●ぽんぽこ14-23 恐怖の森
「なにを言ってるんだ?」
すっかり足を止めたシロサイが、バロメッツのヒツジたちが追ってきていないのをたしかめながら、背中に乗っているリカオンに怪訝な声を投げかけた。
敵性NPC、とリカオンは言った。荒い鼻息のゆく先に耳を向ける。が、針のような木漏れ日が落ちる暗い森のどこからも、銀色の肉体が発する機械の駆動音や金属のにおいは感じない。
「シロサイいけるか」
「なにがだ」
「一体だけみたいだ。協力して敵性NPCを倒して、とりあえず川までいこう」
シロサイは隣のシマウマと顔を見合わせるが、同じく困惑した表情。縞模様の頭がぐるりとあたりをたしかめて、灰色の背をぐっと見上げた。
「リカオン。どこに敵性NPCがいるって?」
「目の前にいるやつのことだ」
ふたり同時に正面を見る。しかし、銀色の欠片ひとつありはしない。
「いないよ」
「いない?」今度はリカオンが困惑顔。「そこにいるのが見えないのか? おい。きたぞ! あぶないっ!」
言うやいなやとびだして、見えないなにかに攻撃をしかける。草の上でもんどりうって、転がりながら起きあがった。そうして、じりじりとなにかと距離をとろうとしている。自分の尻尾を追いかける子犬のように不可解なリカオンの行動に、シロサイとシマウマは曖昧に移動しながら、本当に敵がいるのかどうか、角や蹄で探ってみる。けれど、やっぱり存在しない。
シマウマはユニコーンのスキルを使って角でリカオンに触れてみる。状態異常ならこれで治癒できるはず。すると、ひとりで興奮していたリカオンは突然目が覚めたように、
「逃げたか? どこにいった?」
「だから最初からいないんだってば。いったいどうしたんだ。おかしいよ」
「おかしい? 俺がおかしいのか?」リカオンは眉間にしわを寄せて「幻覚の状態異常……。ふうん、……体力が削れてるな。と、いうことは……」
「たぶんハンノキだな」
シロサイが結論を継いで周囲を見渡す。無数の植物が入り混じる濃厚な自然。標的を絞って探してみると、かさぶたのような灰褐色の樹皮の幹、まつぼっくりをぶらさげた枝を発見。ハンノキの植物族。アールキングの神聖スキルを持っているというプレイヤー。
作戦会議で聞いてはいたが、このスキルの効果だけはいまひとつ理解できていなかった。怖がる相手にダメージを与える。そして、相手に幻覚を見せて怖がらせてくる。言葉で聞いてもなんだか漠然としている。けれど、実際に体感したリカオンは、それが生半可なものではないということがよく分かった。
本当にそこにオートマタがいるようだった。硬い金属の表面に爪や牙を突き立てた感触もあった。音やにおいも本物然としていたし、オートマタがいないという仲間たちのほうがおかしなことを言っていると思った。
「これは、想像してたものより、ずっときついぞ」
リカオンは耳を垂らして弱音めいた言葉をこぼす。
あたらめて、しかも強制的に自分の心と向き合わされる苦痛。冠を通して感情の変化を読み取っているらしいが、それ以外にも保存されているパーソナルデータを勝手に参照して、幻覚を構築しているとしか考えられない。
―‐俺はオートマタが怖いのか?
知らなかった。ピュシスのシステムはそう判断したらしい。
ゲーム内の敵性NPCはプレイヤーたちの恐怖の対象。敵性NPCの攻撃は体力だけでなく命力まで貫通して削ってくる。命力が尽きたらゲーム内の命は完全になくなり、アカウントが消滅。取り返しのつかないことになる。いまは敵性NPCの大量発生という事件も起きており、脅威はより大きなものになっている。
だが、オートマタに対する自分の感情の源は、たぶんゲーム内のことではない。心当たりがある。現実であった事件。昔、同じ警備会社に勤める同僚が、オートマタに殺されたことがある。まだ新人で、仕事を覚えている最中だった。近頃は滅多に思い出すことがなかったのに、鮮明に記憶が蘇ってきた。
やったのは警備用オートマタ。警備員の仕事は自分で警備をすることではなく、警備用オートマタの調整や順路の設定が主。あとはこまごました映像などの確認。不審者を探す目的ではなく、オートマタが正常に動作しているかのチェック。
その新人が扱っていたオートマタのプログラムには不具合があった。結果、同じく働いている警備員を侵入者と誤認。抵抗したが、人間の力でオートマタにかなうわけがない。下手に抵抗してしまったことでオートマタの警戒段階が上昇し、もみあいの末に高台から足を踏み外し、命を落とした。
それからというもの、所詮は仕事道具としか思っていなかったオートマタに、もやもやとした感情を抱えている自覚はある。これが恐怖だと考えたことはなかったのだが、体力は減らされている。アールキングのスキルは、恐怖の感情を冠を通して読み取って、度合いに応じてダメージを与えてくるらしい。すくなくとも、冠に読み取れる範囲では自分は恐怖している。
事実は事実として認めよう。けれど、幻覚の内容がオートマタというのは大変よろしくない。大量発生が問題視されているいま、目の前にオートマタが出現した場合、幻覚の可能性が高かったとしても対応せざるをえなくなってしまう。
幻覚を警戒して尻込みしているリカオンをよそに、シロサイが走りだした。
ハンノキの植物族に角を向けて、巨体で緑を押しのける。どんなスキルを使ってくるにせよ、倒してしまえば関係ない。そして、シロサイの全力の突進であれば、一撃の元にそれができる。
相手のスキルの効果範囲が明確でないのに逃げるのは悪手。見つけた敵をとにかく倒す。それが最善であり、楽でもある。
走る。走る。どっ、どっ、と重厚なシロサイの足音。それが、不意に軽くなりはじめた。
おや、と思った次の瞬間、背筋が凍る。こそばゆいような、かゆいような感覚。
視界の端に動くものがあった。視力の悪いサイに見えるのだから、相当近くにそれはある。顔にくっついているなにか。灰色の分厚い布のようなもの。足を踏みだすたびに、ひらひらとゆれて、たなびいている。顔を左右にふってみるが全然取れない。
肌がつっぱっている。それが、なにか分かった。本当はもうすこし早く分かっていたのだが、理解が追いついていなかった。認めるのを無意識に拒絶していた。
皮膚が、自分の皮膚が、剝がれているのだ。仮想世界に痛みはないが、大怪我をして麻酔を打たれたときのような違和感がつきまとっている。そして、その違和感は顔だけではない、全身にまで広がっている。鏡でもなければ確認できないが、いまの自分の肉体がどうなっているのか想像したくもなかった。まるい葉菜が剥かれるように、皮膚がなくなっていく。
鼻先にあるシロサイの象徴、二本の角さえやせて見える。太い杭のようだったのが、いまは手槍か、はたまた釘程度。
寒い。人間の皮膚の二十五倍の厚みがあるというサイの皮膚。それを脱ぎ去ったとき、自分はどれだけやせ細り、みすぼらしくなってしまうんだろうか。肌が過敏だ。触れる風すらうっとうしい。
――幻覚だ。
自分に言い聞かせる。こんなことがおきるはずがない。ハンノキが持つアールキングのスキルについては知っている。幻覚によって恐怖を与え、相手が恐怖するほどに体力を削る。これは幻覚。すべては仮想の感覚なのだ。仮想のなかのさらなる仮想。
おそれるな。止まるな。肉体を前に動かせ。ハンノキを破壊しろ。そうすれば、幻覚はなくなるはず。
目をつぶる。耳をそらす。鼻をたよりに、ハンノキを目指す。
どれぐらいの速度で走っているのかも分からなくなる。混沌とした植物の香りが鼻を惑わせる。うねった地形や、樹木の根っこや、岩に足を取られそうになりながらも、なんとか平衡を保つ。
まだか、まだか、と問いかける。
角が、樹皮に触れた。めりこみ、貫く。
大木が軋み、倒れたと同時に幻覚は消えた。
いつもどおりの重たく、頑丈な体が戻ってくる。やせたところはどこにもない。ずっしりとして力強いサイの肉体。角も立派にそびえている。
心のなかで滝のような冷や汗をかいていたが、やっとひと心地ついた気分。
深呼吸をしてふり返ると、
「リカオン? シマウマ? どこにいった?」
姿が見えない。はぐれたらしい。無我夢中の突進だったので、仲間のことを気にかけている余裕がなかった。
また、背筋が寒くなってきた。
体が軽く感じる。
幻覚だ。
「くそっ」
植物族はしぶとい。ハンノキは一本ではない。大量の残機が森のなかには生い茂っている。
嫌な感覚が蘇る。がむしゃらに肉体をゆらして、空元気をふりしぼる。ハンノキを探す。体力が尽きる前にこの恐怖の森を刈りつくさなければ、自分も、仲間も、樹々の肥やしにされてしまう。