その威光を前にしては、なにもできない。それこそが麒麟のスキルの効果。獣に対する絶対的で一方的な攻撃。睨まれたプレイヤーは逃げることも、反撃することも許されない。
麒麟は非常に温厚であり、殺生を嫌うとされるが、いざ戦う必要に迫られればその力をふるうことを厭わないという。まさしく、キリンがスキルで変貌しているこの麒麟も同じ。ファリニシュに対して、一切の容赦をしなかった。
風に流れた雲が星を隠す。月のない森は夜に生きる獣たちにすら暗すぎる世界。
むせかえるようなワインの残り香。
耳だけで物事を知った。
小犬が息絶えた音。次の瞬間にはフェンリル、スコル、ハティに付与されていた状態異常がなくなり、それぞれ肉体の操作を取り戻した。
フェンリルはほっと息をつく。ファリニシュが倒されたからか、毛衣に染みついていたワインも抜け落ちていくような感覚がする。
「キリンなのか?」
闇に尋ねる。
「仲良くね」
優しいキリンの声。
「ありがとう。感謝する。すごく。とても……」
見えていないだろうが鼻先と耳を伏せる。フェンリルに寄り添うスコルとハティも同じようにして礼を言う。
かすかなほほえみが闇の奥に煌めいた気がした。空気のうねりによって巨体が動いたことが分かった。山が静かに鳴動しているのではと錯覚する。麒麟は鬱蒼とした森の樹々を押しのけるでもなく、壊さないようにすり抜けるみたいにして、ひとりで駆けていってしまった。
フェンリルは麒麟が向かった先、ゴールの光柱を見上げる。あれだけは、闇のなかでもはっきりと見える。けれど、夜を照らす光源にはなりえない。光をふりまくことはなく、光があるというだけのグラフィック。どこか平面的で、目印以上の役割がないようにされている。
ゴールから目を離すと、風景は途端に闇一色になる。
丘のあたりから紀州犬の声。
「おーい。倒したのか? 無事か?」
「俺は……まあ無事だ。シェパ、ドーベル、怪我は?」
「そりゃもう」
「長の牙だもの」
なぜだか誇らしげな返事。
「ふたりはどういう立ち位置なんだ。味方って考えてもいいのか?」
紀州犬の質問に、
「そうだ。仲間だ」
フェンリルが断言する。すると、紀州犬は「分かった」と、短く言って、それ以上は聞かなかった。今度は闇のなかからライオンの声が響いてくる。
「月はどうなった?」
「食べちゃった」ハティが答える。「僕のスキルの効果。この縄張りから月を消した。試合が終わったらリフレッシュ処理で復活するはず」
「つまりこの試合中は、月がないままということか」
「そういうことになるね。食べるつもりはなかったんだけど、操り人形にされてたときに、勝手に発動したんだ。太陽はちゃんと昇るはずだよ。スコルが食べてないから」
「まったくひどかった」
スコルが憤慨していると、いくつかの林檎の果実が落っこちてきた。
「これでも食べて落ち着いて」
「いいの?」梢の音を頼りに見上げて、首をまわす。
「オオカミちゃんたち、みんな元気になって。そうしてくれたらうれしい。キリンちゃんが言ってたけれど、仲良くするのが一番だね。あたしもちょっぴり、群れ戦っていうのに疲れちゃった」
しみじみとした林檎の植物族の言葉を聞きながら、スコルとハティがみずみずしい果実にかぶりついた。ほんのりワイン風味な気がする。フェンリルも果実を口にして体力を回復させる。しかし、ニシツノメドリにやられた傷や、いまの乱闘による怪我は、果実では回復不能の状態異常として肉体に刻まれている。
「ハイイロオオカミ。食事が終わったらキリンを追ってくれ。ゴールへ」
ライオンの指示に、フェンリルは頷きを返す。
「ああ。かなり強力なスキルみたいだったが、やはりひとりではな。いま受けた恩を速攻で返してやることにするよ」
「僕らもいく。僕らの恩でもある」「かなり切れてたねあれは。心配だよ」
子狼たちがそろって言うとぺろりと口の周りを舐めた。
「林檎ちゃん果実ありがとうね」「おいしかった」
「よかった。とってもうれしい」はずんだ声。
「よし」
フェンリルが重い腰をあげると、最終決戦に向けて肉体に気合をこめる。
「いくぞっ! ついてこい!」
「うんっ!」「おうっ!」
オオカミたちが野を駆ける音が颯爽と森にとびこんでいった。
しばらく耳を澄ませていたライオンが、ちいさく息をつく。
「いったようだな」
「ああ」隣にいるらしい紀州犬が闇のなかで返す。「しかし、キリンにはびっくりさせられたな。あんな隠し玉を持っていたなんて。ライオンは知ってたのか?」
「いいや。俺様にも秘密にしていた」
「スキルを使わない主義だったってことか」
「それもあるかもしれないが、スキルがどうというよりも、効果が問題なんじゃないか」
「どういうことだ?」
「あのスキルは強すぎる。好き放題していた手品師みたいなイヌをいとも簡単に黙らせた。俺様の肉体も畏怖のようなものを抱いているようだった。獣のプレイヤーすべてに対しての支配力を持っているんだ」
「たしかに俺の肉体の操作も変になった。でも強すぎるから使わないって、一種の縛りプレイみたいなもんじゃないのか」
「そうじゃない。キリンの性格を考えてみろ。この群れ戦は対戦ゲームだ。自分がいて、相手がいる。プレイヤー同士のやり取りの場だとキリンは理解している。一方的に楽しむのはゲームじゃない。あのスキルをふりかざせば、相手に遊ばせることなく、自分だけが遊ぶことになる。それを嫌ってたのさ。おそらくだがな」
ライオンの話をじっくりと聞いていた紀州犬は長い長い息をはいて、
「……なるほど。キリンとはこっちの群れにきてからちゃんと話すようになったけど、温かくて優しいひとだって知ってる。俺やハイイロオオカミをすごく気にかけていてくれてたんだ。特にハイイロオオカミは、つらい目にあっただろうからのびのびと遊べるようにって、ことあるごとに誘ってくれたりして。はやく馴染めるようにって、いろんな仲間を紹介してくれたり。ちょっと世話焼きすぎるところはあるけど、それもいいところだ。だから、この試合で、俺もだけど、昔の仲間とハイイロオオカミが戦うことになって、心を痛めてたんじゃないかな。試合前にも気にしてるそぶりがあったし。そこにきてスパニエルのあれだろ? 嫌気がさしたっていうか、まあ、ぶち切れちゃったんだろうな。この試合に我慢ならなくなった」
「温厚なやつほど怒るとこわい」
ぽつりとライオンが言うと、紀州犬は笑って、
「そこまで温厚でもなかったと思うけどね。言うことはズバッていうよキリンは」
「……紀州犬もゴールに向かってくれ。あのまま試合を終わらせそうな勢いだったが、どうなるかは分からない」
「俺だってそうしたいけど、お前は……、いいのか?」
「ああ……」
言いさしたライオンに割って入るように、
「……あのう」
おずおずと林檎が声をかける。
「どうした? 林檎ちゃん」
真っ暗闇から投げかけられたライオンの声を梢の一枚一枚で受け止めるようにしながら、林檎はじっくりと息を呑むような間をあけて、ふいに尋ねた。
「あなた……だれなの?」