●ぽんぽこ5-10 裏切者
本拠地からかなり離れると、サバンナではない気候が現れる。本拠地から向かって西南西の方角。南西と西を結ぶ地帯。ピュシスに自生するコナラの樹が生い茂る森。柔らかな落ち葉が大地を掛け布団のように覆い、たくさんのコナラの実、ドングリが転がっている。葉を紅葉させ、半分ほどを散らせた樹々は、陽の光を薄めて、子供に優しく微笑みかけるような調子で、梢の影をドングリたちの上に落としていた。吹き抜ける風は爽やかで、舞い上がった葉がチリチリと小気味良い音を立て、清浄な森の香りを空一杯に運んでいる。
そんなコナラの森の奥、草むらに身を隠し、オジロヌーとその背に乗るオポッサムは、じっと息を潜めていた。遠くで落ち葉がカサコソとかき分けられ、ドングリがパキリと割れた。耳と目をそちらへ向け、嗅覚を働かせる。草食動物の匂い。二頭。見えたのは黒い毛衣と、それより一回り小さい明褐色の毛衣。捻じれながら直線に伸びる角と、湾曲した角。ブラックバックと、トムソンガゼル。
立ち並ぶ樹々の間を縫って、ブラックバックが追われ、トムソンガゼルが追っている。ブラックバックが暗い木陰のなかに溶け込むようにその黒い体を滑り込ませると、立ち止まって振り返った。落ち葉で照り返った陽の光を浴びるトムソンガゼルも足を止める。
二頭は睨み合い、ぶつかるかに思えた。ぶつかる寸前、角と角が触れ合うほどの距離にまで近づいたが、そのまま動かない。
詳しい状況を観察しようと、草むらからオジロヌーが身を乗り出した。ヌーの首から背にかけて生える魚の背ビレのようなたてがみが持ち上がり、横に張り出してブーメランのように上部へと曲がる一対の角が、鋭い切っ先を陽の光に輝かせる。ウシカモシカの別名が示すように、ウシのようながっしりした胴体とカモシカのようなしなやかな足。そしてオジロという名の通り、尾が白い。
不意に強い風が吹いた。ドングリたちが木の葉の船に乗って空を飛ぶ。その一艘がヌーの角に当たって硬い音を立てた。瞬時、ブラックバックはヌーたちのいる草むらへと視線を向けて、その存在を確認すると、恐るべき早業で頭を低く構えて前に踏み出し、二本の角の間にトムソンガゼルの首を挟み込んだ。
「おっと。動くなよ。仲間の命が惜しいだろ?」
ブラックバックが顎を引いた体勢から、ヌーを斜めにねめつける。首を捻じり上げられているトムソンガゼルは苦しそうな息を口の端からこぼした。
「やれるものならやってみるがいいさ」
ヌーがはね除けるように言うと、ブラックバックの瞳がまん丸く見開かれた。
「何言ってんだ? いいのか?」ブラックバックの脅しにも、ヌーはまるで動じない。「……ふーん。本気らしいや。可哀そうになあトムソンガゼル。ああ可哀そう。見捨てられちまったんだねえ。ぽっかぽかの仲良しごっこのライオンの群れって言っても所詮はこんなもんかあ。仲間の命をなんとも思ってないんだもんなあ。ひどいもんだよなあ。こんな氷より冷たい心のヌーが所属してるって噂になったら、ライオンの群れは上っ面だけだって、みんながみんな思うに違いねえ。うん。そうに違いねえよ」
まくしたてるように言いながら、ブラックバックが後退しようという気配を見せると、ヌーは威圧的に距離を詰める。ブラックバックは角でトムソンガゼルを捕まえているものの、人質が仇となって自分の行動も制限されてしまっていた。ヌーが、自身の角でブラックバックを仕留められる距離まで近づいていく。ヌーは大柄な体ながら走力に優れる。角は非常に攻撃的で、ブラックバックの体を貫くことは容易かった。
背に乗っていたオポッサムがヌーの頭の上まで進み出ると、トムソンガゼルに呼びかける。
「トムソンガゼル!」
強硬姿勢を見せるヌーを不安そうに眺めて、尻尾の先まで張り詰めていたトムソンガゼルは、オポッサムの姿を見ると、ほっと一安心して耳の力を抜いた。
「オポッサムくん。心配かけてすまない。僕は無事だよ。ごめん。失敗したみたい。深追いしちゃってね。どうかヌーを止めて欲しい。ここでブラックバックを逃がしても、大した被害はないよ。これっぽっちも情報をもってないんだから。すごすご戦場から逃げてきたばかりなんだ。だから頼むよ。オポッサムからヌーを説得してくれないかな」
「そうそう。約束してやるよ。ここで見逃してくれたら。さっさとトムソンガゼルを離してやる」
ブラックバックがトムソンガゼルの言葉に便乗する。しかし、オポッサムの瞳には、不審の色が宿っていた。
「……さっきまでふたりで何をしてたの? 仲良さそうにも見えたけど?」
オポッサムのスピーカーから飛び出した質問に、トムソンガゼルはギョッとして首を竦めた。そうするとブラックバックの角に顎が引っかかって、ぐうう、と空気が口から漏れる。
「間合いをはかってたんだ。似た種族同士、敵の出方も分かってる。慎重に攻めようと思ったんだ。けど慎重すぎたね。反省してるよ」
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと決断しろ!」ブラックバックがトムソンガゼルの声を遮って喚きたてる。「お前らがやる気なら、俺はこいつの首をへし折って、道連れにしてもいいんだぞ! そっちは頭数が足りてないんじゃないのか! こっちの一頭と、そっちの一頭、どっちの価値が高いか考えてもみろ! そんな単純な計算もできないのか? てめえら全員ダチョウ並みの頭か? どうなんだ、ええおい! 何とか言ってみろ!」
業を煮やしたブラックバックが全身で騒ぎ立てた。ヌーが白い尾を揺らしながら、一歩ずつ、近づいていく。自分の三倍以上の体重があるヌーの体格に怯んだブラックバックは、トムソンガゼルの首を角で締め付けながら後退る。
そんなブラックバックに、オポッサムが「どうして頭数が少ないって思うの?」と、静かに尋ねる。
「……え? どうして、って」横長の瞳孔がくるくると回転する。落ち葉が慌ただしい蹄に踏まれて、パリパリと破かれる。「そのう。それは。見れば分かるだろ。うん。ほら、ちょっとしか俺の目には入らなかったからさ」
「戦力を温存してるのかもしれないじゃない」
「かも、かもしれないが……ほら、そう、実は、あてずっぽうでした! いやあ、その態度からして当たったみたいだな。バーカ。バレバレなんだよ。敵の口車に乗って内情をバラしちゃうなんて、愚かだねえ」
口の減らないブラックバックとは対照的に、トムソンガゼルはスピーカーをすっかり沈黙させて、事の成り行きを見守っている。
オポッサムは迷ってもいた。ブチハイエナに、ヌーと一緒にここで確かめて欲しいことがあると頼まれた。リカオンたちを敵の元へ案内するため、本拠地の南西方向へと向かったトムソンガゼル。それが西方向、敵が本陣を敷いている方角へ、身を隠すのには丁度いいこの森を通って行くかもしれない、ブチハイエナはそう言っていた。彼がやって来るか確認して欲しい。来なければそれでいい。それならヌーは北西方向で戦うイボイノシシの救援へ。オポッサムは状況報告をするため本拠地に戻る。もしも来たら、その行動をじっくりと観察すること。何故こんな頼みをするのか。それは、トムソンガゼルは恐らく、トラの群れの、スパイ、だから。
そんなわけないと思った。トムソンガゼルとは何度も話したことがある。けれど、そんな素振りは一切感じなかった。オアシスの岩NPCから、ライオンの群れにオポッサムが加入申請を出した時、はじめに迎えに来たのはトムソンガゼルだった。オオカミの群れとの群れ戦では一緒に戦い、共に勝利を分かち合った。頼りになる偵察役。そんな印象を抱いていた。でも、今は分からなくなっている。ブチハイエナの言う通り、トムソンガゼルはやって来た。ブラックバックと顔を寄せて、内緒話をしている風でもあった。その言葉の端々からは、虚偽の匂いが濃く香ってくる。
ヌーと合流したオポッサムが、ブチハイエナの言葉を伝えた時、ヌーはそうかもしれないと答えた。ヌーは深く考えたわけではなかったが、その心のなかには単純な天秤があった。トムソンガゼルより、ブチハイエナの方が信頼できる。天秤は既に傾いており、更にその振る舞いを目や鼻や耳で確かめたヌーは、トムソンガゼルをもはや完全に敵とみなしていた。
蹄で土をかき。角を前に突き出して、串刺しにする構え。大きな体を僅かに揺すり、ヌーが一気に駆け出した。ブラックバックは慄いて、悲鳴を上げながら逃れようとしたが、角に引っかかったトムソンガゼルという大荷物が邪魔で、身動きが取れなくなっている。コナラの大木にぶつかって、その木肌に肩を擦りつけた。
森に落ちる木陰を踏み越えてヌーが駆けた。頭に乗っていたオポッサムは背中のコブまで転がり落ちて、ヌーが足を踏み出す度に、小さな体を跳ねさせる。
ブラックバックは避けられない衝突に身を縮めて震えていたが、不思議とその時はいつまで経っても訪れなかった。木の葉のような形をした大きな耳をパタパタと動かすと、死刑宣告のカウントダウンにしか聞こえなかった激しい蹄の音が消えている。視線を上げる。すると、ヌーは立ち止まり、鼻先を頭上に向けていた。更にはじりじりと後ずさっている。
ヌーは発達した嗅覚を持っている。遥か遠方の雨の香りをも鋭敏に感じとるという。その優れた嗅覚で、敵の到来を察知していた。強力な肉食動物の香り。
大きな影が横切った。鳥、にしては随分と大きい。見上げたブラックバックが「あぁ……」と気の抜けた声を漏らす。その角からトムソンガゼルが逃れたが、それすら気がつかない様子で、意識はやってく来る影にのみ向けられていた。トムソンガゼルが森の奥へと逃げ去って行く。ブラックバックはただただ影を見つめる。その視線が、ふわりと落ちる。木の葉とドングリが嵐となって、その獣に場所を譲った。
「長……!」
ブラックバックは心の底から安堵した声をスピーカーから漏らす。そうして、急に強気になって、ピンと耳と尻尾を伸ばした。
黄金の毛衣に爪痕のような黒い縞模様。群れの長、トラが舞い降りる。その背には怪物、窮奇の翼が生えていた。ヌーとブラックバックの間に着地し、刃のような視線を走らせる。
「長、長、丁度いいところにいらっしゃいました。いやあさすがは長ですなあ。かわいい部下の危機を察して来てくださったんですねっ。ねっ。ライオンの群れの奴らとは大違いだあ。仲間を見捨てようとしたんですよ。あいつらは。いちゃもんまでつけてきて、ひどいのなんって……」
揉み手でもしていそうな声色で喋り続けるブラックバックを眼光で黙らせたトラは、
「ミスをしたな」
と、押しつぶすようにブラックバックに言った。ブラックバックはその言葉に首を竦めて、下唇を剥き出すような仕草をしたが、反論はできなかった。