●ぽんぽこ14-36 狂戦士
ハイイロオオカミより体格も能力も大幅に強化されたフェンリルの肉体。その全力の猛突進を正面から受け止めたヒグマにフェンリルは驚愕する。熊手の突きで勢いを殺されて、牙は身をよじって避けられた。そのまま素早く腹の下へもぐりこまれると、頭と背中をてこのように使ってはねのけられる。
ヒグマの背後からキリンとダチョウが襲いかかる。瞬時に身をひるがえして蹄と鉤爪を紙一重で避けたヒグマは、俊敏な動作でダチョウの脚に食いついた。そのままひっぱって、ひき倒す。脚を咥えたままヒグマは走りだした。ひきずられたダチョウの羽衣はざらついた地面にすりおろされて、人の手の平ほどもある黒と白の羽根がまき散らされる。
すぐにフェンリルが助けに入るが、力強くふりまわされたダチョウの体に阻まれてしまう。乱暴に扱われたダチョウの脚は完全に折れて、体力が尽きた死体が藪の上へと投げ捨てられた。蹴りつけようと近づいたキリンは、同じように脚に食いつかれそうになって、踏みこみきれないでいる。
牙が届くギリギリの距離でフェンリルが威嚇。ヒグマも牙を剥きだして、激しい唸り声を発する。ヒグマの動きは鋭く、まったく淀みがない。
攻め入る隙がない。フェンリルとキリンが後退すると、獰猛に追いかけてくる。一切の迷いがない暴れっぷり。薙ぎ払うように土をまき散らし、ぶつかった樹々をへし折り、岩をも砕く勢い。こぼれる声は獣の言葉。
フェンリルはどうやってヒグマを倒すか走りながら考える。しかし、目に焼きついた敵の猛攻に対する打開策が見つからない。いまのヒグマは、ただ単純に強かった。クマ科のなかではホッキョクグマに並んで最大級の肉体。そもそも高水準である能力を存分に発揮する動き。強い肉体で強い動きをしているというそれだけで、ダチョウを倒し、フェンリルとキリンのふたりを圧倒している。
このままではさらに犠牲が増える。おそろしいまでのヒグマの戦いぶりに、フェンリルのなかで悪い予感がふくらんでいく。
と、風にまぎれて首の後ろの毛に、なにかが噛みついてきた。疾走するフェンリルの体に口でしがみついている。
「ベルセルクだ」
紀州犬の声。頭だけを飛ばして、話しかけてきている。
「神オーディンの力を受けた狂戦士。クマに憑りつかれた戦士」
「憑りつかれた? あいつはそもそもクマだろ」と、フェンリル。
「肉体はね。ヒグマの体を人間が動かしてた。けど、ヒグマの体をヒグマが動かしたらどうなると思う」
「……それが、あれか」
執拗な追跡が迫っているのを尻尾の毛の先で感じる。
「おそらくは、そういうスキルなんだと思う。本物を再現させるみたいな。ようするに超優秀なAIの自動操縦」
使い手の違いでこうも強さに差がでるものかとフェンリルは舌を巻く。効果は自動操縦だけだろうか。肉体の見た目に変化はない。多少は能力も強化されていそうだ。だが、それにしたって強すぎる。
突然、自分の肉体操作がもどかしく感じる。もっと、もっと動かせるのではないか。あんなふうに。剥き出しの動物として。あれに比べたら自分はごっこ遊びだ。
全身をなめらかに使い、心と体、一糸乱れぬ動きでヒグマがくる。四肢で地を駆け、躍動する肉体。キリンの後ろ蹴りにもまったくひるむ様子はなく、とびついて尻に噛みつこうとしている。
ヒグマと同じような獣の形相になりかけて、
「張り合うなよ」
紀州犬の言葉にハッと息を呑む。仲間の重みを背中で感じる。飛んでいってしまいそうに軽い。犬神のスキルで切り離された紀州犬の生首。
「俺じゃなくって、ライオンがそう言ってた」
「あいつ無事だったのか」
森を駆け巡りながら、フェンリルが背中に向かって尋ねる。助力を期待してもいいのだろうか、という思考を先回りしたように、
「林檎の果実で回復して、多少はマシになったけど、戦うのは無理だ。でももうすこし時間さえ稼いでくれればなんとかするってさ」
「どういうことだ?」
「勝てるってこと」
言うだけ言って生首は咥えていた毛を離すと、梢のなかに消えていった。
ライオンの姿は木立の向こうに隠れている。信じるしかない。フェンリルは腹をくくって、無策のまま狂戦士と化しているヒグマに立ち向かうことにする。
キリンとふたりで前後を挟む位置取り。背中からすら伝わってくる威圧感。こちらの動きに敏感に反応する並外れた反射神経。普通に肉体を操作していれば様々な要因でラグが発生するはずだが、それがヒグマにはない。
牽制しながら捕まらないように走りまわる。絶対に距離を見誤らないように極限まで集中する。これ以上、草食動物がやられるわけにはいかない。キリンをさがり気味に配置して、フェンリルがその分の負担を請け負う。
牙や爪が毛衣を、皮膚をかすめていく。傷がいくつも刻まれる。
一瞬たりとも気を抜くことができない、息が詰まる戦いだった。
命のやり取りをしている実感。
生身の野生を相手している。
月が天頂に近づいている。
風がやけに静かだった。
キリンがうめいた。
獣の息づかい。
「ヒグマ」
呼ぶ声。
森の向こうから。けれど、ヒグマが声に応えることはない。相対しているフェンリルとキリンの命を奪うことに夢中になっている。
「おいヒグマ」
ライオンの声。フェンリルはヒグマの対応に追われながら、キリンが広げた空間の向こうにゆれるたてがみを捉えた。
相変わらずヒグマの耳には届いていない。すると、ライオンはおおきくたてがみを膨れあがらせ、嵐のような咆哮を森に響き渡らせた。獣としての王の呼びかけにヒグマがやっと反応する。地鳴りのような低い唸り声。
いま、ヒグマのプレイヤーの精神状態はどうなっているのだろうかとフェンリルは考える。自動的に動く肉体をモニターしている感じだろうか。それとも操作不能に陥っている肉体に同調して、心まで獣に呑みこまれているのだろうか。
獣らしい警戒を滲ませながらも、好敵手の出現に闘争心を滾らせている。そんな態度の端々からは、プレイヤーの意思のかすかな介在を感じ取れなくもない。
手負いのライオンが、再び夜空に咆哮を放った。それを合図にヒグマが駆ける。星明かりを受けたライオンのたてがみが、誘うようにきらめいている。
森の野原が踏み荒らされる。草花などは眼中になく、蹴散らし、つぶし、ヒグマは加速する。
ライオンは動かずに、待ち構えている。
見守るフェンリルの耳元に、また紀州犬の生首が飛んできた。
「追いかけるんだ」
「ヒグマをか? それでどうする」
体を動かしながら問いかける。
「隙ができるはずだから、見逃さずに仕留めてくれ。キリンにも伝えてある」
すでにキリンは走りだしている。フェンリルもヒグマの背中を目指す。ヒグマは追われているのに気づいたらしく、耳をわずかに傾けたが、ライオンに向かう足を止めようとはしなかった。
暴力的なヒグマの足跡が森閑とした野に刻まれる。どすん、どすん、と豪快な響き。
あっという間にライオンとの距離を詰めて、涎を垂らしながら顎を開く。
だが、でこぼことした木陰を通り抜けようとしたそのときであった。ヒグマが突如、体勢を崩した。
黒い背が急に縮んだかのような変化。夜行性のオオカミは、ヒグマの足元の異変に気がついた。ベルセルクのスキルによって暴走していなかったとしても、昼行性のクマには判別が難しかっただろう。
原始的な罠。落とし穴。それほどおおきなものではない。ヒグマの片足がすっぽりとはまるぐらいの幅。けれども、動きを封じるには十分。野生を狩るにはちょっとした人の知恵さえあればいい
足を引き抜こうともがくヒグマの腕を、追いついたキリンが踏みつける。そうして、フェンリルが仕上げの大口でもって、ヒグマの頭にかぶりついた。