●ぽんぽこ14-26 死人
ジェヴォーダンの獣に幹を折られたハンノキのプレイヤーが別のハンノキの肉体に操作を移すと、すぐに闇色の獣が追って、森の暗がりを駆け抜けた。足を負傷していることを感じさせない走りっぷり。幹にかぶりついて、牙を突き刺す。ハンノキはアールキングのスキルを発動させているが、やはり相手は微塵も恐怖を感じていない。恐怖させることができなければ、効果ダメージが発生しない。無力なハンノキは一方的にやられるのみ。
打って響かない様子はまるで機械のようだ、とハンノキは感じる。破壊という目的を遂行するためだけの、愚直とも生真面目ともいえる動作。
もしかして、幻覚が作用していないのかもしれない。ゲームの不具合だとか、はたまた、なにか知らないスキルによって妨害されているのかも。そんな疑いが頭をよぎる。
治療は、とシマウマに意識を向けると、そちらは既に息絶えていた。ユニコーンのスキルによって幻覚の状態異常を回復していたようだったが、いまそちらの可能性はない。
どうしてこの相手はアールキングのスキルの影響下で恐怖せずにいられるのか。
混乱するハンノキの幹がまたひとつへし折られた。
ジェヴォーダンの獣に姿を変えているブチハイエナの五感には、幻覚がしっかりと働きかけていた。
周囲に散らばるおびただしい数の死体の幻覚。森には死臭が充満し、生暖かい風が吹くたびに、腐肉がかき混ぜられる音がする。
死体はいずれも見知った者たち。
ライオンを筆頭に、リカオン、タヌキ、キツネ、キリンやハイイロオオカミ、他にもたくさん。群れの仲間以外にも、関わりがあったプレイヤーたちの死体。コモドオオトカゲ、ムカシトカゲ、センザンコウにオオアリクイ、ヤブノウサギ、ワタリガラス、カンガルー、カピバラ、アフリカゾウ、ドードー、オーロックス、ベンガルトラ、それからマレーバク。
死屍累々の地獄絵図。だれもかれもが死んでいる。己の姿すら、幻覚によって腐り落ちた死体と化してしまっている。踏みだすたびに肉がちぎれ、血しぶきが赤く葉を染めた。あまりにも濃く漂ってくる死の気配。
死とは恐怖の頂点。だれもが死をおそれている。生きている限り、避けられない宿命。死への恐怖を失った者は、死んでいるのと変わらない。
まさしく、ブチハイエナは死んでいた。
だから恐怖しなかった。
かつて、生きていた頃であればおおいに恐怖しただろう、とブチハイエナは、ソニナは思う。それこそ泣き叫ぶほどに、死ぬのがこわかった。自分が死ぬのも、他のだれかが死ぬのも。
死に敏感な人間だった。
短命な家系だったことが影響していたのかもしれない。幼い頃から親類や大事な人を亡くすことが多かった。常に頭のなかには、いつか自分も、という考えがあった。
多くの死に遭遇したが、生が死に塗り替えられる瞬間を目撃したのはたったの一度。あの人が死んだときだけ。
生者が死者に変わるのは一瞬だった。子供をかばって撃たれたあの人を、茫然と見ていた。あの出来事のあと、ますます死にとりつかれたようになった。
生に背を向け、死を目指すあまり、自暴自棄にもなっていた。そんな状態を見かねた夫が、死を乗り越える方法を見つけてくれた。
オートマタの電子頭脳に、人間の人格を移植する。そのための体も、仕組みも、すべて準備してくれた。
肉体から人格が切り離されると、すぐに死への恐怖はなくなった。恐怖だけではない、肉体に由来するあらゆる感情がそぎ落とされ、純化された。
不要になった肉の体を消去することに躊躇はなかった。肉はこわがっていたけれど、心はもう平気だった。重要なのは人格データであり、精神、心。体は本質的な心のありかではない。バックアップによって永遠にあり続ける心。そんな心にとっては、肉の体より、壊れても交換可能な機械の体こそがふさわしい。
肉の束縛を捨てると、器の重要さを思い知った。ある意味ではピュシスに通じるところでもある。どんなアバターが与えられたかが、心に対しておおきな影響力を持つ。肉体なき愛を知ると、真に我が子を愛することができるようになった。肉体とは無為な欲求の宝庫。いまとなってはおぞましい監獄にすぎない。
――皆が知らなければならない。
幻覚が強まってきた。けれども、闇色の獣の鋭い眼光は、森に潜むハンノキの位置を正確に捉えている。死体の山の幻覚は、人間だった頃のパーソナルデータを元にして設定したに違いないが、いまや死などに、特にデータのなかでの死などに、感情がゆらぐことはなかった。
森を巡る。煌々とした太陽の光に梢を焦がされ、暗い影に吞みこまれた森。影に溶けこむ闇色の獣が牙や爪の凶刃をふるい、無意味に等しいスキルを使い続けているハンノキの肉体を粉砕していく。持ち前の高攻撃力を存分に発揮すれば、相性不利を乗り越えて、無防備に立ちすくむ植物族をすべて齧り尽くすことも、それほど難しくはなかった。
幻覚がかき消えた。ハンノキの枝に遮られていた朗らかな午後の陽光が射しこんでくると、うたかたの夢に囚われていた森がぱっちりと目を覚ました。