●ぽんぽこ12-17 セコイアのてっぺんへ
サルスベリの植物族の幹にしがみついて、なんとかずり落ちまいと四肢と六尾、顎も使ってしがみついていたイワサラウスであったが、山魈がもうすぐそばに追いついてくるというタイミングで限界が訪れてしまった。
深く食い込ませていた爪や牙で樹皮が傷つき、脆くなった部分が崩れて、腕の位置が下がる。
そんな様子を察知して、サルスベリが一本足で走ってくる仲間に呼びかける。
「こっちだよぉ! もうすこしだから早く、早く!」
山魈はしめ縄のような一本腕と一本足を引き締めて、瓜の顔で、セミのように幹にしがみついている黒いクマを遠くから見上げた。
ぐうう、と獣の声を上げながら、イワサラウスは思い切った行動にでた。渾身の力でもって六尾と両腕で一瞬だけでも体を支える。弓なりになると、あいた両足を使って、砕けるほどに強くサルスベリの幹を蹴りつけたのだ。
サルスベリの悲鳴。
黒いクマが宙を飛ぶ。背後にある樹の幹へと飛び移ろうとする。その距離はイワサラウスの体長の二倍ほどはある。届くか、否か、絶妙な距離。茨はそちらにも広がっている。落下すればダメージは必至。けれどひとつさいわいなことに、目指す幹はざらついた木肌。太い常緑樹。滑らない樹。
下では山魈が一本腕を掲げ、茨の棘を、ものともせずにやってくる。
イワサラウスが空中で前足を伸ばす。
もうすこし。
爪と尖らせる。
木肌を爪がなぞって、細い線が刻まれる。
あと、ほんのすこし。
肉球一個ぶんにも満たない距離が足りない。
重力に捕らえられる。
大地に引っ張られる。
けれど、イワサラウスはあきらめなかった。
――なんとかなれ!
祈りと情熱が混合された感情が推進力に変わる。
全身の動かせる部位は全て動かした。後ろ足で泳いで、尻尾をめちゃくちゃにふり回す。六尾が急速に回転すると、プロペラかスクリューのように空気をかき混ぜた。風が生まれるほどにその回転は激しく、クマの巨体をほんのわずかに前に進める。
幹に触れた。
離すまいと爪を引っかけ、力いっぱい体を引き寄せる。ずり落ちそうになるが、その前に後ろ足がついた。尻尾を滑り止めにして体勢を整える。
しかし、足元では狙いすましたかのように植物の怪物が一本腕を伸ばしていた。後ろ足を掴まれそうになる。
イワサラウスは滑らない樹の幹を両腕で抱きしめると、後ろ足を幹から離して敵の手を逃れる。ついでに瓜の顔をそろえた両足でキック。反動を利用して一気に樹上へ。山魈は樹下の茨の園に吹き飛ぶ。ひび割れかけた瓜頭を一本腕で押さえながら起き上がると、またも黒いクマには逃げられていた。
「くそぅ」
森の天井をおおう緑のカーテンの向こう側は、たとえ同族の植物であっても容易に見通すことはできない。
幹を思いっきり殴る。びぃぃぃん、と弦が震えるような音がして、ぱらぱらと葉が落ちる。その樹の上にもうクマはいない。
「サルスベリ。あの黒いクマがどこにいったか分からないか?」
「わからないなぁ。上じゃないの」
「上なのは分かってる!」
頼りにならない仲間を背にして地面が蹴られる。捜索に時間をかけすぎるとまた地中に隠れられるかもしれない。六尾の回転はわずかに空を滑空してみせたようにも見えた。地中、樹上、それから滑空。並々ならぬ機動力。
山魈は圧倒できるつもりでいたが、相手を甘く見ていたと思い直す。厄介な相手だけに、それを逃した場合の自分の責任は重い。見つけないと、という一心で迷宮を走った。
まんまと逃げたイワサラウスはというと、覚えたばかりの尻尾での空中機動を駆使して枝から枝へ、幹から幹へと移動していた。梢を這って、ぬらりとした肌の獣が闇に溶け込みながら進む。高い方へ、高い方へと、その体はすこしずつ空に近づいていた。
遠くからでも目立って見えていた巨木へ。森から突き出ているどころか、森につき刺さっているようにすら思える樹。ジャイアントセコイア。地球で世界一の樹高だったという樹木。セコイアはプレイヤーではない。この縄張りに配置されている自生植物。
ビル三十階ぶんほどにも相当するそのてっぺんへとイワサラウスは向かう。
空が近い。けれど、渓谷の崖はセコイアよりも高く、空を区切っている。
セコイアの展望台から、星明りに沈む森を眺める。森は遠くに感じるが、それでも植物のにおいは、この高さにまで立ち昇って、濃く鼻を刺激してきた。
まずはウシツツキを探す。長く連絡が途絶えたままだ。おかげで他のパーティの状況が分からないままここまできてしまった。
薄闇に目を凝らし、耳を澄まして、鼻で風をとらえる。
しばらく続けてみるが成果はなし。これは倒されたと考えたほうがよさそうだ。
緑が隙間なく満ちた渓谷の底。しかし、高所から眺めれば、樹々に隠された拠点の位置がそれなりに把握できた。拠点にはシステムによって特徴的な輝き、匂い、音が与えられており、プレイヤーに察知できるようになっている。ゴールには分かりやすい光柱のエフェクト。間違い様がない派手々々しさで夜のなかに暗く輝いていた。
気持ちを切り替えて、道筋を考える。ゴールに向かって拠点を巡るうえで最適解のルートはないか。地形や樹々の密度を考慮して、最も安全だと思われる道。
射手のような視線が、暗緑の森にかすかな切れ目を見つけた。傷口のようなそこからは、流れる水の気配。
川がある。遠目に見ても確認できるということはかなり幅の広い川だ。
開始時は川から離れるように移動していたが、敵から逃げ惑っているうちに、いつの間にか近づいていたらしい。
切れ目は拠点をかすめて、そこからゴール付近にまでつながっていた。川のなかには樹々はなく、たどれば道に迷うこともなさそうだ。
一度、立ち寄ってみようか、と黒いクマは考える。
山魈がまだ追ってきているかもしれない。だが、川の地形を利用すれば有利に立ち回れるだろう。
シロクマは泳ぎが大得意。数日間かけて海を泳いで渡ったという超遠泳が何度も観測されている。山魈は手足はあれど植物には違いない。シロクマの自分よりも泳ぎなれているとは思えない。いざというときには川を下って逃げることもできる。
イワサラウスは六尾をセコイアの枝に絡ませながら、するすると巨木からおりていく。横に張り出した枝にまでくると、その切っ先から緑の海に飛び込んだ。尻尾を回転させて空中で軌道調整。別の枝に飛び移る。そうして、梢を突風が揺らすように、川を目指して移動していった。
ごうごうと川が流れている。
大河だ。思っていたよりも幅が広い。足をしっかりと踏ん張らないと流されてしまいそうだ。
イワサラウスは水のにおいを嗅いで、ぺろりとひとなめ。それから眉根にしわを寄せた。
激しい流れに飛び込んでみる。ざぶんと音がして、しぶきがまき散らされる。
川面に顔を出した黒いクマはすぐに川岸に戻って、来た道を引き返しはじめた。
四足をいそがしく動かして、猛然と走り出す。
と、その正面から植物の怪物が現れた。
山魈が、
「やっと見つけたぞ」
相対して、樹によりかかる。瓜頭を一本腕でなであげて、それから黒いクマの背後にある川を覗き込むような仕草をした。
「川を使うか? どうする?」
余裕の態度で戦いのリングを選ばせようとする。
黒いクマはむしろ川から離れるように移動しながら、
「君は山椒でしょ」
「そう山魈。よく知ってるな」
「そりゃサンショウっぽいにおいがしたもの」
「そうか?」
山魈は自分の体臭を気にするように一本腕を瓜頭に近づけた。
「サンショウってミカン科なんだよね。乾燥より湿潤を好むそうだし、水のなかもへっちゃらなんじゃないかなって。それに大抵の樹は水に浮かぶし。それなら足場の確かなほうでやろうかな」
その足取りはますます川から遠ざかる。
「ああ、サンショウって山魈じゃなくて山椒か」
「なに言ってるの?」
怪訝な表情のイワサラウスを放っておいて、
「なるほど。おれってミカン科だったのか。知らなかった」
相手に合わせて移動しながら、山魈は感心したように一本腕を顎に当てた。
「自分のことなのに知らなかったの?」
「知らなくったって自分の好き嫌いぐらい分かるだろ。サンショウだとか関係なくおれは乾燥してる場所は嫌だし、適度にじめっとしてるのが好きだ。それがおれなんだよ。……それにしてもミカン科か。ミカンはいいな。おれもカホクザンショウじゃなくてミカンの肉体がよかったよ。果実でみんなを回復させてやれる。ジョブを選択できるゲームをやるときは大抵ヒーラーを選ぶんだおれは。辻ヒーラーとして有名だったこともあるんだぜ。まあ、そのゲームはサ終したんだけどな……」
山魈はだらだらと喋りながらも、一本足で細かく移動しながら、飛び込める間合いをはかっている。
イワサラウスが立ち止まる。山魈も足を止めた。
「ふん。本当にやる気になんだな」
正直なところ、川を使って逃げるに違いないと思っていた。
「そっちこそやる気なさそうだったのに」
「仕事だと思うと体が動くタイプなんだおれは」
「ピュシスを仕事だと思ってるの?」
「煽りか?」
「えっ……、そんなつもりはないけど……」
言葉尻がしぼむ。そんな弱々しさに対して、六本の尻尾はクジャクがするように勇ましく、放射状に広げられた。
「まあいいさ。おれは義務感が好きなんだよ」
山魈の肉体に力がこもり、しぼられた一本足が軋むような音を立てる。
一触即発。クマの怪物と植物の怪物がにらみ合う。
イワサラウスが牙を剥き出し、月光に鋭く煌めいたのが合図。
山魈は大地を蹴って幹の体を跳ね上げると、弾丸のように自らを撃ち出した。