●ぽんぽこ12-25 ふり返るべからず
ギンドロの道しるべをたよりに冥界エリュシオンを脱出しようとしている三名。
エチゴモグラ。アナグマ。ミミズトカゲ。
しばらくは地中を進んでいたエチゴモグラだったが、いまはアナグマの背中に乗せてもらって休憩している。ミミズトカゲも同じように運ぼうか、とアナグマは提案したが、こちらは頑として拒否されてしまった。
さいわいエリュシオンの土はやわらかかったので、ミミズトカゲはその浅瀬を軽快に掘り進んでいる。
とはいえ、歩くよりも遅いぐらいの速度。アナグマは仲間を置いていかないように注意しながら歩を進めていた。
「ぼくが全員運ぶほうが手っ取り早いのにさ」
「まあ慌てなくてもいいだろう。せいぜい相手を待たせてやろう」
と、エチゴモグラがなだめるようにアナグマの頭の毛をシャベルのような手でかきわけた。
「川があるなんて言われたら、置いていくわけにもいかないしさ」
「悪いとは思ってるよ」
アナグマの尻尾あたりの土のしたからミミズトカゲが言う。
「でも御屋形様が言うとおり、どっしり構えたほうがいいと思うぞ」
「自分で言うかなそれを。まあいいけどね」
結局、アナグマは、すっ、と矛をおさめた。
ギンドロのスキルでつくられたという冥界には、月も太陽もないので時間の経過がまるで分からないものの、最後にゴール付近で見たのは夜空。戦の終了時刻はあくる日の夕方。半日ほど先。時間の余裕がたっぷりあるのは事実。
ギンドロに指示された通りに、銀の葉と白の花を広げる樹の道しるべをたどっていく。
まっすぐに進めば出口。そこにはゴールもあるらしい。
そして指示はもうひとつ。
決して、ふり返るべからず。
冥界から脱出するまでのあいだに、もしふり返ってしまうと、死んでしまうのだという。
冥界のなかにいるプレイヤーは体力ゼロの死者同然、スキルも使えない状態。脱出すればそれらは復活するだろうというのがエチゴモグラの見解。そしてもし禁忌を破れば、通常の死亡処理と同じように、動けず、感覚も最低レベルに鈍い、死体状態にされるに違いない、ということ。
変化のないのどかな旅に緊張感がゆるんできて、眠くなりはじめたアナグマは、眠気覚ましに背中に乗せているエチゴモグラに話しかけた。
「御屋形様。ギンドロさんと話していた。オルなんとかがどうのこうのってなんなの?」
「ああ。それはな」と、エチゴモグラは退化した目をいくぶんかとろりとさせながら、老爺が孫に昔話を聞かせるように、データとして残されている神話の断片を語り出した。
「地球の神話によると、オルフェウスという吟遊詩人がいたんだ」
「吟遊詩人って?」
「ストリートミュージシャンだ。オルフェウスは竪琴の名手だった」
「ふうん」
「オルフェウスはエウリュディケというドリュアスと結婚したんだが……」
「植物族?」
「まあピュシスの設定の元になっているんだろうな。ドリアードとも言われる。木の精霊だ」
「へー。たしかに植物族のシステムって植物そのものって感じじゃないもんね。精霊っていうほうがぴったりな気がする」
「うん。それで、エウリディケは新婚早々、アリスタイオスという神様に追い回されてしまう。そうして逃げようとした挙句に、毒蛇に噛まれて死んでしまった」
「かわいそう」
「そうだな」と、エチゴモグラはアナグマの背中でうなずいて、「オルフェウスは嘆き悲しみ、ついには妻を冥界にまで迎えにいくことにした」
「それってアリなの?」
「アリだったようだ」
「おれは、地球人の死生観ってちょっと変わってると思うよ」
後ろの地中で、ミミズトカゲも聞いていたらしく、そんな意見をこぼす。エチゴモグラはふり返らないようにしながら、
「地球人とひと口に言っても色々だ。機械惑星の住民の死生観だって一貫しているわけではないだろう。死後への関心、死への関心は今も昔も変わらない。それにどう向き合うべきかという問題に絶対的な解決方法は見出されていないのだから」
「死を克服する研究はよく聞くけどな。手っ取り早いのだとデータ化すればいい」
「そうだな。あの技術が一般的なものとして普及すれば、人の死生観がどうなるのか、興味をひかれるところだ。最近気になっているんだが、このピュシスの植物族プレイヤーは、すでにそれに近い思想を持っているのでは、と……」
言いさしたエチゴモグラは「話を戻そう」と、ふう、と息をはいて、アナグマの背中の毛をゆらした。
「オルフェウスの演奏はそれはもう見事なものだった。彼の竪琴の音はどんなものの心をも動かした。冥界を流れる大河スティクスの渡し守カロンは彼を船に乗せ、冥界の番犬ケルベロスはおとなしくなり、彼は冥界の王ハデスと、その妃であるペルセポネーの前にまでやってきた」
「音楽の力ってすごいね。ぼくもライブとか好きだから分かるな」
「そうか。それも今と昔、地球と機械惑星で変わらぬ感性といったところかな。ペルセポネーはオルフェウスの演奏に感動し、その深い悲しみを知ると、ハデスを説得した」
「やっぱりペルセポネーって神様がハデスの妻なんだね。ギンドロさんが主張してたのはなんだったの? ハデスが自分の夫みたいに言ってけど」
「そうだなあ。ペルセポネーは豊穣神デメテルの愛娘。一年の三分の一を冥界で過ごし、彼女が地下世界である冥界にいるあいだはデメテルの悲しみで地上は冬になり、母の元に帰る時期には春が訪れるのだという」
「あー。冥界にずっといるわけじゃないから半端者って呼んでたのか」
「かもしれない。それでだな、ギンドロはハデスに見初められて冥界に連れてこられたものの、不死ではなかったために命を落としたレウケーという精霊と言われている。死したレウケーをハデスが白ポプラ、つまりギンドロに変えたとか」
「へー」
「時系列については私も調べてる途中なのだが、ハデスの唯一の浮気相手がメンテ―という精霊で、そのときのペルセポネーは嫉妬でメンテ―を踏みつけて植物のミントに変えたと言われている。ペルセポネーはそのぐらい深く夫を愛していた。そういった逸話のないレウケーは、ハデスがペルセポネーと出会う前の恋人だったんだと思うな」
「元カノだね。初恋の相手だったのかな」
「うん。まあ、そんなところだ。それにしても、ギンドロも神話には詳しそうだったなあ。なにか私の知らない資料を知っていたりするのかもしれない。機会があったら聞いてみたいところだが……、ええっと、どこまで話したか」
「ごめん。変な方向にやっちゃって」
「いいんだ。疑問がなければ研究はできないから。……そうだ。思い出した。ペルセポネーに説得されたハデスは。オルフェウスの妻であるエウリュディケを地下の冥界から地上へ連れ戻す許可を与えたんだ」
「つまり、いまのぼくらとおんなじ感じってこと?」
「そうだな。ハデスは公明正大で、厳格な性格だったようだ。その心を動かしたというのは愛する妻の口添えがあったとしても、なかなかすごいことだと思う」
エチゴモグラはひとり、うんうんとうなずきながら、
「ただし、ハデスはひとつ条件をつけた。冥界を出るまでのあいだ、決してふり返ってはならない、とね」
「それもいまのぼくらだ。上げて落とすなんてひどいことするなあ」
そんな風に言うアナグマに、後ろからミミズトカゲが、
「アナグマ。お前、ギンドロから同じ条件を聞いたときに、ふり返らないなんて簡単みたいなこと言ってなかったか?」
危うくふり返りそうになったアナグマの首を、エチゴモグラのシャベルのような手が押さえる。アナグマはしっかり前だけを向いて、一直線にならんでいるギンドロの樹々に視線を向けながら、
「許可しておいて条件を与えるのが、なんかイジワルな感じがしていやなんだよ。許可をくれるだけやさしいっていうのは分かるけどさ」
「条件なしに帰したら、なんでそいつだけって文句が出るだろ。そういうことじゃないのか」
「条件ありでもそれは同じじゃない? 御屋形様。どうしてハデスは条件をつけたんですか?」
聞かれたエチゴモグラは、ふうむ、と唸って考え込んでしまった。
しばし会話が止まって、アナグマの足音だけが花園に響く。耳をすませば、ミミズトカゲが穴を掘る音も聞こえるかもしれない。
正面から吹きつけた風がすれ違ったあとに渦を巻いて、今度は後ろから吹いてくる。後押しするようでいて、逆に肩にすがりついて、ひっぱろうとしているようでもある。背中にエチゴモグラが乗っていてくれていなかったら、むずがゆくってしょうがかっただろうと、アナグマは思った。
「……オルフェウスとエウリュディケは冥界から帰れたの?」
アナグマがたずねると、その背中で首が横に揺らされた。
「あと一歩というところでオルフェウスはエウリュディケが本当についてきているか不安に駆られてふり向いてしまったんだ。そのせいでエウリュディケは冥界へと連れ戻されてしまった」
それを聞いたアナグマは、声だけを後ろに向けて、
「ミミズトカゲ。ついてきてる?」
「ああ。地面の下をな。おれをエウリュディケ扱いするなよ」
ふり向かない代わりにアナグマは立ち止まった。その足元をミミズトカゲが追い抜いていく。アナグマは地面をすこし掘り返してみた。ミミズトカゲの尻尾がするりと逃げるようにトンネルを横切って消える。それを確認すると、ふう、と、かすかな安心感を覚えて、
「ちょっと分かるようになってきたかな」
すこし走って、ミミズトカゲを追い抜く。
「なにがだ?」
「やるなって言われると、やりたくなる気持ち」
「いま一番分かっちゃいけない気持ちじゃないのか、それ」と、ミミズトカゲ。
「禁忌とはそういうものだ」エチゴモグラが言って、「ギンドロは教えないこともできた。そうしたら、知らないうちにふり返るかもしれない。けれど、そうしなかったのは、ふり返るなと告げたほうが、心を刺激して、その確率が上がるからだ」
「そんな難しいことじゃなくて、御屋形様が色々知ってそうだったから、言っておくことにしただけじゃないの」
「どうだろう」首がおおきくひねられる。「私なんかは古臭いものばかりを好いているからか、若い人の考えから遠ざかっているように思えてな。特にギンドロのような、おそらくは若い女性となると、こう言っては失礼かもしれないが、きまぐれに感じて、とんと分からないんだ」
やや自虐的に言いながら、エチゴモグラはぽろぽろとした笑いをこぼす。
「でもぼくのことはよく分かってくれてると思うよ」
「それならいいんだが」
「ん? えっ?」
「どうしたのミミズトカゲ」
「いや……」
「それにしても。全然、出口につかないね」
空も、風も、花園も、並ぶギンドロも、変わり映えがない。
ギンドロは距離だけは教えてはくれなかった。立ち並ぶギンドロの樹木はプレイヤーが操作していないただの樹。予備の肉体。聞いても答えてはくれないだろう。
エリュシオンはいちプレイヤーのスキルとは信じられないほどに広大だった。
「本当に、出口はあるのかな」
不安は色を変えて、なんどでも心に花を咲かせた。