▽こんこん13-1 混乱のなかのワニ人間
ログアウトしたルルィがまず思ったのは体が硬いということ。柔軟性の話ではない。ただ硬い。腕をまくると皮膚に鱗の模様がほんのりと浮かびあがっている。
顔を触るとくちびるの端が頬にまで裂けかけていた。
舌でなぞった歯は鋭い。牙のようだ。
腕や脚がすこし太くなった気もする。着慣れた服なのに着心地が悪い。
尻がむずむずする。さすると尻尾の突起を見つけた。力をこめるとわずかに動かせる。
変だ。とてつもなく変。
けれど、既視感もある。
鏡を覗くと爬虫類じみた顔。その面影はイリエワニ。
しかし、いまは、そんなことはどうでもよかった。
まったくもってどうだっていい。
家を飛び出す。
住居地区の積層住宅。大量の住居が寄り集まって積みあげられたそのひとつから射出されるみたいにして飛び出す。昇降機に乗り込んで階下へ。積層住宅の玄関から外へ。
灰色。壁壁壁。ピュシスとは大違い。空には太陽代わりの、太陽とは似ても似つかない第一衛星。死んだような光を発する機械衛星。
灰色の道を踏みつける。灰色の風景にのめりこむ。
走る。走れ。急がなければ。
今日という日は惑星コンピューターの休養日。人々を運ぶ輸送箱の運航は停止している。けれどそもそも乗る気はない。乗り場までいくのもわずらわしい。急げ。急げ。
体が動かしづらい。体が硬い。今度こそは柔軟性の話。関節が硬くなっている。サイズのちいさい新品のジャケットとズボンを着て動いているみたいだ。
こんな顔をしていると、だれかに見られたらびっくりされるだろうか。
こんな顔、とは、ワニの顔。
と、頭の片隅で考えていると、さっそく人に出会ってしまった。
けれど、それは人であって、人ではなかった。
人の形をしているが、頭には人ならざるものの証明、二本の角が生えている。シカではなくウシ寄りの角。がっしりとしていて、根本が太く、先のほうはやや湾曲している。
ルルィを見て、慌てて逃げていく。蹄のような足音。その逃げ方は、草食動物が肉食動物から逃げるときのそれを彷彿とさせた。
逃げた者を反射的に追う。本能的なものなのか、事情を知りたいという理性的な意識が働いたのかは分からなかった。
角を持った人間は、人間離れした速度で跳ねるように走り、横道に入る。ルルィが追って、道を覗き込むと、悲鳴。
狭い路地の奥に、角を持った人間が倒れていた。かたわらには牙を持った人間。口元が血に濡れている。
牙を持った人間は、ルルィを一瞥すると、後ずさるようにして、暗がりへと獲物を引きずりこんで、闇に消えていった。
ルルィは無意識のうちに、自分が牙を剥いていたことに気がつく。無骨で荒々しいワニの牙。
息を呑んで、また走り出す。
急がなければ。
頭に装着している個人端末、冠を操作して、走りながら情報を探ると、混沌が洪水となって押し寄せてきた。目につくのは混乱と不安。それらが共鳴、増幅され、破壊的なまでに膨れあがっている。あらゆる情報に溢れすぎていて、正確な情報がどれか分からず、そもそも正確な情報があるのかどうかすらも判然としない。
ギーミーミやリヒュ、ゴャラームなどの学友に連絡を取ろうとしたが、だれにもつながらなかった。
調べるのはやめて、走るのに集中する。もう十何年も使っている体なのに、なんだか動かしづらい。まるで他人の体を走らせているような感覚。ワニみたいになっているからだろうか。そもそもなんでワニみたいになっているんだ?
ピュシスが関連しているのだろうというのは想像できた。ゲーム内の自分の肉体はイリエワニ。いまは現実か? と、突然不安になって、頬をつねってみる。
痛い。現実だ。仮想世界に痛覚は設定されていない。
けれど、頬に触れたときの、人間の肌ではなく、爬虫類じみた芯のある感触は、どうにも現実離れしていた。
商業地区へ。
まだ走る。中央通りを走っていると、何人もおかしな者たちを見かけた。動物人間たち。植物めいた人間もなかにはいた。
その多くが錯乱していた。錯乱しているからこそ、目立つ場所に出てきているのだろうとも思った。鎮圧するべく動員された警備用オートマタや、警察官たちに取り押さえられていたが、暴徒に対して警察の手が足りていないのが見て取れた。しかも、助っ人のオートマタたちは故障しているようなぎこちない動きで、むしろ邪魔になっていそうだった。
人がたくさん倒れていた。人かどうか分からない者たちも。同じ色の血を流していた。
整然としていた街は破壊に見舞われ、その輪郭は歪に変化している。あちこちに刻まれている蹄や爪や牙の跡。直線が砕かれて作られた複雑な影は、なぜだかピュシスの山や森を思い起こさせた。
ルルィはとにかく走った。走り抜けた。
戦争でもはじまったのではないか思える別世界じみた光景。
機械惑星にはいまだかつて戦争も紛争もなかった。すべてが惑星コンピューターと、それを補佐する三つの機械衛星によって管理、調整され、争いの火種は燃えあがる前に消されていた。
大規模なテロの兆しはあったが、兆しの時点でいずれも消火された。近年で大きな事件と言えば、あの奴隷とかいう犯罪組織による第三衛星への特攻だが、これも未然に迎撃され、防がれている。
しかし、今日、惑星コンピューターという守護神が休養している間隙を狙ったかのように、まったくの短期間、まだ半日も経たないうちに、こんなことになってしまうとは。
理解が追いつかない。追いついたとして理解できない状況。しかし、理解する必要があるとも思えなかった。
自分にとって、いま重要なのはひとつだけ。
弟、トセェッドのことだけだ。
それ以外のことなど、どうだっていい。
奇病により、幼い頃から入退院を繰り返している弟。体内に毒素が溜まり続けており、担当医の見立てによると、そろそろ毒に抗うのも限界なのだという。つまりそれは、余命が、なくなろうとしているということ。その宣告をつい先日、受けていた。
息が切れてきた。それでも走る。
向かう場所は病院。
弟の元へ。
走りながらルルィは思い返す。
イリエワニとして仲間を率いてギンドロの群れと戦い、そして、迎えた最終盤であらわれた小鳥のことを。
その小鳥は胴回りは鮮烈なオレンジ、頭や翼は黒という目立つ羽衣をしていた。
猛毒の鳥、ピトフーイの一種、ズグロモリモズ。
イリエワニと面識があったわけではないが、オアシスでおこなわれていたピュシス会議の途中に飛び込んできて、参加を切望していたのが印象に残っていた。それが、いつの間にかギンドロの群れに所属し、念願をかなえていたらしい。
まばゆい朝日に潜んで忍び寄ってきた毒鳥は、ゴールを守るイリエワニの口のなかに自らの身を投じた。
ほの暗い死の洞窟に飛び込む一瞬、声が聞こえた。
――死にたくない。
毒鳥は死に際にささやいて、嘆きながら、イリエワニに猛毒の状態異常を付与するのと引き換えに、己の体力を散らせた。
そのときの声の震えが耳から離れない。
聞き覚えのある響きだった。
何度も聞いたことがある。
白いシーツを頭からかぶった病室のベッド。
耳に染みついてしまっている。
あれはトセェッドだった。弟だった。
だれにも聞こえないように、押し殺した声。押し殺した心。だが兄であるルルィだけには聞こえていた。どうしても聞こえてしまっていた。
毒鳥は弟だったに違いない。
確信がある。
弟を喰ってしまった。
なんてことだ。
仮想世界だとか、そんなことは関係ない。
決してやってはならないことを自分はしたのだ。
謝らなければ。それに、心配だ。弟は無事なのか。街中がめちゃくちゃになっている。自分はワニ人間になってしまっている。わけが分からないが、それでも生きている。とにかく、急がなければ。