●ぽんぽこ5-5 一方、トラたちは……
「ジャックがいないぞ」
ジャックとはジャックウサギのこと。言ったのはガウル。大きなコブある体を持ち上げて、半月型の巨大な角を振り回しながら周囲に目を向ける。それを聞いたマーコールがふさふさの山羊ヒゲと、平たく捻じれた角を揺らしながら仲間たちに目をやって、足元にいるヤマアラシと顔を見合わせた。
「確かにいないな」
ライオンの縄張り西側の境界線の外。トラの群れの副長であるマレーバクの傍には、多数の群れ員たちが集まっていた。獲物に牙を突き立てる順番が自分に回って来るのを、今か今かと待ち焦がれている。
「どこに行ったか見た者はいませんか」
マレーバクが白と黒にぴったりと分かれた体と、顔の前に引き伸ばされたような鼻をあちこちに向けながら待機しているプレイヤーたちに尋ねる。がやがやと皆が喋り出したが、誰もその姿を見かけてはいないようだった。すると空から、
「ジャックなら玩具を取りにいったよ」
と、答える声がした。ひゅー、と樹々の隙間を滑空してムササビが飛んでくる。そうしてウシ科で最も大きな体を持つガウルの頭の出っ張りに着地した。操縦桿を握るような恰好でその二本の角に掴まる。ガウルは上目でムササビを見て眉を顰めたが、やれやれという態度で頭の上を休憩場所として提供した。
「長が使うなと命じていたはずでは? それにあなた、何故ここにいるんです?」
先が白く縁どられた丸っこい耳を向けて、マレーバクが固い声をスピーカーから響かせる。
「色々あって敵の縄張りを横断しちゃったんだよ。それからジャックはね、長の言うことなんて知ったこっちゃないってさ。あの子の享楽主義っぷりには頭が下がるね、全く」
ムササビは言いながら、むくむくと膨れた尻尾を楽しそうに揺らした。
「あんな狂った奴が敵じゃなくてよかったよ」とマーコール。
「あいつがアルミラージじゃないのが不思議だぜ。あのイカレっぷりを見たら誰だって逃げ出すってのによ」
ガウルが冗談を飛ばして豪快に笑ったが、マレーバクは険しい顔をして、
「皆で手分けして探し、見つけ次第、止めて下さい」
と、命ずる。しかし、動こうとする者はいない。
「使わしてやりゃいいじゃねえか」とガウルがあっさりと言い放つ。
「この機会にライオンの群れの奴らを皆殺しにしようぜ」
「あたしも賛成!」とムササビがガウルの言葉に同調する。
「それはいけません」
マレーバクは肩を竦めて「この群れは単細胞ばかりで困りますよ。外聞というものを少しは気にしてください」と嘆息した。
そんな時、ライオンの縄張りのなかから、昇りゆく太陽を背負った大きな獣の影が現れた。口には巨大な牙を閃かせ、黄金の毛衣に被われた胴には、炎に引き裂かれたかの如き黒い筋がいくつも刻まれている。群れの長であるベンガルトラであった。
「なにかあったのか」
トラが聞くが、全員が顔を見合わせただけで、ジャックウサギの暴挙を知らせるものはいなかった。知ればトラは機嫌を損ねる違いない。八つ当たりを受けるのはごめんだった。叱責されるのは、全てが終わった後、ジャックウサギ本人だけでいい。
「予定していたクジャクからの連絡がありません。やられたのでしょう」
マレーバクも同じように考えたのか、些事のみを報告する。
「奴のことだ。少し調子の乗ったのだろう。この戦が終わったら罰を与えておけ」
「はい。イリエワニは順調に進攻中。ダチョウに接敵しましたが、これを逃がしました」
「ダチョウならあたし、会ったよ」ムササビが声を上げる。
「背中に小動物が乗ってたんだけど、脅かしたらコロッと死んじゃったんだ。面白いよねー。ダチョウはねえ。顔に取りついてやったけど体力を削り切る前に逃げられちゃった。物凄い勢いだったんだよ。あたしを振り剥がすぐらいだもん。それであたし反対側からこっちまで来ちゃったってわけ。あの必死なダチョウの形相、みんなにも見せてあげたかったなー」
「ダチョウはどっちに逃げた」
トラが詰問するような調子でムササビに聞く。
「副長の方から、蛇行しながらぐるっーと南から西に回ったけど、本拠地に戻ったんじゃない? 滅茶苦茶に暴走してたからそのまま北に行ったのかも、よく分かんないな」
ムササビは言いながらガウルの頭をぺちぺちと叩いた。ガウルは我慢の限界にきたようで、ムササビを振り落とそうと首をぶんぶんと振ったが、ムササビは「たのしー!」と喜んだだけだった。
「あたしからの報告は終わりっ! また行ってくるねー」
ひらひらと舞うハンカチのように飛び去っていくムササビをガウルは睨みつけながら、忌々し気に、傍にあった木の幹で角を拭う。
「進攻の第一段階は手はず通りの布陣です。次の手は密偵からの連絡を待ちますか」
マレーバクがトラに聞く。
「陽が真上に昇る前に連絡がなかった場合は、事前の決定通りに兵を進めろ。それまでは待つ」
「はい。仰せのままに」
会釈するように顎を引いたマレーバクの頭上で、
「やはり、今日、あいつはいないのか……」
と、トラがポツリとこぼして、縞模様のある長い尻尾で地面をぴしゃりと叩いた。あいつ、というのがライオンのことだとマレーバクにはすぐに分かった。
「ええ、そのようですな。空席の玉座にはあなた様が座られるとよろしいでしょう」
マレーバクの言葉を聞いて、トラは、ふん、と鼻を鳴らし、気に食わない、と心のなかで呟く。この群れ戦より現実世界を優先したらしい。よほどの用事なのか、それとも、この戦いはライオンにとってわざわざ参加するまでもない取るに足らないことなのかもしれない。いずれにしても面白くない。
トラが眉間に深い皺を寄せていると、群れ員のなかから小さな悲鳴が上がった。ぱおーん、という突き刺さりそうな鋭い鳴き声がプレイヤーたちをかき分けて、前に進み出てくる。
アフリカゾウ。ブラックバックが勧誘してきたプレイヤー。しかし、その誘い文句がいけなかった。ライオンと戦える。ブラックバックはそう言って、ゾウを仲間に引き入れたのだ。
「我に、出陣の許可を」
挑みかかるような調子でゾウはトラの前に立った。ゾウにはライオンが不在であることは知らせていない。トラはその方がゾウをうまく使えそうなのでそうしたまでだが、それにしてもこうも執拗な要求には閉口させられる。それにその動機も気に入らない。最強のプレイヤーを目指しているらしいが、それなら何故トラではなくライオンと勝負したがるのか。
「まだその時ではない。指示を待て。俺がお前を最高の形で使ってやる」
不服を示すように、ゾウの鼻が伸ばされる。トラは自分の体の優に倍以上の体長を持つその巨獣に怯むこともなく、素早く飛び掛かって鼻に噛みついた。この行動はゾウにとって予想外。ぶうん、と鼻が振り回されると、トラの体は悠々と宙に放り出される。放物線を描いて、トラが地面に叩きつけられるかと思えたが、そうはならなかった。
トラは空に浮かんだまま落下してはこない。その背からは翼が生えていた。そうして翼を羽ばたかせると、平然と空中で体勢を整える。窮奇と呼ばれる怪物の姿。翼の生えた人食い虎。
群れ長であるトラの牙は、今は群れ員であるゾウを傷つけることができるが、ゾウはそうはいかない。鼻に僅かながら傷を負ったゾウは、顔を顰めて、空に浮かぶトラの翼をやや驚いた様子で見つめる。
その視線を正面から受け止め、トラは激しい瞳で睨み返した。
「使えない道具はいらない。使える道具には褒美をやる。それがこの群れだ。単純で、分かり易いだろう?」
トラの言葉にゾウは耳をはためかせ、傷ついた鼻の感触を確かめるように何度か振り回した。それから何も言わずトラに尻を向けると、その足元から離れていく。それを見届けたトラは着地すると、上唇毛と呼ばれる猫ヒゲを蠢かす。
「俺はもう少し調べることがある」
トラはマレーバクにそう言って、首をライオンの縄張りに向けた。
「承知いたしました」
マレーバクの返事も聞かず、トラは窮奇の翼で空へと飛び立つ。風を切ると、全身の毛が無数の針のようにけば立った。空を舞う金と黒に彩られた獣を見上げる群れ員たちの瞳には尊敬も畏怖もない。この群れにおいて長というものはただの仕組みでしかない。だから群れ員たちにとってトラは動物ですらなく、その人格を含めて一個の仕組みでしかなかった。
トラは空を翔けながら、ライオンが治める広大過ぎる土地を眺めた。報告ではトラひとりでも突破できそうな、薄布のような守りがそこには敷かれているらしい。しかしトラは事を急いだりはしない。ライオンの縄張りに入り込める今だからこそ、確認しておかなければならないことがある。トラは誰も信用しない。自らの目で見定めておかねば気が済まなかった。
乾いたサバンナの風には、密林のじっとりとした空気とは違う心地良さがある。いつかここも全て己の縄張りにしてやろうと、トラは考える。翼を畳んで地面を蹴ると、しなやかな肉体を伸び伸びと躍動させ続けた。
ピュシスにおいてこの肉体を与えられた時、トラは運命だと思った。己の本質をピュシスによって具現化されたような気がした。トラは体格においてネコ科の頂点。トラが持つ肉食動物最大の牙は人間の親指などよりも遥かに大きく、その牙よりも更に長い爪を四肢に備えている。全身に強靭な筋肉が張り巡らされ、走力、跳躍力、咬合力、全てがハイレベル。圧倒的強者、絶対的捕食者の肉体。そしてトラは群れない。これがなによりも気に入っていた。ピュシスにおいて群れを形成してはいるが、群れ員を仲間と思ったことはない。ただの有象無象。己が利用する道具。トラの肉体が、それでいいのだと肯定しているように感じる。
地球という場所にいた本物のライオンとトラ。その性質。ライオンは食べるだけ殺す。だがトラは殺せるだけ殺すのだという。生息環境の違いもあるが、それをおいてもライオンを理知的、トラを残忍だとする文献をいくつも見かけた。しかしトラにしてみれば、ライオンはただの腑抜けに違いないと思える。残忍で結構。トラのように、ピュシスでは自分のためだけに、思うがままに振舞っていいのだ。
ここでは家族のために生きる必要はない。呪縛から解き放たれた気になれる。だからトラはピュシスが好きだった。ピュシスを己の好きなようにしていいのだと思った。そうすべきだとも。だが、そうするにはライオンの存在が目障りだった。
ピュシスの王。百獣の王。そんな称号は己にこそ相応しい。ライオンに感化されて、ピュシスをただ自然を満喫するだけの穏やかなゲームだと思い込んでいるものが増えてしまった。それでは困る。血が沸騰するような殺伐とした世界であってもらわねば、ピュシスでも家族ごっこのような真似をする輩で溢れてしまう。
ここでライオンに勝利することはただの足掛かり、ピュシスを支配し、新の自然にしよう。そうすれば次は現実世界も……。