●ぽんぽこ5-2 水を得たワニ
オポッサムに化けたタヌキは、ダチョウの背中に乗って、風を全身に浴びていた。細長い無毛の尻尾をダチョウの首にくるりと引っかけて、振り落とされないようにしながら、まん丸い耳をあちこちに向ける。本拠地から東へ。斥候の任務。攻めてくる敵の群れのプレイヤーを一体でも多く確認し、情報として持ち帰れば、作戦を考えるブチハイエナの大きな助けになる。
ダチョウはトムソンガゼルと同等の俊足を持つ大型の飛べない鳥。性格に少々難があり、突っ込み過ぎるきらいがある。蛮勇も勇気には違いない。しかし不用意に敵に近づきすぎて返り討ちにあうこともしばしば。その手綱をしっかり握るのもオポッサムの役割だった。
巨大なバオバブの木陰を踏み越え、第一防衛ラインの外側に出る。東へ、東へ。外縁近くの拠点を目指す。ダチョウの足元では平坦なサバンナの乾燥した土が煙となってもうもうと舞い上がり、尾を引くように強い風に流されていった。
植物族プレイヤーではないピュシスに自生する植物たち。イネ科植物がひしめく草原や、ネムノキがまばらに生える林を抜ける。今、ピュシス内は夜。ネムノキはその名の由来通り、小さな葉がオジギソウのように閉じて垂れ下がり、まるで眠っているようだった。
乾いた大地を走り続け、ダチョウたちは目的地へと辿りついた。月が天頂から僅かに傾き、地平を目指している。雑草がほんの少し避けて作られた天然の小道。その途中が無造作に拠点として設定されている。土の上には足跡はなく、匂いも付着していない。まだこの拠点を通った敵はいない。
ダチョウはふっさりと生えた睫毛を瞬かせ、その脳よりも大きな眼球をぐりぐりと動かして敵の姿を探す。オポッサムはダチョウの首に巻きつけた尻尾を少し緩めて、その背後と上空を中心に目、鼻、耳の感覚を研ぎ澄ませた。
空を何かが横切った。豪華絢爛な宝石のような鳥が滑空するように翔けていく。その姿はまるで流れ星のようだった。
オポッサムはしばし見惚れて、それがクジャクだと気がついた。クジャクにはあのような飛翔力はない。ニワトリのようにバサバサと羽ばたくが、扇のように広げられる大きな飾り羽が邪魔になるので長い距離は飛べないはず。美しいが、異様な光景だった。
今度は前方から水が流れてくる音がした。サバンナには数える程しか水場は存在しない。しかも流れを持つ川ともなれば、なおさらに少なかった。この辺りに水場が存在しないことをオポッサムはよく知っている。
しかし、水音は激しさを増していく。水気を帯びた風や、それに乗って流れてくる水の匂いが、その存在が明らかであることを伝えてくる。ダチョウが不審な水音がする方向へと、迷うことなく近づいていく。オポッサムもそれを確かめておくことに異存はなかった。
丈の高い草の草原。草が押し倒され、踏み荒らされる音が聞こえる。草原が途切れ、砂地へと切り替わる場所に、敵が姿を現した。噴出するような飛沫に包まれて、巨大すぎる動物が水の奔流に乗ってやってくる。その怖ろしい大口は大型動物であってもひと呑みにできそうなほどだった。口内にぎっしりと詰め込まれた牙と、その背を覆う尖った硬質の鱗は、全身が盾であり矛でもある強大な戦闘能力を備えた動物であることを示していた。
見るからに超重量の体を左右に揺らし、うねるように水かきのある短い四肢をずんずんとくり出す。イリエワニ。トラの群れの副長。その体が触れた大地からは水が湧き出し、溢れ、水にとろけて沈み込んだ大地に大河が形成され、ライオンの縄張りを水の流れでもって切り裂いている。イリエワニは鰐が神格化された水神、金毘羅の力を行使し、無限の水の加護を得ていた。その歩みは早くはないが、決して止まることを知らない。
「神聖スキルだ」
驚愕しながらオポッサムが言ったが、ダチョウの耳には届かなかったようだった。あまりの迫力に圧倒されたのか、ぽかんとしてしまっている。まだかなりの距離があるが、イリエワニは確実にオポッサムたちがいる拠点へと向かっていた。
「一度戻って、ブチハイエナさんに報告しよう」
オポッサムの提案とは反対に、ダチョウは水の流れの方へとふらふらと歩く。オポッサムはダチョウの首に巻き付けた尻尾をぎゅっと締めつけて注意を引こうとするが、振り返りもしない。その様子は平常ではなかった。憑りつかれたように、イリエワニが作り出す水辺へと向かって、ダチョウは足を早めはじめた。
「美しい……」
ダチョウのスピーカーからぽつりと言葉が漏れたが、オポッサムにはその意味は分からない。ダチョウは、動物全体でも特に視力に優れる猛禽類をも超える視力を持っており、その瞳で何かを捉えているらしかった。オポッサムが尻尾の手綱で必死にダチョウを誘導しようとするが、そんな努力は無駄に終わる。
水の香りが強まってきた。イリエワニがあんぐりと大口を開けて、誘うようにその牙を煌めかせる。何度でも生え変わって鋭さを保っているというその牙は、凄まじい顎の力で獲物を串刺しにする。ワニの噛む力は全動物でトップ。そんなワニのなかでも最強の咬合力を持つイリエワニの顎に捉えられれば、どんな動物であっても一撃で体力がゼロになってしまうことは明らかだった。奇跡的に牙に耐えられたとしても、ワニは獲物を咥えたまま体ごと回転して、肉を引き千切るデスロールと呼ばれる強力な技も持っている。
イリエワニの口は冥府へ続く暗いトンネルとまるで変らない。ダチョウは自らをその穴のなかへと投じようとしている。あと数十歩。けれどダチョウの俊足であれば、ほんの一瞬。オポッサムは、前傾姿勢で速度を上げるダチョウの首に引っ張られて体が浮き上がってしまいそうになりながら、翼に掴まることでなんとか堪えていた。ダチョウの背に前後逆に乗っかるような恰好のオポッサムは、目の前で揺れる大きなコブのような尾羽から視線を外し、体ごと首を捻じ曲げて前方を確認すべく振り返る。
距離が縮まったことで、オポッサムにもダチョウが見ていたものが分かった。しかしすぐに目を逸らす。それを見た瞬間に肉体に異常を感じたのだ。惹きつけられるように動き出そうとした。
イリエワニが作る大河の水辺に咲く色鮮やかな花。黄色いスイセンの植物族。水の流れに球根を乗せて、イリエワニと共に進攻してきている。
スイセンもまた神聖スキルを使っているに違いない。オポッサムは先程、自分の身に感じた異常から、ダチョウはスイレンを見続けていることで肉体の操作が利かなくなっているのだと判断した。
「目をつぶって! 見ちゃダメだよ!」
オポッサムは叫んだが、ダチョウはスイセンの元へ馳せ参じ、自らイリエワニの胃の腑に収まる未来から逃れようとはしない。小さな手で背中を叩いたり、翼に噛みついたりするが効果はない。オポッサムは、ふん、と小さな体に力を込めると、ダチョウの首を駆け上り、その目に覆いかぶさった。そうするとダチョウの足がやっと止まる。
「まわれ右!」
ダチョウは、オポッサムの言う通りに体を反転させる。
「走って!」
走り出す。オポッサムは尻尾で作った輪っかをダチョウの首にかけて、首を滑り台のようにして背中にするりと飛び降りた。
水の香りと共にイリエワニの気配が急速に遠退いていく。ダチョウの走力をもってすれば、危険な領域からはすぐに脱することができた。スイレンを見てしまわないように、振り返らずに本拠地への道を急ぐ。
一刻も早くこの恐るべき敵の情報を持ち帰らなければならなかった。
ネムノキの林まで戻ってきた時、梢のなかから影が跳び出して、ダチョウの顔を覆った。驚きで急ブレーキを踏み、ダチョウはくぐもった悲鳴を上げながら、大きな翼をばたつかせる。
尻尾をダチョウの首に引っかけていたおかげで落下を免れたオポッサムが見上げると、ダチョウの頭には茶色い毛皮の布袋のようなものが覆いかぶさっていた。
妖怪だ、とオポッサムにはすぐに分かった。化け狸である自分と同じ、妖怪と呼ばれる怪異。野衾。ムササビのような姿をして、空を飛んで人の目や口を覆い、生き血を吸うのだという。野衾はダチョウの首の後ろ辺りに噛みついており、実際に生き血を啜っているかのように体力を奪い続けていた
オポッサムはスイレンの時と同じように、ダチョウの首をよじ登る。ダチョウの頭にすっぽりと被さった野衾に対して牙による攻撃を試みる。がぶり、と噛みつくと、ぶるり、と野衾は震え、顔を持ち上げた。そうして不快感を露わにして牙を剥き出すと、禍々しい妖の瞳でオポッサムを睨みつけた。
瞬時、オポッサムは怯んでしまった。心が怖気づき、牙に力がこもらない。その隙を見逃さず、野衾は棒のような尻尾を振って、オポッサムを叩き落とした。
「……あれっ? 死んだの?」
野衾が首を傾げる。オポッサムはダチョウの背中にぽとりと落ちて動かない。
「あっはははは。こんな弱い動物はじめて見た! おもしろーい!」
嘲弄の高笑いが響くなか、ダチョウが闇雲に暴れだす。辺りに生えるネムノキに何度も衝突するが、それでも野衾は剥がれない。
「はしれ、はしれー!」
再びダチョウに噛みつき、野衾がスピーカーで煽りたてる。その声は頭全体を覆われたダチョウには届かなかったが、それでも野衾は楽し気に喋りつづけた。
「いけ、いけ! もうちょっと頑張れば、牙が外れるかもー?」
オポッサムはダチョウ背中から振り落とされて、置物のように地面の上に倒れ伏す。すぐ傍をダチョウに踏み荒らされても、ピクリとも動かない。そして死臭すら漂わせていた。野衾は、そんなオポッサムのことなどもう忘れてしまったかのようにダチョウの相手に夢中になっている。
「おおっ。すごーい。出口についたじゃん」
ダチョウは恐慌をきたしながらもネムノキの林から脱出する。そして猛然と走り出した。
「どこまでいけるかなー。あっはははは!」
野衾の笑い声が十分に遠のいたことを確認して、オポッサムはむくりと体を起き上がらせた。ピュシスで培った擬死の技。狸寝入り。土にまみれた体を見降ろす。オポッサムの耳の奥では、野衾の嘲りの笑いが何度もこだましていた。
何か考えがあったわけではない。ただ怖くて、反射的に死んだふりをしたのだ。情けない。情けなくて、涙が出そうだった。きっと現実世界の自分の頬は濡れて、アイメイクがどろどろと溶けて、青黒い川になってしまっているに違いなかった。
虚脱し、風に吹かれて倒れる。
現実世界では生きているふりをして、仮想世界では死んだふりをしている。そんなどうしようもない自分が、嫌で、嫌で、堪らなかった。
今は自分でいたくない。今の自分は、自分じゃない、自分。そう。そうだ。ぼくは、私は、ライオン。ライオンのように考えて、ライオンのように生きよう。ピュシスでも生きているふりをするんだ。それでいい。それでいいんだ。それが私なのだから。こんな私だから、きっとピュシスは、タヌキの肉体にして、化ける能力を与えたんだ。
ネムノキの葉が眠りから覚めようとするように、風に吹かれてちらちらと揺れ動いた。緑の香りが雪のように舞い、オポッサムが倒れる地面の上にほんのりと降り積もっていく。オポッサムは立ち上がった。そうして幾分か薄くなった夜の闇に溶けてしまったダチョウを探そうかと一歩踏み出したが、すぐに思い返す。
適切な判断を。ライオンのように。オポッサムは本拠地へと情報を持ち帰るべく、下草に身を隠しながら駆けはじめた。