●ぽんぽこ12-23 楽園
アナグマは突然のことに息をするのも忘れた。
褐色のまるっこい獣は、一面の花畑のなかに埋もれていた。タヌキのような黒い隈取りの目をあちこちに向ける。ややあって、思い出したように空気を吸い込むと肉体がさわやかな香りで満たされた。
ついいましがたまで、ギンドロの縄張りである渓谷の底にいたはずなのに、ここには谷も、川も見えない。すぐそこにあったゴールもない。それを取り巻いていたプレイヤーたちもいなくなっている。
空を見上げる。変な空模様。地面より地面みたいなのっぺりとした空だ。地上から空を見上げているというより、地中から地上を見上げているような気分になる。朝なのか、夜なのかも判然としない。星もない。灰色めいた空を灰色めいた薄い雲が引きのばされるようにして流れている。暗くも、明るくもあって、モノクロ映画のなかに放り込まれたようであった。しかし、モノクロ感はあれ、彩度は失われていないのが、またいっそう不思議だった。色とりどりの花で埋まった麗しい花園がどこまでも広がっている。
月も太陽もなかったが、あたたかい陽気や、心地良い陰気があった。
アナグマはなんだかだまし絵を見つめているみたいに、目がくらくらと眩んできてしまって、くたりと地面に伏せると、まぶたを閉じて体をまるめた。
しばしの休憩のあと、心を落ち着けて立ち上がる。それから、そろりそろりと花をかきわけて移動していく。
――もしかしたら、この風景は幻覚?
また、ハンノキの植物族がアールキングの神聖スキルを使ってきたのかもしれない。幻覚系のスキル。
けれど、それにしてはおかしなところがあった。あのスキルは恐怖を煽って、それをダメージに変える効果。なのに、この場所には恐怖を感じさせるような対象がなにもなかった。そばに寄りそっているのは美しい花。安らぎを感じる甘い香り。子供を寝かしつけようとするようなやさしい風。
幻覚だとすれば、見えていないだけでゴールは近くにあるはず。そう思って、鼻や耳を研ぎ澄ます。
アナグマは、自分が幻覚系のスキルを使うプレイヤーである手前、その判別には少々自信があった。ここはピュシスというゲームのなか。仮想世界。もとよりすべてが偽装感覚の賜物ではあるのだが、それでも、偽装のなかの現実と、偽装のなかの虚構との違いはたしかに存在している。アナグマには、この花園がほぼ間違いなく偽装のなかの現実側に思えた。幻覚らしくない幻覚。
歩きながら考える。
――幻覚じゃないのかも。
ならば、転移させられたのだろうか。群れ戦が終わると、システムによる強制転移がおこなわれる。縄張りのなかにいたプレイヤーたちは全員中立地帯の座標に瞬間移動させられ、戦によって縄張りに与えられた変化などがすべてリフレッシュ処理される。
戦はまだ終わっていない。敵を転移させるスキルなのだろうか。それはピュシスというゲームにおいて、プレイヤーに許されていい能力ではないように思える。神聖スキルには無法な効果も多くあるが、アナグマが知る限りでは瞬間移動、もしくはそれに類するスキルはない。あってせいぜい超加速して高速移動できるようなものだけだ。
ここはどこ。ここはなに。疑問が頭のなかでくり返される。
においたつ花のかおりが、色を変えて、どこまでも続いている。
あまりに変わり映えしない道行に、頭がぼんやりとしてきた。
方向を変えてみようか。けれど、それだと迷ってしまいそうだ。すでに、迷っているのだけれど。
そんなことを考えていると、遠くに銀色に輝く樹が見えた。
ギンドロの樹。敵の長だ。最後にギンドロを見たのはゴール地点。だったら、そのそばにゴールがあるかもしれない。
ひとまずはあちらを目指してみよう。
目的地が定まると、すこし冷静になってきた。見つからないように気をつけないといけない。
植物族には花や芽はあれど、鼻や目は存在しない。けれどもアナグマが聞いた話によると、植物族にも五感が設定されているらしい。そうでなければスピーカーを使用した音声による会話など成り立たない。どんな感覚なのか想像はできないが、とにかくできるだけ頭を低くして、抜き足差し足で足音を消す。
距離が縮まっていく。
ギンドロのとなりには、副長のスミミザクラもいた。
ゴールの気配は感じない。光の柱は見当たらない。
貉のスキルでかく乱して、ふところに飛び込もうか、と検討しはじめたアナグマは、スキルが使えないことに気がついた。
メニュー画面を確認する。
すると、スキルが使えないどころではなかった。
アナグマは自分の体力を見ておどろいた。
体力が尽きている。体力ゼロ。本来ならば死体になっていなければならない。なのに、いま自分は動いている。歩いている。においや、音や、色も感じる。感覚は健在だ。
――ゾンビ化バグ?
ゲームにありがちなバグ。死んでいるはずなのに、死んでいない。RPGのボスキャラが何故か倒せない状態になって、いわゆる詰んだ状態になるなんてことを、アナグマはなんども経験している。
バグというなら、この場所もバグの産物なのかもしれない。テクスチャの裏側に入り込んでしまったとか。壁抜けバグみたいなものだ。ワープバグというのもゲームにはよくある。そう考えると、すべての状況が腑に落ちるような気がした。
それでも一応は、姿を隠していたアナグマだったが、ギンドロやスミミザクラの根本あたりに、見慣れた獣を発見すると、すぐに腰を浮かせて、そちらへと走っていった。
「御屋形様」
「おお。アナグマか」
エチゴモグラが半身を地面に埋めながら、敵の植物族たちを見上げるような恰好で、頭を穴から出していた。
アナグマはエチゴモグラのとなりに立つと、ギンドロやスミミザクラの幹や梢を見て、顔はどこかと探すようなしぐさをして、幹の中心あたりに視線を定めると、
「ギンドロさん、それから、スミミザクラさん、お久しぶりです。エチゴモグラの群れで副長をやらせてもらってるアナグマです」
「ひさしぶりー」明るくスミミザクラが言う。
「はい。ご丁寧にありがとう。会議で会って以来ですか」
「そうですね。……なんか、雰囲気変わりました?」
「わたくしがですか? そうでしょうか。どんな風に?」
「えっと、なんとなく、きりっとした感じに……」
声の響きが冷たい。口調すらどこか違うような気がしてくる。戦の最中だからだろうか。
挨拶もそこそこに、
「これって、バグってます?」
と、みんなにたずねる。
「どうやら、そうではないそうだ」
エチゴモグラが退化した目線でギンドロをさし示した。
「これは、わたくしのスキルです」
聞いたアナグマは、しまったなあ、と心のなかで思った。それだったら隠れておくべきだったかもしれない。のこのこ自分から出て来てしまった。
いまさら逃げたり、隠れたりしてもしょうがない。エチゴモグラが堂々としているなら、それにならえばいいか、と考えていると、足元の土がほのかに動いた。
「バグってるみたいだが、戦はどうする?」と、地中からミミズトカゲの声。
「体力がゼロのまま動けてるんだが、みんな同じか? スキルは使えないし、毒の状態異常も勝手に消えてる。こんなにバグりまくることいままでなかったのにな」
「バグじゃないんだって」
アナグマが地面に顔を寄せて教えると、
「そうなのか?」
とまどいの声が返ってくる。
「説明、とかってしてもらえませんよね。ですよね」
アナグマはダメ元でギンドロに質問してみる。返答はない。ただの樹ですというように、ゆるやかな風に枝を揺らして、銀色の葉をひらめかせている。
スミミザクラにも鼻先を向けてみる。こちらも右に同じ。赤黒い可憐な果実がころころとしているばかり。そうして、ふと、
「回復してあげましょうか?」
サクランボの果実が落とされる。
「いただいていいんですか?」
「どうぞ」
花園の絨毯に転がった果実のにおいを確かめて、どうしよう、という風にエチゴモグラを見る。うなずきが返ってきたので、ぱくり、と、ひと口。甘酸っぱい味。果汁が口に溢れる。
「おいしい」
「そうでしょうとも」
けれども体力は回復しない。ゼロのままだ。からかわれているらしい。
口の周りの毛についた汁をぺろぺろとしながら、アナグマはもう一度、おうかがいをたててみる。
「それでここはどこなんです」
「エリュシオンだろう」
と、答えたのはエチゴモグラ。
「死後の楽園だ。エリュシオンには美しいギンドロ、すなわち白ポプラがおいしげっているのだという」
美しい、という言葉に気をよくしたのか、ギンドロは心持ちはずんだ声で、
「正解です。博識ですね」
「御屋形様は地球の文化に詳しいからね」
アナグマが自慢げに体をふくらませると、
「なんでお前が偉そうなんだ」
と、地中からミミズトカゲのするどい声が飛んできた。