●ぽんぽこ12-37 ぬめぬめドラゴン
ヤブイヌは密林の藪のなかに身を潜め、バーゲストのスキルで闇色の霧をまといながら、ゴール付近の様子を慎重にうかがっていた。
運よく不意をつけたおかげで、あっさりとグリーンイグアナを倒せた。ゴールの手前にはトムソンガゼル。そのそばに生える樹木の上にユキヒョウ。強い風を吹かせてきたのはユキヒョウのスキル。付近の樹木には植物族が混ざっている気配があるが、密林ゆえに緑の密度が濃くて、どれがそうだかは把握できない。
敵はそのトムソンガゼルと、ユキヒョウと、なにかの植物族。それからあともうひとり。
そのひとりだけが、こちらに向かってきている。
信じられないぐらい大きなカタツムリ。人間の手のひらぐらいの図体をしたアフリカマイマイ。カタツムリとしては最大サイズの種。
ヤブイヌははじめて見るカタツムリに思わず視線が釘付けになる。軟体動物というやつだ。イカ、タコ、ウミウシ、貝類などの軟体動物は基本的には海に生息するもの。海のないピュシスというゲームにおいては海生生物は存在しないのだが、カタツムリは軟体動物のなかでも数少ない陸生の生物。
動物ではあるのだが、毛衣や羽衣、がっしりとした皮膚を持つ別の動物たちと比べると、その肉体は異質。観察していたヤブイヌは尻尾の毛をゾッとさせる。
カタツムリは腹足類。陸貝の一種。ナメクジのような体に巻貝を背負っている。アフリカマイマイの背負っている巻貝は、アンモナイトのような平たい楕円形ではなく、タニシのようなとがった三角錐の形。体も大きいが、背負っている貝殻はさらに大きい。
トムソンガゼルとユキヒョウはゴールのそばから動かない。ゴールを守るのに専念するらしい。アフリカマイマイだけが、ぬるり、ぬるり、とヤブイヌの元へと、地面をねっとり這い寄って、距離を縮めてきていた。
どう攻めようか。ヤブイヌは頭を悩ませる
縄張りの反対側からはイリエワニのパーティがゴールを目指しているはず。そろそろ到着してもいい頃合。味方を待つのもひとつの手ではある。しかし、いまゴール付近の手勢はすくなく、守りは薄い。オートマタの乱入に対応するために出払っているのだろう。悠長に待っているあいだに、出払っている敵が戻ってくるかもしれない。そうなる前に、一気に攻め込んだほうがいいのではないだろうか。明らかにいまがチャンスなのだから。
マイマイが近づいてくる。カタツムリは蝸牛とも言うが、牛歩よりも遅いアフリカマイマイの歩み。小型のカタツムリよりは早い動きだが、イヌの身からすれば五十歩百歩に感じる。
不自然なぐらいアフリカマイマイは、ひとりこの場の防衛体制から浮いている。これを放置するのは気分的にいやな感じがする。まずはこれを取り払っておくべきか。
ヤブイヌはバーゲストの肉体を震わせる。赤い瞳の黒イヌ。頭には二本の角。
闇の霧を、ふわり、と、まとって、バーゲストは風よけになる樹の幹の陰に入ることを意識しながら、マイマイの側面へと回り込んでいく。
鈍重すぎる動きは殺してくれと言っているようにしか見えない。トムソンガゼルとユキヒョウが加勢してくる様子はない。
地球ではカタツムリは寄生虫を媒介していて、触れるのも好ましくない不潔な存在だったようだが、ゲーム内ではさすがにそこまで再現されていない。噛んでも、踏んでも、引き裂いても、状態異常になることはない。心ゆくまで、躊躇なく攻めることができる。
アフリカマイマイは触角を伸ばして、進路を探るように動かしている。カタツムリの頭には上部と下部に一対ずつ、計四本の触角がある。上の長い二つが大触角。下の短い二つが小触角。小触角のあいだのすこし下には口があり、他の動物でいう歯の代わりに、歯舌という舌状のやすりのような器官を持っている。
大触角は単に角などとも呼ばれるが、先っぽには目がついているので、これは飛び出ている目であり、明るさを感じ取っている。さらには味を感じる機能もあるので舌でもある。においを感じる機能もあるので鼻でもある。触れて付近を探るのにもつかうので手でもある。目、舌、鼻、手が合わさったハイブリッド器官。それがカタツムリの触角なのだ。小触角には目はついていないが、それ以外の機能は共通している。
そんな触角の死角をついて、バーゲストは側面の藪から飛び出した。
バーゲストの周囲に凝る霧が、ずずずっ、とマイマイの体全体を呑み込む。霧のなかで双子星のように輝く赤い瞳が急速に接近。闇から鋭い角が突き出される。狙うのは貝殻に守られていない、ぬめぬめした生身の体。
角が刺さる、というそのとき、アフリカマイマイは予想外の動作をした。
触角ではない”腕”をふり上げたのだ。
爬虫類めいたその腕には、ごつごつとした爪が備わっていた。
カタツムリの腕がバーゲストの角を掴もうと伸ばされた。そうして上体が持ち上がって見えたカタツムリの口には歯舌ではない牙が覗いている。
バーゲストは急停止からのバック走で回避。なにか仕掛けてくることは読んでいた。いまの攻撃は相手にカードを切らせるためのフェイント。思った通りだった。いくらトムソンガゼルやユキヒョウがゴール付近を警戒して、離れられないといっても、わざわざ勝算ゼロの勝負を仕向けるはずがない。勝算があるのだ。つまり相手はこちらに対抗できるような神聖スキルを持っているということ。
しかし、これはちょっと予想外。ピュシスでは希少な軟体動物のカタツムリというだけで、かなり異質な肉体は、さらに輪をかけて奇妙な姿になっていた。
体は二回りほどおおきくなり、バーゲストと同じぐらいの体格に。小触角の下あたりが突き出して、トカゲに似た顔つき。開かれた口のなかにはぎざぎざした牙。下半身は殻のなかにおさまっている。
まるでドラゴン。カタツムリの触角と殻を持ち、全身がぬめぬめしているドラゴンだ。それはル・カルコルという怪物。世にも奇妙なカタツムリ竜の姿だった。
見通しの悪い霧のなか、粘ついた体液をまき散らしながら、ル・カルコルは匍匐前進の動作でもって地面の上を進みだした。目指すはバーゲストの瞳の赤い輝き。
バック走をしていたバーゲストは突如前進すると、カタツムリ竜の背後に回り込んでいく。相手は腕を得たことで、以前より動きが早くなったものの、まだイヌのほうが小回りがきく。敵が霧のなかにいるうちに、接近戦で仕留めてしまうことにする。
カタツムリ竜の腕が赤い瞳に伸ばされるが、黒イヌの輪郭を捉えることはできない。霧は陽を通さない闇に沈んでいる。霧の内側だけは真夜中。敵を探る頼りになるとすれば、黒イヌの足音や息づかいを探る耳。けれどカタツムリに耳はない。触角の役割は、視覚、味覚、嗅覚、触覚の四つがあるが、聴覚だけは存在しない。
赤い瞳は見えども、角の切っ先、爪のありか、牙の方向は見えず、黒イヌの全身は闇に溶けて、攻撃を察知することは困難。一方バーゲストのほうからは、赤い瞳でもって霧のなかにいる相手の姿、そのしぐさが手に取るように分かっていた。
警報ランプのような赤い光は流星のように移動して、ぬめりのある肌に角を突き立てようとする。ル・カルコルは黒イヌの動きに対応できず、その正確な位置を見失っていた。
今度こそ角が刺さる。かと、思われたが、それは硬い殻に弾かれた。カタツムリの防御形態。殻のなかに逃げ込んで、カメのように守りを固めた。即座にバーゲストはねじれた角を地面に向ける。土に刺した角を持ち上げ、てこの原理で貝殻をひっくり返そうという狙い。この判断の速さに、敵も負けてはいなかった。黒イヌがやろうとしていることを感じ取るやいなや、殻のなかから腕を伸ばしてきた。
バーゲストの右前足が、ル・カルコルの左腕に押さえつけられそうになる。バーゲストは右前足を引いて回避。今度は左前足が、ル・カルコルの右腕に押さえつけられそうになる。左足も引いて、体ごと後ろに。
カタツムリ竜の腕が、手探りするように霧をなでる。目隠し鬼がするように、けれど手の鳴る方へと誘う声はなく、むやみやたらと腕がふり回される。
当たればラッキーの運任せな索敵方法。腕はただただ空を切る。バーゲストは敵の腕に触れないように間合いに注意して、再び攻撃を加えようとした。
すると、角が引っ張られた。バーゲストは驚く。敵の両腕は確実に避けている。樹の枝にでも引っかかったか、と思ったがそうではない。蔓のようなものが絡みついているのだ。しかもそれは、ぬめぬめとしていた。
ル・カルコルの手探り。二本の腕でだけでおこなうのなら、分の悪い運任せだったかもしれない。けれど、ル・カルコルの腕は二本だけではなかった。手の代わりになる触角が頭に四本も生えているのだ。その触角をも伸ばした六本腕でもって、周囲を探った結果、大触角の一本が、見事バーゲストの角を掴むことに成功していた。
角と触角での引っ張り合いがはじまる。
バーゲストは四肢で踏ん張って、ル・カルコルは両腕と腹足に力を込める。
カタツムリ竜のもう一本の大触角も、バーゲストの角に絡みついてきた。
黒イヌの足が地面を引きずられはじめる。力負けしている。イヌとドラゴン。となれば、カタツムリとはいえドラゴンのほうがパワーが強いのは自明の理。
組み合ってしまえば霧の目隠しなどなんの意味もなくなる。これから開始されようとしているのは、足を止めての殴り合い。スタンドアンドファイトだ。しかしボクシングだとすれば、体格こそ同じぐらいでもル・カルコルはどっしりとしたヘビー級、バーゲストはライト級といったところ。しかも腕の数で相手が大幅に上回っている。これでは勝負にならない。バーゲストの圧倒的不利。
カタツムリ竜は勢いよく黒イヌの体を引き寄せると、一気にノックアウトを狙って、いざインファイトを仕掛けようとした。
が、その瞬間、角を掴んでいたぬめりを帯びた触角が、すぽん、と、すっぽ抜けてしまったではないか。
すぐに六本腕で霧中を探る。付近に黒イヌはいない。体を回転させながら、がむしゃらに手を伸ばす。
いない。
いない。
黒イヌのねじれた硬い角も、ごわごわとした毛衣も、どこにもない。
カタツムリ竜の腕と触角がふれるのは、低木の枝葉や高木の幹だけ。
ル・カルコルは角が抜けたときの感触を思い出す。触角で角をぐるぐる巻きにしていたので、かなりしっかりとつかまえていた。いくら自分の触角がぬめぬめだったからといって、手を滑らせてしまうなんて初歩的なミスをしてしまうだろうか。
抜けたのではなく、角が縮んで消えていったような感触だった気がする。
考える。けれど分からない。頭のなかは取り囲む霧のように霞がかっている。
四方八方、夜闇と見まごう霧のなかで手を伸ばす。
そこには、あの赤い瞳の輝きすら、どこにもいなくなっていた。