●ぽんぽこ12-43 冥界の泉で
ヘラジカとイリエワニ、エイクスュルニルとアメミットが、底知れぬ深さを持つ泉に沈みゆこうとしていた。
世界樹に棲む鹿、エイクスュルニルの枝角からこぼれ落ち続ける雫によって生成された冥界の泉、フヴェルゲルミルがふたりの肉体を引きずり込んでいく。
アメミットの顔に張りついて、その目隠しをしていたムササビの四肢が剥がれ、水面へと浮かんでいった。
梧鼠之技という言葉があるように、梧鼠、すなわちムササビは中途半端ながらも泳ぐことができる。なんとか息ができるところまでたどりつけたムササビを見上げながらイリエワニは、ああよかった、と揺らぐ太陽を透かし見た。
アメミットのライオンのたてがみが優雅な演舞のように水中に広がる。カバの足は水底につくこともなく沈み続けている。
そして、ワニの大口は、スポンジのように水を吐き出すエイクスュルニルの巨大な角を齧って捕まえていた。万力のような咬合力で角はなかば折れ、砕けかけてはいるが、狂気状態のワニの顎はそれを粉々にするまでは離すまいというように、全力でもって締めつけ続けていた。
口をあけっぱなしだが、息は大丈夫だ。ワニは獲物を咥えたまま水に潜ったときに、口から水が流れ込まないように舌で蓋ができる。耳や、鼻の穴もいまは同じく閉じている。狂気状態にあっても最低限の生命維持に関する動作は自動でおこなうらしい。現実の肉体が意識せずとも呼吸をして、心臓を動かしているのと同じだ。
敵のシカはもがいている。喉の奥からこぼれた泡が、細やかな粒となって透明な水のなかを上昇していく。しばらくすると、やがて溺れて体力が尽きた。
自らのスキルで生み出した泉での自滅。けれどヘラジカはこうなることが分かっていてなおスキルを使った。プライドがある。そして、負ければ権力が遠のく。勝つことができなくとも、負けないことはできる。相打ち。こうすればアメミットも遠からず溺れると確信していた。
ワニは水棲生物ではあるが、魚とは違う。エラ呼吸ではなく肺呼吸。ずっと水のなかにいられるわけではない。
狂気状態によって操作がきかない。泳ごうとしているのか、ただジタバタとしているだけなのか判別できないような、めちゃくちゃな動き。そもそもアメミットの体では泳げないのも当然だ。ワニなのは頭だけ。ライオンは水を嫌う。カバは水辺に棲むが泳げない。
肉体の操作はできなくとも、スキルの切り替えはできる。アメミットのスキルを解いて元のイリエワニの姿に戻る。体の浮力が変わったことで、沈む速度はゆるまったように感じるが、事態は改善せず。
――オートマタはいまどこだろう。
あれだけ戦ったが一体も倒せなかった。考えなしに暴れただけなら、まあこんなものか。表面を牙でぼこぼこにして、腕や足の何本かは故障させてやったが、機能停止までは至っていない。
ユキヒョウにスキルを使われたときは、もうだめかと思った。忘れていたわけではないが、トラの群れで一緒に戦ったのもだいぶ前のことであるし、あのスキルのことは頭からすっぽ抜けていた。ということはやっぱり忘れていたということになるか。
やることがなくなって、メニュー画面をぼんやり眺めていたら、使えるスキルが増えていた。深く考えずに使ってみると、頭はワニ、上半身はライオン、下半身はカバのアメミットの姿に。オートマタにやられずにはすんだが、結局のところスキルコストで激しく命力を消費する結果になっている。このまま体力が尽きれば、死亡時に削られる命力でちょうどゼロになりそうな具合。
そう時間もかからず、ヘラジカと同様に溺れ死にしそうだ。
消滅するともうこのゲームにログインできなくなると聞く。
優勝したかった。
オートマタの乱入がなければ、と思うが、そもそもこいつらの大量発生がなければ、ピュシスの最深層やゲームクリア特典のことを聞くこともなかっただろう。
叶えたかった願いがあった。
ありきたりなことだ。
長らく入院している弟の、トセェッドの病気が治ればいいなと思ったのだ。弟の体には毒が溜まり続けるのだとヨキネツ医師は言っていた。自分にできることはない。けれどなにかしてやりたくて、最深層にいけば願い事が叶うなどというトラのピュシス会議での話を信じたくなったのだ。
みんなオートマタの大量発生で困っていて、それをなんとかしよう、というのが第一目標。それを脇に置いた身勝手な行動原理だったことに関しては、罪悪感が湧き上がる。自分は群れの長なのに、仲間たちのことよりも、自分のことを優先していた。そのばちがあたったのかもしれない。
――消滅すると、もうみんなと会えなくなるんだな。
真っ先に思い浮かんだのは、弟のことよりもそんなことだった。オンラインゲームの宿命。このゲームだと特に、みんな現実世界での素性など話したりしないし、知らないままだ。寂しいし、悲しいことだ。こんなトーナメントに、参加したのが間違いだったんだろうか……。
心の力が抜ける。沈んでいく。
――あれ?
肉体からも力が抜けている。
動かしてみると、イリエワニの四肢や尻尾が水をかき混ぜはじめた。
いつの間にか、狂気状態が消えている。
肉体を操作できる。
まだ息は足りている。井戸の底から見上げるように、水面が輝いて見えた。
全力で、光を目指す。尻尾をふって、前へと進んでいく。
体が自然と浮きあがっていった。
窒息寸前だが、苦しくはない。このゲームには苦痛の感覚は設定されていない。
けれど圧迫感はある。押しつぶされそうな胸を抱えて、上へ、前へ。
鼻先が泉からとび出た。おおきく息を吸い込む。けれど本当に息をしているわけではない。仮想世界にあるのは偽装感覚だけだ。それでも、精いっぱいに空気を吸い込むと、だいぶん気分がよくなってきた。
ヘラジカが死んだからか、スキルによってつくられた泉が急速に消えていく。
遠くでだれかの哄笑が聞こえてきた。けれど一瞬で、ふっ、と途絶えてしまう。
いまはどういう戦況なんだ? 敵性NPCはどこにいった?
首をふる。そして、なんの気なしに笑い声がした方向に顔を向けると、目が合ってしまった。
目、というよりセンサーだ。
オートマタたちはいまだ四体。損傷して動きが鈍くなっているものの、まだ稼働している。
――またかよ!
終わらないくり返しだ。しかも今度こそたったひとりで戦わなければならない。さらにはスキルを発動させるのも心もとない命力残量。
――逃げる?
しかし、陸上でのワニの走力などたかがしれている。到底、逃げ切ることはできないだろう。
――ゴールだ。ゴールしないと。
光柱のエフェクトを探す。緑が濃い。狂気状態でうろつかされていたので、いまがどこなのだか分からない。本拠地からそれほど離れてはいないはずなのだが。
森の天井を突き抜けた先に、ヒントが見いだせないかと思ったが、燦燦と照りつける太陽に瞬膜を焦がされて、あわてて目を閉じる。
まぶたの裏の残像をふり払いながら、敵が接近する振動を体全体で感じ取る。
オートマタの足取りは破損が影響しているのかやや歪。転びかけているやつもいる。そんな状態でも油断はできない。まだ戦闘能力は失われていないはずだ。今回の試合で一生分、オートマタと戦った気分だった。やつらのしぶとさは骨身にしみている。
イリエワニは兎にも角にも走り出した。
すこしでも遠くへ。
密集した樹々の根っこを踏んで、水かきで蹴る。
でも、やっぱりだめだった。
金属の足音のほうが早い。
追いつかれる。
小突かれれば死ぬ体力だ。詰んでいる。この状況。
一か八かで攻撃するか?
ばらついた足並みからとび出した先頭の一体目が背後からくる。
イリエワニは尻尾をぶん回して、かろうじてそいつをはね飛ばしながらふり返った。
もう二体。その後ろにさらにもう一体。はじいた一体も起き上がってくる気配。どうにもならない。それでもせめて最後まで戦おうと、イリエワニが闘争心をむき出しにしたときであった。
通知。
――なんだ?
戦が終了したと通知されている。まだ太陽は高くにある。終了予定時刻の夕刻はまだ。つまり、だれかが、ゴールしたのだ。
群れ戦の終了処理が開始される。
――勝った?
疑問ごと、イリエワニの肉体は中立地帯に転送されていった。