▽こんこん13-13 トラ駆ける
一頭のトラがガラクタ広場を駆け抜け、工場地区の外れに向かっていた。
ベンガルトラの半人だったレョル。
その姿はいまや、まごうことなきトラそのものへと変質してしまっている。
よどみなく動く四肢。躍動する大柄でしなやかな体躯。黄金を引き裂く黒の縞模様。おそろしく巨大な牙と、鋭い爪。伸びやかな尻尾。よく動く耳。跳ねるヒゲ。猫目。肉球。
どこをとってもトラ。
完全なるトラ。
――殺してやる!
ただ、それだけを思った。
その心だけが、まだトラではなかった。
足音なき捕食者の走り。唸り声は猛々しく、聞くものを遠ざける。
ピュシスにいたときの感覚が蘇る。
体がなじむ。
身が軽い。
けれど、いまだ心だけが重荷になっている。
心、もしくは脳。最後に残った人間の部分。
ふり払おうとするが、へばりついて取れはしない。蛹からうまく脱皮ができなかった昆虫のようだ。翅を広げることができなければ、地に落ちて、踏みつぶされる運命。
体のあちこちを負傷している。右腕と両脚に銃弾を受けた。腹を刺されもした。
血がたくさん流れている。
死ぬのだろうか。
きっと、死ぬのだろう。
けれど、走り続けることはできる。最後まで、いけるところまでいってやる。
記憶が混濁する。
狩人との死闘。
香水のにおいが鼻孔をとげとげしく刺激する。
クロハゲワシの半人からもらった香水。
鼻がまったく利かなくなる。強い不快感。ネコ科の自分でこの有様なのだから、おそらくイヌ科の半人であるらしい、ビゲドに対して効果てきめん。紙袋をつぶしたような顔。さぞかし肝をつぶしたらしい。
ガラクタが積みあがった山の上。ビゲドは右手で鼻をおさえて、左手で銃を構える。鼻へやったほうの手には指がなく、関節で挟むようにしてむりやり鼻をつまんでいる。だれかに噛み千切られたのだろうか。右腕を撃たれて負傷している自分とは、これでおあいこ。
利き手でないほうの腕で扱っているからか銃の照準は甘い。素早く回り込んで、とびかかり、牙を剥く。ビゲドは右腕で首を抱えるようにして喉元を守る。
肘のあたりに突き刺さったトラの牙が、腕を貫通。先端がわずかに首に届いた。生々しい血の味。だが、まだ致命傷ではない。より深くえぐろうと、顎に力を。銃声。遅れて激痛。右脚の膝の下あたりを撃たれた。
銃口が移動する。心臓を狙おうとしている。咥えたまま首をふって引き倒そうとするが、足を踏みしめ、堪えられてしまう。無事な左脚で膝蹴り。銃を叩き落とそうとすると、今度は左脚が撃たれた。反動で妙な具合に体が暴れて、お互いにはじきとばされる。ガラクタの山のふくらみの逆方向の坂にそれぞれが倒れた。
先に起きあがったのはビゲド。牙で破壊された右腕をだらんと垂らし、首元の傷口からは血が流れる。
見下ろすビゲドの顔といったら。鏡を持っていなかったのが残念だ。ガキ大将の勝ち誇り。勝利を確信して、トラの剥製だか、毛皮の絨毯を作ることしか考えていないという瞳の輝き。
重たそうに銃を持ちあげ、手をふらつかせながら照準を合わせようとする。無慈悲な弾丸が発射され、トラの命がガラクタに散るという寸前、物陰から飛びだしたヌートリアの半人がビゲドの腕にしがみついた。
もみあい。ヌートリアは両手でビゲドの左腕を押さえて、齧歯類の強靭な前歯を打ち鳴らす。やみくもに撃たれた弾丸が、ガラクタのなかで跳弾する。オレンジ色の前歯の攻撃を避けながら、ビゲドは片腕だけの力でヌートリアを持ち上げて巴投げを決めた。騒がしく山から転がり落ちていく齧歯類には見向きもせずに、ビゲドはトラへのとどめを優先する。
命の危機だというのにろくに体を動かせない。
万全の状態あれば、トラの跳躍力でひとっ跳びの距離。
しかし、どちらにせよ、銃と牙の真っ向勝負のこの状況をくつがえすのは困難。香水で鼻をつぶしてからの奇襲で決めきれなかった時点で、勝機ははるか遠ざかっていたのだ。
このまま、なすすべもなく、ただ撃たれるしかないのだろうか。獣の頂点であるトラともあろう者がなんともなさけない。
死を前にして乖離した心がどこか他人事のように深く嘆息していると、頭上から影が落ちてきた。雲ではない。機械惑星に天候は存在せず、雲もない。木陰だ。木漏れ日が落ちてきた。見上げる。青々とした葉。明るい紫、濃いピンク色の、華やかな花弁。
ワンピースの裾がゆれていた。赤いカーディガンからするりと枝が伸びて、枝先に引っかかった赤い手袋がいまにも落っこちそうになっている。
「……おい」
呼び止めようとしたが、女は聞かなかった。もう聞こえていないのかもしれなかった。植物化がだいぶん進んでいる。ウルシ科の女。ポイズンアイビーの半人。
銃声。一度ではなく、畳みかけるように、躊躇いは微塵もなく、乱射。
吸い込まれるように、女の体に銃弾が降り注いだ。
アイビーは銃と牙のあいだに立って、伏せたトラをかばうように立ち塞がり、空の第一衛星の光を全身で受け止めようとするように手を広げていた。
いくら撃たれても女は死ななかった。
女は植物。植物が撃たれたぐらいで死ぬものだろうか。
やや傾いだぐらいで、足はガラクタに根を張っている。
弾切れ。
引き金からは空虚な音。
装填の隙に、アイビーの陰からとびだす。
動ける。死に瀕した人間。死に瀕した動物。より生きる力が強いのは、どうやら後者であったらしい。
促進剤を自身に投与した。
研究機関が開発した半人化を加速させる薬。
研究所の飼育室からここまで、ずっと持ち歩いていた。ヴェロキラプトルと対峙した際に使うかどうか迷って、結局、ベルトに挟んだままになっていた。アンプルがセットされた銃型の注入器。針の切っ先を突き刺して、引き金を引くだけで投与は完了。
いまはもう、迷わなかった。
効き目はすぐにあらわれた。よほどの即効性がある薬品だったのか、それとも、すでにこの体の半人化が佳境に入っていたから効きがよかったのかもしれない。
肉体がトラへ。かろうじて中立であった天秤が、勢いよく傾いていく。
痛みが消え去ることはなかったが、それでも、痛みをはねのけて体が動いた。理性ではなく、トラの本能が肉体を動かしてくれた。
ビゲドはもたもたと銃弾を装填している。左手一本しか使えないので、牙で弾を咥えているが、なかなか弾倉にはまらない。狩人気取りで旧式の銃にこだわっていたツケ。電気銃を持ってこなかった怠慢。
装填が間に合わないと判断したビゲドは銃を捨てて身構えた。
相手の半人化も進んでいる。髪は白灰色の毛衣。尖った犬牙。マズルもすこし伸びかけている。面影に見覚えがある。イエイヌの一種だ。ウルフハウンド。
ネコとイヌで決着をつけようじゃないか。
そう思った、が敵はあくまでも人間、狩人であり続けた。
爪よりも、牙よりも強力な、鋭利なナイフが、ビゲドの手には握られていた。
刃が下腹部をえぐる。臓腑が傷ついた感覚。のしかかると、自重で余計に突き刺さる。
牙を向けて噛みつこうとしたが、顎を閉じることができない。苦しい。息を吐かなければ。息を吸えない。窒息しそうになっているうちに、蹴りつけられて押しのけられる。
横に何度か転がる。見上げれば、血に濡れた狩人。
ナイフがくるりと順手に持ち直される。相手も満身創痍。トラの牙で引き裂かれた指のない右腕。首元からも血が流れ続けている。カタツムリが這うような速度でトラの命を奪いにくる狩人。
声がでなかった。出るのは情けないネコの弱り声だけだ。人間の声を失った。
また、木陰。
ビゲドを背後から抱きすくめる者。
しなだれかかる。やさしい抱擁。
ただ、それだけのことで、ビゲドは熱い鉄に沈められたかのような、苦痛の咆哮を響かせた。
ポイズンアイビーの半人が根っこの足を引きずって、ここまでやってきていた。
銃弾によってあけられた風穴から、樹液のような血が大量に流れ落ちている。狩人はそれを頭から浴びせかけられた。ポイズンアイビーは毒性植物。悶絶するほどの痛みとかゆみ。
ビゲドが傷口をかきむしる。傷が広がり、毒が塗り込まれる。ツタ状の枝が体に絡まって、植物に取り込まれていく。
はじめて、植物に畏怖を感じた。
肉食動物。動物とは、なんと、か弱いのだろうか。
女の瞳からはなんの感情も読み取れなかった。ただ、その視線はまっすぐにトラを見つめていた。女はいまも植物に変わり続けている。枝を伸ばし、葉を茂らせている。枝から芽吹いた花が、次々と、美しく咲き誇った。
力をふり絞り、体を奮い立たせる。
道なき道を駆けだした。
命あるうちに、成し遂げねば。
心あるうちに、討ち取らねば。
星の心臓めがけて、トラは走った。