▽こんこん13-9 理性の遠のき
暴走するラアを、アジアゾウの半人が止めようとしたが、寄せた体は押しのけられ、交えた牙ははじかれる。頼みの綱の長鼻を手綱のように首にからめるが、ラアは同じく強靭な長鼻を使ってひきはがそうとしてくる。
ゾウとゾウの嘶きが暗闇に反響して耳をつんざく。地下通路は巨大な管楽器になろうとしていた。
クロハゲワシや、クズリの半人は手出しすることができない。アフリカゾウの凄まじいパワーに対抗できるのはアジアゾウのみ。ラアはまだ完全なゾウではなく、体格も不十分であるにも関わらず、人ひとりぐらいであれば長鼻一本で軽々と持ちあげられるほどの力が身についていた。
アジアゾウが必死になってしがみつくが、奮闘むなしく、がむしゃらに暴れるラアは拘束をふりほどいて猛然と走りだす。マスト状態という強烈な引力に突き動かされる。頭のなかに満ちるのは空と大地を混ぜ合わせたかのような混沌。超新星爆発のような感情のうねり。牙を向けるのは、ロロシーの、ライオンの心臓。
ロロシーはピストンでゆっくりと圧縮されているような感覚のなかで、荒れ狂うアフリカゾウの半人をどう対処するか、判断を迫られていた。
刹那の思考がかけ巡る。
ラアはポニーぐらいの大きさだが、空気を詰められたみたいに全身が膨らんでいる。肌の質感、鼻、耳、牙、両手両足、いずれも強力なゾウのものに変質。瞳はまだ人間のままだが、それが余計にたちが悪い。なにせ、ゾウよりも人間のほうが視力においては優れているのだから。
足裏の肉球でロロシーは激しい振動を感じとる。戦闘準備。手足からネコの爪を飛びださせ、牙を露わに。
ゾウといってもミニチュアだ。
仕留めるのはわけもない。
――仕留める?
自分の思考に射すくめられて息を呑む。
仕留めてはいけない。なにを考えてるんだ。
とはいえ、あの勢い、足が動く限りは止まらなさそうだ。回り込んで、後ろ足に噛みつくのがいいか。またしても、同級生を噛むのか。しかし、リヒュのときとは違って首ではなく足。命を奪う気はない。いや、これは言い訳だ。相手は動物。野生に生きる動物になろうとしている者。野生動物が足を負傷するのは、死ぬのと同義。ただでさえ、機械惑星に動物病院など存在しない。直接命をとらなくても、殺すのと同じことだ。
逡巡しているうちにも、エンジンをふかしたような鼻息が、長鼻のダクトを通って放出されている。
横幅の狭い通路。ロロシーはライトの閃光を向けて目つぶしができないかと試みたが、ラアは微塵も怯まない。
とりあえずかわそうか。決断の先延ばし。頭上を飛び越える。ライオンの身軽さなら悠々とやり遂げられる。けれど、そんなことをすると、他の者に牙が向くかもしれない。そうなった場合、ソニナは、ズテザは、ユウは、自分のように身軽に避けられるだろうか。きっと無理だ。
「皆、逃げてください!」背後に叫ぶ。
ラアの目は本気。以前、ゲーム内でも見た気がするアフリカゾウの眼差し。アイラーヴィタやギリメカラの眼差しでもある。破壊衝動に呑まれている。
迷っているあいだに理性が遠のいて、本能が優勢になりはじめる。
己のなかのライオンがささやく。やれ。やれ。やれ。俺様にとって、子象なんぞは敵じゃないぞ。殺すのなんかは簡単だぞ。殺して食ってしまえ。腹が減ったぞ。ライオンは、ライオンらしく、肉を食わなきゃあ……。
唾を飲み込む。
理性と本能の狭間で心がゴムのように引き伸ばされる。どちらを選ぶにしても、ぱちんと弾けてとんでいってしまいそうだ。
止めるのなら、息の根まで。止めないのなら、散る覚悟。
ロロシーはライトを投げ捨てて、両手を前へと差し出した。手は人間の最大の武器。この手で人間は文明を発展させた。人間として二足で立って、アフリカゾウの牙の切っ先を見据える。
イメージする。牙を掴むんだ。掴んで押さえつける。
衝撃に耐えきれず、こちらの腕が折れるかもしれない。足の踏ん張りは持つだろうか。掴みそこねたら、牙が胸を貫くだろう。恐怖を感じる。だが、恐怖する自分に安心する。私は人間。言い聞かせる。
闇からゾウが迫りくる。
ユウとズテザが後ずさりながらライトを向けた。ふたつに分かれたロロシーの影がゾウにおおいかぶさると、光を受けた象牙がつやめき、穂先が凶悪に輝いた。
ゾウの牙の切っ先だけが視界のすべてになった。収束して、針よりも細くなる。
ネコ科の肉球と爪が備わり、指が短くなった手は、ものを掴むには心もとない。イヌと違ってネコの手はものが掴めるようになっているとはいえ、その機能において、人間の手には遥かに劣る。
もう目の前。掴んで、止めてみせる。
意気込んだそのとき、不意に光が遮られた。
鈍い音。
眼前を斜めに横切る壁のような影。
隣に目を向けると、ソニナがいた。ソニナは背中に担いでいた荷物を、両手で抱えている。理解が追いついてくる。クローゼットほどもある、角柱型のそれを、こん棒のように扱って、ラアの脳天にふりおろしたのだ。
押しつぶされたラアが崩れ落ちる。
「ソニナ、あなた、なんてことをするの……!?」
慌てたロロシーが、ラアを下敷きにしている大荷物どけようとするが、持ちあげられない。重たい。こんなに重たかったのかと驚く。
「コツがあるんですよ。荷物の持ち方には」笑顔のソニナが荷物の角に手を置き、ひょいと持ちあげてみせる。たしかに力を効率的に伝える技はあるだろうが、それだけでは説明できない生々しい重みをロロシーは感じていた。見た目には変化がないが、やはりソニナも半人の影響を受けているに違いない。けれど、ブチハイエナというのはそんなにも力持ちなのだろうか。
なにはともあれ、ラアの容態を確かめる。昏倒しているだけで生きている。頭にあざができてはいるが、帽子がわずかであれクッションになったのか、それほどひどい状態には見えない。象牙も折れたりしていない。
アジアゾウが駆け寄ってきて、倒れているアフリカゾウを長鼻でいたわるようにしながら、強く咎める響きを乗せて、
「なんて手荒なことを」
「手荒なのはそちらの方のほうでしょう」
ソニナがずけずけと言うのをロロシーが視線でたしなめて、
「申し訳ございません。うちの者が」
それから、ふり向いて「ユウ」オートマタを呼ぶ。過去に生産された人格移植型の特別なオートマタ。だれかの人格が移植されるはずだったが、その前に自発的に精神パターンを形成して自我めいたものを持っている不可思議な機械。
「なんだい。ロロシー」
「医療用オートマタのデータはありますか? 応急処置を任せてもよろしいでしょうか」
「いいよ。ゾウの診察用データはないけど」
銀色の手が伸ばされて、手際よく状態の確認がなされていく。アジアゾウは迷うように鼻をくねらせていたが、「安心して」とユウが言うと、機械の手に任せることにして、影のなかに身を引いた。
ユウの診断では、ゾウの体の頑丈さで大事ないということだった。無事を聞いてすこし落ち着いたらしいアジアゾウは、ロロシーに鼻を向けると、聞き取りづらいゾウの鳴き声混じりの声で、
「ライオン。アフリカゾウを噛まないでくれてありがとう」
「いえ……」
ロロシーはくちごもって、申し訳なさそうに目を伏せると、
「ソニナ」硬い声で呼ぶ。叱ろうとしたのだが、機先を制されて、
「ロロシーお嬢様にお怪我がなくてよかった。危ないところでしたね」
目じりや口元が心配する心をあらわすようにさげられる。
「ええ。おかげで無事です。でも……」
もやもやした気持ちを溜息と共に吐きだして、
「せめて、その荷物は武器ではなく、盾として使うことはできませんでしたか」
「いけません。大事なものがはいっているんです。牙が突き刺さったら大変」
ソニナは荷物に損傷がないか確かめながら、側面にあるポケットの中身などを取り出している。
「それにしても、そんなに」
人でも入っていそうなぐらいに大きな箱に視線を向けて、
「たくさんの工具は必要ないでしょう。人命優先でお願いします」
「心がけております」
「本当ですか?」
「はい」ほがらかに言って、ソニナは笑った。