●ぽんぽこ5-14 鯨飲
大河に乗ってサバンナを突き進んでいたイリエワニだったが、そろそろ敵本拠地近くかという地点で足を止めざるを得なかった。褐色の絶壁。渓谷にでも迷い込んでしまったかのような風景。壁は右を見ても、左を見ても、延々と広がっている。
イリエワニの足元からは、水神金毘羅の神聖スキルによって、無限に水が生み出されている。それがうずたかい防波堤の如き壁にせき止められ、大きな生け簀が形成されようとしていた。跳ね返った流れが大波となって飛沫を上げ、イリエワニの巨体を何度も濡らす。
左右を見渡す。どちらかに回り道するしかないか。だが、そんなことをしていれば、時間的にかなりのロスになってしまう。もう陽は傾いているし、じりじりと群れ戦終了時刻が近づいている。それにしても妙だ、とイリエワニは太い首を捻る。こんなところに壁があるなんて聞いていない。サバンナは起伏に乏しい土地のはずだが、ここはまるで崖の下。見上げれば崖上には緑も生い茂っている。いや、なんだか変な生え方だ。壁から直接、枝葉が伸びているような。
「副長」と共に進攻している黄色いスイセンがイリエワニに語り掛ける。「メニューを見て。能力が下がってる。それに気配もする。植物族の」
すぐに確認してみると、確かに言われた通り能力値が減少していた。イリエワニは鈍感な性質なので植物族がいる時に皆が感じるという、背筋がぞわぞわするような気配というのが分からなかったが、スイセンが言うのなら間違いないだろうと思った。
「これは……」重たい頭を限界まで持ち上げて、改めて壁の正体を見極める。「バオバブだ!」
サバンナ最大の樹木。キリン六頭分ほどにもなる樹高。キリンよりも大きな体長のイリエワニと比べても五倍ほどはある高さ。幹の直径だけでもイリエワニの体より大きい。その果てしなく巨大な植物は、ピュシスには存在しない海に生息するという動物界最大の体の持ち主であるシロナガスクジラと同等、もしくはそれすらも超える程の大きさ。そんな巨木が木肌同士をくっつけるように密着させて並木となり、崖の如き巨壁を作り上げていた。
敵対者を無言で見下ろすバオバブを、イリエワニは「おい!」と鼻先で小突いて「邪魔だっ! どけっ!」と言ってみた。けれど立ちはだかる圧力が増したように感じただけで、葉の一枚すら微動だにしない。
びっしりと隣合っているバオバブの並木の、幹と幹の継ぎ目を見つけて、そこに鼻先を差し込んでみようとしたが、とてもイリエワニの巨体が通れそうにはなかった。
こうなれば実力行使だと、太い幹に齧りつく。動物界最強の咬合力で幹を砕き、そのまま捻じってワニの必殺技、肉を食い千切るデスロールを決めようとしたが、いかんせん相手が大きすぎてうまくいかない。それにピュシスのゲームシステムでは肉食動物は植物族に対して相性不利。頑張りに見合うだけのダメージは与えられなかった。
仲間の植物族のせっかくのバフも、敵の植物族のデバフで打ち消されてしまっている。イリエワニは、あぐ、あぐ、あぐ、と喉から空気を漏らしながら何度も噛んで、バオバブの体力を削ぎ取ろうとしたが、倒すまでにどれだけ時間がかかるとも分からなかった。それにバオバブの一本を打ち倒したところで、植物族は増殖が可能。通り抜けるまでに空いた穴を埋められてしまうと、どうにもならない。
植物族には視覚がないので、見た相手を魅了するスイセンの神聖スキルも効果はない。イリエワニの神聖スキルも今は同様に役に立たない。動物相手なら身動きを取りづらくする水の枷も、相手が逃げも隠れも身動きもしない植物族であれば関係なくなってしまう。それに水の力でイリエワニが多少素早く動けても、この相手には何の意味もないのだ。
もうひとりの副長で作戦参謀のマレーバクが、イリエワニに対して敵本拠地のゴールを踏むようにと命じていた。あなたがエースです、得点してください、と言うマレーバクの言葉をイリエワニは愚直に呑み込んで、サバンナの拠点を巡り、敵本拠地に向かって、短い四肢使って巨大な体をただ前へ前へと進ませ続けていた。群れ戦に勝利するには、ここを突破しなければならない。どうやったら目的を遂げられるか、正面突破以外が苦手なイリエワニは頭を悩ませる。
「副長!」
ひゅー、と空から飛んできたものがあった。小さな影。ふわふわとしたハンカチのようなそれはバオバブの壁を乗り越えて、するりと舞い降りてきた。そして尖った岩山を思わせるイリエワニの鱗の隙間に着地する。
「ムササビ! どこ行ってたんだ」
「ごめーん。ちょっと遊んでたら遅くなっちゃった」
「あまり心配させるなよ。お前がいないと拠点が分からなくて、ちょっと迷子になりかけてたんだぞ」
「ごめん、って。許して?」
「いいよ」とイリエワニはあっさりと許して「それより、バオバブをどうにかできないか?」と巨木を見上げる。
ムササビはバオバブの根本から樹上までを何度も見比べると、ロケットの発射台のように傾いているイリエワニの鼻先まで走って跳躍し、飛膜を広げて滑空した。一瞬でバオバブの幹に取りつくと、大きくうねったその表面を駆け上がり、腰掛けるのにちょうどいい出っ張りに落ち着く。そうして、牙を剥いてバオバブに噛みついた。さく、さく、さく、と牙が木肌に小さな傷をつけるが、いくら植物族と相性有利な草食動物のムササビであっても、いかんともしがたい対格差の前では、敵の体力を削り切るのに膨大な時間を要するということが分かっただけだった。
「だめみたーい」
ムササビが甘えた声を出す。
「俺でも無理なら、流石にお前でも無理だろうなあ」
イリエワニが途方もなく巨大な壁を見渡して嘆息する。やはり回り道するしかないかと、その左右に視線をやった時、自身の足元から水が引いていることに気がついた。よほど水はけがいい土なのだろうかと、地面を踏み締めて確かめてみる。硬い粘土質。とてもそんな風には思えない。むしろ水が溜まりやすい土壌。
湧き出る端から水が地面に呑み込まれていく。ごく、ごく、と大地の喉音すら聞こえてきそうな飲みっぷり。水がなければイリエワニの動作は緩慢になってしまい、遠回りする選択肢も失われてしまう。
こうなればヤケクソだ、とイリエワニは思考放棄して、力任せにバオバブに噛みついた。渾身の力を込める。すると、盛り上がった幹の一部が噛み千切られて、穴が空き、そこから水が、ぴゅう、と吹き出した。
「なんだこりゃあ!」
イリエワニが目を瞬かせる。
「水、ですね」
スイセンが植物族の特殊な感覚でその水の気配を感じながら、
「バオバブは一本の樹が、ゾウ一頭分以上の重さの水を貯えるそうです」
「ゾウ一頭の重さって……俺の十倍!?」
驚愕したイリエワニの口がカパッと開き、スピーカーが鳴動する。
「だいたいそれぐらいになりますね」
冷静に受け応えるスイセンも、イリエワニが作り出してくれた水分が奪われていくことで、自身の力が弱まるのを感じていた。サバンナの厳しい気候に直に晒されて、美しく咲き誇っていた何輪もの己の分身が枯れはじめている。
「弱っちまったな」
「そうですね」
「そうだねー」
ムササビも戻って来て、三人組が呆然とバオバブを見上げる。自然の驚異を体現するかのようなその姿。
「しかし、やるだけやってみるかあ」
のっそりとイリエワニがバオバブに立ち向かっていく。もしもピュシスに海があり、もしもクジラなんていう化け物がいたとしたら、そいつと戦う時にはきっとこんな絶望的な気分になるのだろうな、とイリエワニは思った。
「副長! がんばってっ!」
「副長。あなたならできますよ」
能力の足しにはならない仲間の応援を背中の鱗に浴びて、ちょっとだけバフを受けている気分になりながら、イリエワニは採掘でもするように、ばり、ばり、ばり、とバオバブの分厚い幹を、少しずつ、少しずつ、地道に噛み千切ることにした。