●ぽんぽこ14-54 魔法のイヌ
赤い海の岸の近くに浮かぶキャバリア・キング・キャールズ・スパニエル。虹色の毛衣はスキルを使用していることを示唆している。立てられた尻尾が沖合にいるフェンリルとオオカワウソに向けられると、風の刃が海をえぐった。疾風によってあけられた穴にワインに変じた海水が流れこみ、満ち潮のような波が岸に押し寄せる。
風による攻撃を受ける前にふたりは水中に避難。深紅のワインで満たされた海はほとんど見通しがきかない。いくら目を凝らそうと、自分の鼻先を捉えるのが精いっぱい。
フェンリルはスパニエルの言葉を思い出す。相手は自らファリニシュの名前を口にした。ファリニシュというのは魔法のイヌ。毛皮に触れた水はワインに変わるという。状況からして、そのスキルを使っているのは間違いない。
彼のイヌはダーナ神族の太陽神、長腕のルーが同じ神族のトゥリル・ビクレオの息子たちから得たとされる。長腕のルーは医療の神ディアン・ケヒトの孫、英雄クー・フーリンの父親であり、多くの優れた武具を所有していた。
必勝が約束される四秘宝のルーの槍。伝承にはないがブリューナクという俗称で呼ばれる。
呪文によって必中になるアッサルの槍。
常に水に浸けておかなければ都市を燃やすほどの熱を発する槍、アラドヴァル。
あらゆる鎧を切り裂く剣、フラガラッハ。など。
そんな強力な品々に並ぶ能力を持っているのがファリニシュ。触れた水をワインに変える他、尾を上げることで魔法の風を操る。さらには、息を吹きかけた遺体は塵芥となって跡形も残さないという。
百獣の上に君臨するという話もある。フェンリルは水中で頬をこわばらせ、王にこだわっているのはその影響かと考える。スキルを持っていない頃から、犬種にキングとあるから自分は王なのだとのたまっていた。いつ実装されたのかは分からないが、ファリニシュのスキルを得て、天啓とでも思ったのだろう。いまはイヌの王どころか獣の王を目指しているらしい。
風の刃が水中を通り抜けた。フェンリルはオオカワウソを咥えたまま潜水。ワインにまぎれる。ファリニシュはこちらを見失ったらしく、風で波をおおきくするばかり。
敵が発射する風は薄く鋭い。いわば、かまいたち。フェンリルは遭遇していないが、ホルスタインの群れとの試合で、鎌鼬のスキルをフェレットが使っていたらしい。あちらは風そのもの。こちらは風を操るもの。どちらが高位かなんてことはどうでもいいが、このゲームにおいて遠距離攻撃の優位性はすさまじい。フェレットの鎌鼬の肉体は風と同等の速さだったようだが、あくまでも自らの体でまっとうに戦っていた。
――これだから飛び道具はイヤなんだ。
フェンリルは眉間にしわを寄せる。飛び道具の存在はゲーム性を激変させる。アクションゲームがシューティングゲームへ。牽制ぐらいの威力なら許せるが、ファリニシュの魔法の風は海を切り裂けるぐらい。射程も長い。岸あたりから沖まで。連射も可能。理不尽極まりない。
海面に風を阻む障害物はない。塩水がすべてを枯らしてしまった。息継ぎに顔を出した瞬間、風の刃で狙われる。身動きがとりづらい水中で、そう何度もかわせるものでもない。
おとなしく窒息してやる気はないが、呼吸ができたところで、それはただの延命に過ぎない。敵を倒すには近づかなければ。こちらの武器は牙と爪だけ。息継ぎをしては潜り、水中から近づき、また息継ぎ、というのを繰り返すしかないが、距離が詰まるほどに風を避けるのは困難になる。位置もバレやすくなるだろうし、水中にいるあいだに風を受けることもありえる。分の悪い賭けだ。
考えているうちに息が足りなくなってきた。まずは一回目の賭けを成功させなければ、とフェンリルが鼻先を上に向けようとすると、咥えたままだったカワウソが身じろぎしている。離してくれという主張。
思わず強まっていた顎の力をゆるめる。すると、カワウソは長い尻尾でフェンリルの舌をくすぐってきた。意図をはかりかねながら咥える。カワウソは尻尾をリードにして、大狼を水底へと導く。
ワインの海の底。沈殿している澱のような泥。カワウソは前足で泥のなかを探っていたが、しばらくすると、フェンリルの鼻先をとある地点に運んだ。泥をたたいている。たたけということか、と水中で爪をふりおろす。すると、地面にあいた穴からおおきな泡がぽこりとでてきたではないか。
ワインに浮かんだ空気泡をフェンリルは大口で受け止めて呑みこむ。もう一度地面をたたくとまた泡がでてきた。どうやら話していた海底トンネルがガス管のようにこの下を通っているらしい。カワウソも同じようにして空気を補給する。
これなら海面に浮上しなくても済む。カワウソが水底を歩くようにしてフェンリルを連れていく。すこしいくとまた地面が示された。たたくと泡。呼吸とは違う空気の食事。
カワウソに聞いた話だと、海底トンネルは岸まで続いているはず。それをたどればファリニシュを素通りしてワインの海からでることができるかもしれない。岸にあがることができれば森がある。ぎっしりと密集する樹々。わざわざ海まで出張ってきたのは、魔法の風に樹木を刈るほどの威力はないからだと予想する。森は風を通さない。森に逃げこまれたくないのだ。
浮かんでこないフェンリルたちにファリニシュは相当困っているらしく、むやみやたらと赤い海に風の刃を差しこんでいる。いずれも当たることはない。風で荒れる深紅の海。毛衣にたっぷりワインを吸わせたフェンリルとカワウソは、いまや同じ深紅に染まっている。夜の闇も加わって、容易に見つけることはできないはず。
海底を踏む力を強める。ここ掘れワンワンとばかりに案内するカワウソの指示通りに泡を掘りだす。
しかし、すこしずつ空気の出が悪くなってきた。これまでいくつも穴をあけているので、トンネルは浸水してしまっているはず。空気は足りるだろうか、と心配が湧きあがったとき、風の刃のひとふりがついにフェンリルの鼻先をかすめた。首をひっこめる。風に混ぜられた海がうねって激しい水流が発生。体がわずかに浮きあがる。同じ場所に再び風の刃。位置が分かっているのか。フェンリルは真っ赤な水中を見上げる。もしかしたら敵は、水面にこぼれた泡を目印にして、こちらの動きを察知したのかもしれない。
風が執拗にワインをかき混ぜる。フェンリルは地球人がどういった交流をするのか調べたことがある。そのときにワインのことを知った。会食につきものの酒。この海はフルボディの赤ワイン。ワインを飲む際には、くるくるとグラスをまわすスワリングということをするらしい。空気を含ませることでよりおいしく飲める。だが、これでは混ぜすぎだ。香りがとんでしまうだろう。王にこだわっているくせに無作法なやつだ、とファリニシュに対して妙な感想を抱いていると、ふと、気がついた。
オオカワウソがいない。水流に流されて、はぐれてしまったようだ。濃霧よりも見通しが悪い赤。水中では鼻も耳も役に立たない。前足を伸ばして探すが、手の届く場所にはいない。そうしている間にもあたりに風が飛んでくる。移動しないと危険。四方から波が流れこんでくる。息も厳しくなってきた。カワウソがいなければ海底トンネルの位置も分からない。
あわただしく仲間を求める肉球が、硬いものを踏んづけた。
――石?
にしてはつるつるしている。そして丸い。目を寄せると、赤いワインに溶けこむような、赤い果実が海底に落っこちていた。
林檎の果実。ここはもうすこしで岸という位置。林檎がいるはずの浮島からは、だいぶ遠ざかっているし、紀州犬が犬神のスキルで頭を飛ばせる範囲外。しかし、ファリニシュが風でやたらと波を起こすので、水流に乗って運ばれてきたようだ。
食べてせめて回復をしよう、と口を開けた途端、果実が地面に沈みこんだ。掘り返そうと爪を伸ばしかけて、はたと手を止める。
じっと待つ。限界状態の息を意識しながらも待ち続ける。
地面から林檎の木の芽が顔をだした。ぐんぐんと背を高くしていく。幹になり、枝を伸ばし、海を押しのけて葉を茂らせる。フェンリルは急速に成長する林檎と共に海面を目指す。
ここは海であって、海ではなくなった。満たしているのは塩水ではなくワイン。植物にとって、アルコールはよほど強すぎない限りは毒ではない。植物族が育つことも可能。
「ぷはあっ!」
フェンリルが息を吸いこむ。口に入ったワインを吐きだす。酔ってしまってはたまらない。風の刃が飛んできたが、林檎の幹が受け止めた。フェンリルが予想していた通り、魔法の風は樹木の太く硬い幹を切断することはできない。樹皮に引っかき傷のようなものが残っただけだ。
高体力と高防御力こそが樹木系植物族の本領。こうやって仲間を守るタンク役をするのが本来の役割。バフ、デバフ、回復などはおまけの要素。
「ありがとう。林檎ちゃん」
幹の盾に守られながら荒い息を整える。ワインが滴る梢を見上げる。
「どういたしまして」緊張を感じさせる林檎の声。「前に進むよ。あたしはマングローブじゃないんだから、長くはもたないかもしれないからね」
枝から離れた果実がワインの海に没する。海底に到着すると、ファリニシュに一歩近づいた位置に新たな肉体を生やす。
海に侵食されていた大地に、再びあらわれた植物。優雅に犬かきをしていたファリニシュは目を細め、ワインよりも赤い果実を眺めると、思案げに鼻を鳴らした。