●ぽんぽこ12-51 命のバトン
サバンナの本拠地にて、ゴール周りを固めていた者たちは、何者かの攻撃で宙を舞ったライオンの姿に、驚愕と共に目を見張っていた。
油断があったとしても、ライオンの吹き飛ばされ方は尋常ではなかった。よほど強力な動物による攻撃、例えばゾウの鼻に投げ飛ばされたり、キリンに蹴られるだとか、サイに激突されるといったぐらいでければこんなことにはならない。しかし遠目に確認できる相手の姿はハイエナに似た中型動物。なら、神聖スキルを使われたのか。と、それぞれが同様の結論に達しようとしていたとき、キリンの背丈よりも太いバオバブの巨木の影から、ブチハイエナが滑り出て、影よりも暗い獣となって走り出していた。
「アニキ。大丈夫か?」
目尻が低いしょぼくれた表情を弱々しく湿らせて、アードウルフが真っ黒な鼻先で、倒れているイボイノシシの体をつついた。
「戻ってきたのか」
激しい戦に疲弊して、途中で逃げ去ったはずのアードウルフは、枯れ色の草原を背負って、夕にさしかかる陽を浴びると、泣き笑いのような鳴き声を上げた。
「だって。やっぱりアニキのことが心配になって……」
「心配されるほど俺はやわじゃないぞ」
立ち上がろうとしたイボイノシシは、糸のほつれた人形のようにふらついてしまう。倒れそうになった体をアードウルフが支えようとしたが、逆に押しつぶされかける。イボイノシシに比べてアードウルフは二回りほど小さな肉体。体重となると十分の一ぐらいという軽量。それでも、体を斜めにして、力いっぱい四肢を伸ばして、イボイノシシを立ち上がらせると、アードウルフはライオンが飛んでいった草むらのあたりに目を向けた。
「おれにこんな力があったなんて……」
不思議でしょうがないという顔。
イボイノシシと別れたあと、一時の気の迷いが晴れて、結局は引き返してきた。足跡をたどって追いつくと、ちょうどイボイノシシがライオンに襲われているという場面。兄貴分を助けることで頭がいっぱいになり、力いっぱい、無我夢中でぶつかっていくと、ライオンはなぜかすっとんでいった。
こんなことになるなんて思ってもいなかった。いや、自分のタックルでライオンを吹き飛ばしたというのは都合のいい勘違いかもしれない。あまりにも手ごたえが軽すぎた。そうだ。きっと、接触する前に、相手が後ろ跳びでもしたのだ。
「はやく逃げよう」
いまさらになって王者に牙を剥いたという事実におののくアードウルフが踵を返そうとする。
「逃げる? なんのためにきたんだ貴様は」
イボイノシシの鋭い叱咤。アードウルフは目をぱちくりとさせて、
「ああ、そっか。ゴールに……」岩場の上の光柱のグラフィックに目を向けて「でもあれは無理だ。キリンに、リカオンに、あんなでっかいバオバブの木が……」
言いさした言葉は風の音に呑み込まれて、静寂だけが残された。突如、吹き荒れた一陣の黒い旋風はアードウルフを連れ去り、肉が弾けるような音の尾を引きずって、草原をこすり上げるようにして停止した。
闇を塗り固めたような大獣は、剛毛に包まれた肉体で刻んだ乱雑な獣道の先で、絶命しているアードウルフから牙を離して吐き捨てる。
「シマハイエナかと思えば、アードウルフとはね」
禍々しい獣の姿に、イボイノシシはたてがみを逆立たせながら、
「ブチハイエナか」
ブチハイエナがスキルを使って変貌したジェヴォーダンの獣の姿。ウシほどもある大きな体。棘ばった暗い剛毛。オオカミのような精悍な顔つき。裂けた口にはアードウルフを仕留めた凶悪な牙が並び、赤が強まりはじめた陽の光を受けて、血で濡れたように輝いている。
「タヌキをあんまりいじめるんじゃないぞ」
牽制のひと言。けれど、ブチハイエナはたじろぐこともなく、
「おや。話してしまったんですか? まあ、あなたなら言いふらしたりはしないでしょうが」
「しないさ。だが……」
と、割って入るように「敵性NPC!」というキリンの警告。
草原に紛れた銀色の肉体が見えたかと思えば、それはカモシカのように加速。一気に距離を詰めてくる。瞬時の判断でブチハイエナはオートマタのほうへ、イボイノシシは傷んだ足を引きずって、ライオンが沈んでいる茂みに急ぐ。本拠地にいた者たちも、動きがないライオンのことを心配して、駆けつけようと走り出した。フェネックはゴール地点に残り、オートマタと戦えるぐらいの能力があるキリンを筆頭に、リカオンと紀州犬が続く。
ジェヴォーダンの獣の凶悪な肉体が躍動。鋭い鉤爪が地面をえぐって、寸断した土をはね飛ばしていく。
接敵。敵は突進と共に銀色の拳を真っすぐに突き出してきた。ジェヴォーダンの獣は咄嗟に伏せてそれを回避。硬い背中の毛衣の上を剃刀のような腕が横切る。オートマタは勢い込んで、そのまま前に倒れると、獣の背中にどっかりと覆いかぶさるような体勢になった。騎乗されるのを嫌った獣は、後肢で立ち上がるようにして上半身を跳ね上げる。すると、反動でオートマタは放り出されて、赤土が露出した地に転がった。
精妙な位置の変化がいらずらな判定を招いたのか、オートマタの標的が変更。立つと同時に別方向に走り出す。
向かってくるものと考えていたジェヴォーダンの獣は反転して追いかけようとしたが、一瞬の判断の遅れが亀裂のような距離の差を生み出していた。
双牙で草をかきわけるイボイノシシは、地面の上でもがくライオンを発見した。起き上がるのにかなり苦労しているようだ。イボイノシシの牙に刺された傷と、アードウルフの捨て身の突撃を受けたときに付与された骨折の状態異常により、肉体の操作に支障がでている。
イボイノシシが肩を貸そうとした瞬間、背後からは機械の腕が迫っていた。ライオンの瞳に反射する銀色に気がついたイボイノシシは、ふり向きざまになけなしの力をふり絞ってスキルを使う。エリュマントスの猪の神聖スキル。巨大な怪物イノシシの姿。オートマタの攻撃を、牙の切っ先で跳ね返す。体力が限界状況だとしても、ダメージを受けない限りは死にはしない。こうなれば敵に触れられないようにして戦うしかない。
「おい!」と、イボイノシシが背後のライオンに呼びかける。「貴様と一緒に戦ってやる。助けてやる。だからさっさと立ち上がれ」
返答を待つわずかな時間すらも、オートマタは与えてはくれない。這うように蠢いたかと思うと、曲芸めいた動作で立ち上がる。狙いはより的の大きな動物。倒れた姿勢のライオンのほうへ。エリュマントスの猪が巨大牙で横やりを入れる。伸ばされた銀色の腕を双牙で挟み込んでから、ひねりを加えてひき千切ろうと試みた。だが、オートマタは腰関節を回転させると、イノシシの牙を逆にからめとって、膝をばねにして投げ飛ばした。
ライオンはやっとのことで立ち上がる。生まれたばかりの幼獣のように不確かな足取り。
大イノシシの肉体が地に叩きつけられ、毬のように跳ねると、ライオンの顔におおいかぶさるようにして動きをとめた。
「……」
イボイノシシのスピーカーから不協和音がか細く流れ、その肉体は枯れ木の樹皮が剥がれ落ちるようにしてぽろぽろと砕けはじめる。舞い散っていく光の粒のグラフィックを、猫じゃらしを追うネコのように捕まえようとしたライオンだったが、もはやコリジョンの失われたエフェクトのみの存在は、暮れゆく空に溶けるように消えていってしまった。
「ああ……」
獣じみた嗚咽。いつかもこんなことがあったはず。私をかばって消滅したライオン。それよりも前。父の背中を思い出した。銃弾を受けて傷にまみれた父の背中。むせかえるような血のにおい。幻の感覚。
私の命は誰かの命。命を掠め盗る不浄なる存在。
イノシシを屠ったオートマタの攻撃は勢いのままにライオンへと向けられる。閃く銀を、黒い旋風が削り取った。追いついたジェヴォーダンの獣が、背後からとびかかってオートマタを引き倒したのだ。やっと到着したキリンが倒れた金属の体を強力無比な蹄で踏みつける。両側から紀州犬とリカオンが加勢して、四頭がかりで敵を完全に破壊していった。ひと足遅れでやってきたオオカワウソは銀色の残骸を冷たい眼差しで見つめる。
風雲急を告げた緊急事態も一旦は落ち着きの気配。しんとした空白に、木枯らしのような泣き声。
本当に風でも吹いてきたのかと、遠くを見つめたキリンは、足元に視線を落として、泣きじゃくるように震えているライオンに、言いようもない感情を抱いた。
「また、殺しちゃった……」
およそライオンの言葉とは思えない儚い響き。リカオンは暗い表情で、破り捨てられた旗のように広がるたてがみに寄りそう。紀州犬はライオンの急激な変化に驚き、わけも分からず後ずさった。ブチハイエナはスキルを解いてオオカワウソに視線を投げかける。複雑な胸中を隠し切れずに、顔からこぼれ落としていたオオカワウソは、ライオンとブチハイエナのあいだで視線を躍らせた。
「どうしたの?」
キリンが首をもたげてライオンの背中を長い舌でべろりとなでる。
「ねえ? どうしたの、ライオン?」
「……違うんです」
「なにが違うの?」キリンがやさしくたずねる。
ライオンの姿が一瞬、風船のように膨らんだかと思えば、そのまま弾けて、ポンッ、と白煙となってかき消えてしまった。
夕暮れ時を告げる風と共に白煙は流れ、漂い、散る。
獣の王者がいたはずの場所には丸々とした動物がふわり。つぶらな瞳の周辺の毛は泣きはらしたように黒ずんでいる。
「ぼくは、タヌキなんです」
キリンは目玉を落っことしそうになりながら、痛々しい戦いの痕が刻まれた小さな獣の姿を眺めた。紀州犬も似たような顔。リカオンは自らの想定が未熟であったことを反省し、きまりが悪そうに鼻を低く鳴らした。
そして、タヌキの告白の渦中の外では、オオカワウソが誰にも気づかれないように草の陰へと飛び込んで、音もなくひた走っていた。