●ぽんぽこ12-26 不和
明るい夜のようでもあり、暗い朝のようでもある冥界は、時間をやけに長く感じさせた。
「道はあってるのかな」
アナグマが言いながら、鼻先で草花をかきわけるように首をちいさく左右にふると、後ろの地中からミミズトカゲが鋭い口調で、
「ふり返るなよ。お前、御屋形様が背中に乗ってることを忘れてるんじゃないだろうな。お前がふり返ると、御屋形様が巻き添えになりかねないんだからな」
アナグマは首をすくめて、自分の額を見つめるみたいに寄り目になると、背中に乗せているエチゴモグラに、
「御屋形様。心配なら下ろしますけど、どうします?」
「いいや。大丈夫だ。助かっているよ」
「ほら」
と、アナグマが後ろ足で地面をトン、トンとたたく。
「なにが”ほら”なんだ」
「なにがってなんだよう。ぼく、いちおう副長なんですけど。えらいんですけど」
ミミズトカゲは、「はいはい。副長様」と、溜息混じりに言いながら、すこしだけ土の上に顔を出して、前方をいく尻尾に、退化した目を向けた。振動でその足取りを感じる。短い団子のようなけばだった尻尾が上下に左右にゆれて草をはじく音がする。
ミミズトカゲには、アナグマが妙に多弁な理由が分かっていた。
不安なのだ。
ハンノキの植物族との戦いで、恐怖にあれだけ鈍感なところを見せながら、不安には弱いらしい。
恐怖と不安は似て非なるもの。
恐怖の対象は有。だが、不安の対象は無。
恐怖には具体的な対象があるが。不安は漠然としていて対象をもたない。
ミミズトカゲの地上恐怖症の場合は、具体的に地上というものが怖い。広大な空間が怖いのだ。この感情は不安ではなく恐怖。それに対して不安とは、穴を掘った先にもしかしたら広大な空間があるかもしれないとか、もし突然に地震が起きて地上に放り出されたら、とかいった想像の産物。恐怖の対象に出会ってもいないのにもかかわらず、湧き上がって心をさいなむ感情のことだ。
ライオンが実際に目の前にいるか、ライオンに出会うかもしれないと思うか、という違い。
――想像力が豊かなんだろう。
ミミズトカゲはまるで逆。歴然とそこにある恐怖には弱いが、不安などという形のないものには強かった。理屈っぽいからかもしれない、と自己分析。世の中のなにもかもが物理現象として説明可能で、予測すれば不測はないと考えている。
お互いに図太いのだか、脆いのだか分からない。
「おれが前をいこうか? 先導するよ。いつもみたいに」
「そうだね。いつもみたいに、お願い」
「ああ」
地面の下を通って、アナグマの足元を潜り抜ける。土がかすかに動いて、細い道になって刻まれる。
「もしも」と、アナグマが言葉をこぼす。もしも、は仮定のはじまり。仮定は想像のはじまり。想像は不安を産む母だ。
「ギンドロの樹の並びがちょっとずつ横にずれてたらどうしよう。そういうこともできるよね。本当にまっすぐ歩けているのかな」
自分が歩んだ道を確かめるには、ふり向かなければならない。前に道はなく、足跡のみが獣道となって残されている。けれどこのエリュシオンからの帰り道で、ふり返ることは許されない。そういう効果のスキルなのだから。ふり返れば死体となってしまう。
「おれはギンドロの樹なんてたいして目印にしてない。自分の感覚を使ってまっすぐに進んでいるんだ。おれを信じろ」
「……分かった。でもさ」
ぐずる子供のようだと、ミミズトカゲは思う。
「樹の本数が多すぎない? 植物族って分身の肉体を何体まで増やせるんだっけ」
「それは種によってまちまちだろう」と、エチゴモグラ。「巨大な樹木は数本から十数本まで、ちいさな草花は何十本か、はたまた百ほどが許されているものもいるらしい」
そのすべてを倒さないと撃破できないのが植物族の厄介なところ。戦では、限界数が十本の植物族を一本倒した場合、限界数を九本に減らせる。これをゼロにすれば完全撃破。植物たちは残機を持っているも同然の状態。
攻撃できない壁役、もしくは補助役でしかない植物族は、それぐらいの優遇なければすぐに根絶させられる存在。だったのだが、最近では神聖スキルの実装によりその評価もすこしずつ変わりはじめている。
「もう百本ぐらい越えた気がするんだけど。ギンドロさんの樹高ってキリンさんの身長換算で五頭か六頭ぶんぐらいはあるよね。あれだけおおきくて百本も肉体を持てるってことはないんじゃない?」
「百本はおおげさだ。二、三十本か、そこらのはずだ」
「それでも多くない? マップを追加したとか言ってたっけ。ひとりのプレイヤーがマップを生成できること自体、性能としてはおかしいのに、ここは広すぎるよ。あれは嘘で、やっぱり幻覚系のスキルってことはないのかな」
「置かれているギンドロの樹は肉体ではなくオブジェクトだと思う。スキル演出の一部。飾りだ。それに、もし仮に幻覚だとしても、動かなければ脱出できない仕組みだと私は思う」
エチゴモグラがアナグマにゆっくりと自分の意見を話して聞かせる。
「でも、こっちが出口じゃない可能性はありますよね。敵にいいように踊らされているのかも」
不安が膨張しているのをミミズトカゲは感じる。ここには何もなさすぎる。あるのは花園だけ。からっぽの空。からっぽの地面。からっぽの風。からっぽのギンドロの樹。単調な歩みは思考を無に近づけて、無は不安を呼び起こす。
なんとかしなければならないとは思うが、どうすればいいのかは分からない。いまはただ信じて前に進むほか道はない。こうやって進むこと自体が、敵の指示であるということも、アナグマの心にかかる負荷になっていそうだった。
「私がふり向いてみようか?」
エチゴモグラの提案に「えっ」と、アナグマは言葉を失う。
「三人もいるんだ。ひとりぐらい欠けてもよかろう。私は背に乗せてもらっているだけだしな。不確定な要素がひとつでも確定すれば、安心して前に進めるだろう」
「それならぼくが……」
「ダメだ」と、地中からミミズトカゲ。「アナグマ。川があるならお前がいないと渡れないだろ」
「私もいちおう泳げるよ」と、エチゴモグラ。
「そうなのか? 地中住みなのに?」
「手が大きいからね。慣れてはないけど、そもそもモグラっていうのは水を泳げるものらしい」
「……そうかもしれないけど、話がややこしくなるから、ちょっと黙っててもらえます」
「うむ……」
エチゴモグラは、しゅん、とスピーカーを閉じる。
「とにかくだなアナグマ。お前がこのなかで一番足が早いし、スキル的にもごり押しとか、ごまかしがききやすいんだから、最後の詰めとしては残っとくべきだろ」
「……うん」
アナグマの首がうなだれて、鼻先がにおいもおぼろな草をこすった。
会話が途絶えてしばらくして、風のにおいがほのかに変わりはじめた。
花園が途切れ、ゆったりとした幅の広い川が流れている。
むくりと地中から体を滑り出したミミズトカゲを、アナグマは黙って咥えると、口にはミミズトカゲ、背中にはエチゴモグラを連れて、ばしゃばしゃと川を泳ぎはじめた。
「……これが御屋形様が話してたスティクスって川?」
「どうだろうなあ。スティクスは死者と生者の領域を分かつ川ではあるが、それがエリュシオンという冥界の一部に過ぎない場所にあるというのもなんとなく変なような気もする。まあそのあたりは、実際がどうかというより、ゲームとしての設定がどうかということになりそうだが」
「ふーん」
川の流れはそれほどでもない。特に苦労なく泳ぎ切ることができた。
ミミズトカゲを地面に下ろして、ぬれた毛衣をふるわせる。背中の上でエチゴモグラも同じようにして水をはらった。
すぐに地中に戻ったミミズトカゲは前に進みながら、あらためて、
「ふり返るなよ」
「分かってるってば」
川に目を向けそうになっていたアナグマは、つーん、と口を尖らせて、ミミズトカゲのあとを追う。
川を越えた場所にはまた花園。そこからは、もうギンドロの樹の目印がなくなっていた。
「方向はあってるのかな」
また、アナグマが不安をこぼす。
「おれのあとについてくれば間違いない」
アナグマは草花をかきわけ、地面を観察して、ミミズトカゲが残してくれているトンネルの跡を確認する。それは生者の領域から、死者の領域に垂らされた糸のように、まっすぐに伸びている。
三名は冥界の外に向かって移動し続ける。
地面は平坦なようでいて、上り坂のようにも、下り坂のようにも感じられた。
感覚がかき乱される。それに耐えて、進み続けた先で、外気のような生気のあるなにかが近づいてくる気配がした。
「見えてきた」
アナグマの声に、エチゴモグラはその背中から見えない目を正面に向けた。
ある一線を境界として、花園が途切れている。その向こう側は、元々いたはずの渓谷の風景に切り替わっていた。大地だけでなく、空もそこを境として、月も太陽も星もないようなのっぺりとしたものから、薄明がせまる夜空へと切り替わっていた。ふたつの異なる絵画を繋ぎ合わせたような光景。境界線の向こうとこちらで、まったく別の風景が広がっている。
結構な距離を移動していたはずだが、エリュシオンのマップに入れられてから、それほど時間は経っていないみたいだった。時間間隔が圧縮されていたようだ。
光の柱が立ち昇っていた。
「ゴールだよ!」
喜び勇んでアナグマが走る。ミミズトカゲを追い抜いて、たしかな命が芽吹いているその場所に向かって急いだ。
冥界と渓谷。二重になった映像を見ているような、不思議な光景。
すっかりゴールにのみ囚われて、心まで走り出しているアナグマに、エチゴモグラが背中から、
「敵がいる」
と、ささやいた。
境界の向こう側、渓谷の地で待っていたのはマンチニール。毒樹だ。伸びた枝に毒リンゴを実らせて、ぼんやりと梢をゆらして佇んでいる。
「よくここまできたね」
マンチニールが声を投げかけてくる。
「ふたり?」
「たったふたりで悪かったね」
「別に。ふたりもきたからびっくりしただけ。きてもひとりぐらいだと思ってた」
「ふり返らないだけなんだから。ぼくらを見くびりすぎじゃない?」
言いながら声のほうへと近づいていく。
「まあ、ひとりより、ふたりだからこそこれたってこともあるか」
だれに言うでもなく話しているマンチニールの樹が大きく見えてくる。
その根元がちょうど境界線。ゴールするにはマンチニールの木陰を越えなくてはならない。
エチゴモグラは手綱を握る騎手のようにアナグマの背中にまたがり、仲間を鼓舞して、強く進む力を与える。
とにかく冥界から脱出するのが先決。体力がゼロの状態から復帰して、スキルが使用可能になれば、目と鼻の先のゴールに飛び込むのはなんとかなるはず。
夜の木漏れ日が落ちた花園に踏み込む。マンチニールの木陰の先端に触れて、進み、アナグマが境界を越えようとしたそのとき、
「ごめん。ちょっとずるいけど」
と、言うマンチニールの枝には、黄金に輝く林檎のような果実が実っていた。
枝から果実が切り離される。
アナグマは果実を見上げた。
その果実から目が離せなかった。
風に放り投げられたかのように宙を舞って、放物線を描き、頭上を越えていく。
首が動く。目が見えないエチゴモグラですら、その林檎に顔を向けていた。
ふたりはそろって同じように頭をかたむけていく。
あらゆる感覚が、その林檎を求めていた。求めずにはいられなかった。
それは不和の林檎だった。
マンチニールが神聖スキルで生み出した林檎。不和と争いの女神エリスが、神の宴の席に投げ入れた黄金の林檎。その林檎にはメッセージが添えられていた。
――最も美しい女神に。
女神ヘラ、アテナ、アフロディテがこれを求め、大戦争の発端になったのだという。
その三女神と同じように、プレイヤーを誘引する効果が、その果実にはあった。
アナグマは意思の力で肉体を制御しようとした。けれどシステムによって定められた操作には決して抗えない。ふり返らずにはいられない。不和の林檎を視線が追う。
「わあああ……!」
アナグマは叫んだ。空気や、地面や、地中までふるわせるぐらいに。しかし、その声はいきなりぷっつりと途切れた。
渓谷の風が冥界に入って色を変える。
冥界の花の花びらが散って、渓谷に至ることなく、地に落ちた。
エリュシオンの縁には、物言わぬふたつの肉体が転がっていた。
アナグマとエチゴモグラ。禁忌を破った、というより破らされたふたりは、もはや正真正銘の死体となって、冥界の花園に沈んでいった。