●ぽんぽこ14-5 苛立つオオカミ
「……うるさいな」
低く唸りながらハイイロオオカミが梢を見上げた。イヌたちの遠吠えがこだまする渓谷の森。対抗して荒々しい遠吠えをとどろかせると、ぴしゃりと声はやんでしまった。朝日に照らされた残響が、ほのかな影を散らしていく。
「ふん」雲をゆらしそうなぐらいに強く鼻息を鳴らしていると、
「そんなにプンプンしないの」
林檎の植物族になだめられる。前方では道をふさぐ植物オブジェクトの伐採作業の真っ最中。作業にあたっているジャイアントイランドやオジロヌーがちらとふりかえり、横目でハイイロオオカミの機嫌をうかがった。
「……顔を洗ってくる」
と、ハイイロオオカミは口をとがらせて、近くを流れる渓流のせせらぎに駆け寄った。水鏡を覗き込む。銀に近い灰色の毛衣をしたオオカミが牙を剥いて見返してくる。乱暴に水中に頭を突っ込み、十分に冷やしてから顔をあげると、へたれた耳から水が滴った。首をふって水分を飛ばす。こまかなしぶきに虹が浮かび、さわやかな朝を彩った。
いくぶんかマシにはなったが、まだ心にはやけつくような熱がまとわりついている。
――ウルフハウンドめ!
こんなに頭にくる出来事は久しぶりだった。逆立った毛が怒髪天を衝いている。学生時代、尊敬していた上級生に彼女をとられた経験があるが、そのとき以来の感情。今回、奪われたのは彼女ではなく群れ。それだけであればまだ我慢ができた。しかし、奪った群れをまるごとギンドロに引き渡したというのは許しがたい所業。彼女のときもそうだった。しばらくして上級生は彼女を捨てた。復縁もかなわず、結局いたずらに仲を引き裂かれただけ。
頭のなかでそれぞれの出来事が交錯して、汚れた色彩がぶちまけられる。気持ちが乱れる。もう一度、顔を洗う。それでもおさまらなかったので、体ごといきおいよく水に飛び込んだ。しばらく犬かきをしてから陸に戻ると、体を震わせ、はげしく水を飛び散らせる。
作戦会議でリカオンにウルフハウンドの話を聞いたときからずっと精神が高ぶっていたが、ようやくすこし落ち着いてきた。
細く長い息を吐く。
緑の香りを肺いっぱいに吸い込んで、深呼吸をしてから仲間たちのところへ。
「おかえりなさい」と、林檎。
「ただいま。林檎ちゃん」
点々と樹列をつくっている林檎の、甘い香りがする木陰を通り抜け、イランドやヌーの伐採作業を後ろから見守る。同じイヌ科でも雑食のイエイヌと違い、オオカミは肉食。作業を手伝ってもたいして効率はあがらない。代わりに周囲を警戒する役割を担う。嗅覚と聴覚を使って、植物たちがみっちりと押し込められた暗く深い森のなかに探りをいれる。くるならこい、と感覚をとがらせるが、イヌたちがやってくる気配はない。
順調な道行。想定よりも早いペース。ハイイロオオカミたちのパーティは現在下流方向から渓流に沿って川をさかのぼるようにして進んでいる。
「おーい」
空からの声。風をたたく翼の音。水面に映るピンク色の鳥。
「フラミンゴ。こっちだよ」
イランドが長大な角を掲げて太陽光で輝かせると、それを目印に飛んでくる。川のなかに着水。
「いい感じに進んでるね」と、フラミンゴ。水かきのついた足でバシャバシャと水の流れをかき混ぜて翼を休める。この森は密度が高すぎるせいで、なかなか降りれず困っていた。川辺は貴重な休憩地点。
先が黒く分厚いくちばしを水にひたして、川辺に集まる仲間を見る。
オオカミ、イランド、ヌー、林檎。四名のパーティ。
状況を伝達。フラミンゴは下流方向一帯を担当する連絡役。ひとつをのぞいて異常なし。唯一の異常はダチョウのパーティが行方知れずになっていること。
「迷子になってるんじゃない?」と、ヌー。
「ダチョウのことだからあり得ると思って、わたしも探したんだよ。でも見当たらなかったんだよね。こういうときはやられてるって考えといたほうがいい」
「そうだな」
ハイイロオオカミが同意する。すこし前のイヌの遠吠え。自分が群れをまとめていたときに使っていた信号とは違うが、ダチョウたちを仕留めたことを知らせる内容だったような気がしている。
「作戦に変更点はあるか?」
ハイイロオオカミが聞くと、フラミンゴが長い首を横にふる。
「ないよ。ただし、猛犬注意ってところかな」
「いたのか? どこにいた?」イヌと聞いて過敏な反応。
「そこら中にいるよ。常に移動してるから、どこと言われてもって感じ。わたしがはっきり見かけたのはブルドッグみたいなやつと……」
「俺の群れにブルドッグはいなかった。ピットブルだなそいつは。とびきり狂暴なイヌだ」
「そうなんだ。そのピットブルに似てて倍近くでかいやつもいたな」
「たぶんグレートデーンだ」
「君みたいなオオカミっぽいけど頭から背中にかけてが黒いイヌも」
「シベリアンハスキー……、そうか……」
ハスキーは長の交代があってから、群れを離れているものと思っていた。残っていたのか、とハイイロオオカミはやや残念な気持ちになる。
「いまのところはそのぐらいかな。他になにか質問ある?」
「ない」
「じゃあわたしは……」
と、フラミンゴが空に飛び立とうとした瞬間。にわかに川が増水しはじめた。
「なにこれ? あっ……!」
押し寄せてきた大波にフラミンゴがさらわれる。水没。かろうじて水面からくちばしを突きだして息継ぎをするが、両翼が肩まで沈んでしまっている。
「フラミンゴ!」
すぐさまハイイロオオカミ、イランド、ヌーが、川を流れるピンクを追う。大波の勢いは増して、水が川岸にまであふれだしている。
「私が助けにいくよ!」
このパーティで一番の俊足であるヌーが速度をあげて走りだした。ヌーは大移動することで有名な動物。地球では何十万、多ければ百万頭を越えるというヌーの大群が、乾季になると食料の草を求めて長大な距離を移動した。走るのが得意なら、川を渡るために泳ぐことだってできる。
湾曲した角の切っ先が川に向けられたが、
「ちょっと待って!」林檎が止める。林檎の植物族は川沿いに並ぶ幾本もの肉体を経由して、一歩も動かず、仲間たちを追っている。
「流れてくる」
植物族独自の感覚を広げる。五感のようで五感ではないゲーム内感覚。
「あの子の、マンチニールちゃんの果実」
イランドが上流方向に視線を向ける。たしかに林檎に似た小粒な果実が川に浮かんで、どんぶらこと流れてきていた。
「林檎ちゃんの言う通りだ。マンチニールの実がある。川に毒の樹液が仕込んであるかもしれないな」
「だったら俺に任せろ」
ハイイロオオカミがスキルを使って、大狼フェンリルの肉体に姿を変える。フェンリルは毒気から生まれた霜の巨人を母親に持つだけあって毒への耐性がある。
躊躇なく流れに飛び込む。暴れる水流を力強い犬かきでねじふせる。
フラミンゴは何度もひっくり返されながらも、翼で舵をとって、川から突きでた岩にひっかかることに成功していた。ふたつの岩が寄り添うような形の双子岩。まんなかにあるくぼみにちょうど鳥の体がおさまっている。
くちばしを使って岩にしがみつくフラミンゴの元にフェンリルが到着。大顎で長い首を咥えて岸にまでひっぱっていく。口の隙間から舌の上に入り込んできた水の味はしょっぱい。
塩水だ。海水。このスキルについては聞いている。リコリス、もしくはヒガンバナ、もしくは曼殊沙華、もしくは死人花、地獄花、幽霊花、千以上の別名を持つという紅の花を咲かせる植物族が使う海の女神リュコリアスの神聖スキル。海水を生成する効果。上流にいるリコリスがスキルによって生みだした海水を川に注いで、増水させたのだろう。
帰還したふたりが川岸に横たわり、荒い息をはく。フラミンゴは林檎に果実をもらって体力回復。
水の流れにマンチニールの毒樹液を仕込む戦法を使うことは、作戦会議でライオンから聞いている。そういう情報提供を受けたのだと。けれどもこれはさすがに水かさを増やしすぎだった。毒の効果が大量の海水で薄められて、わずかなスリップダメージを受けたぐらい。たいした被害はなし。耐性のあるフェンリルにいたってはダメージゼロ。ほとんどこけおどしだ。
川の流れが徐々に緩やかになってきた。
「手荒い歓迎だな」
「向こうもやる気十分ってところなんだろうね」
さざ波立っている水面をイランドとヌーが眺める。マンチニールの果実がおだやかにゆられながら、森の流れへと消えていく。
歌うような鳥のさえずりがどこかから聞こえた気がした。
樹々が風になでられて、拍手するように葉を打ち鳴らしている。
フラミンゴがつかまっていた双子岩に、流れがぶつかり千々に砕ける。
小高く枝を広げた林檎は上流に意識を傾け、ぽつりと静かな言葉をこぼした。
「……いるんだね」
森の奥。この先にマンチニールがいる。