▽こんこん1 ノモス
リヒュは体を起こして窓の外を眺めた。灰色の建物。灰色の道。灰色の空。灰色の人々。なにもかもが灰色だ。
VRMMOゲーム『ピュシス』は脳と電子ネットワークを接続して全感覚を仮想現実に没入させる。長時間プレイしていると、自分が人間であることを忘れそうになる。リヒュは立ち上がって体を見下ろし、改めて体が毛衣に被われておらず、尻尾も生えていない事実を確認した。
すぐにでもピュシスの世界に舞い戻りたい気分だったが、生身の肉体がそれを許してはくれない。食事や睡眠をとらなくては倒れてしまう。学校だってある。それにしても、と、リヒュはピュシスに思いを馳せ、なんて素晴らしい世界なんだろう、と考えた。
動物、植物、自然と呼ばれるものは、この機械惑星『ノモス』には存在しなかった。リヒュはピュシスではじめてそれらに触れ、太陽や月の光、雲や風や雨といったものを体験し、全身が驚嘆で包まれた。もはやどこにあるとも知れない地球と呼ばれる惑星。データベースでしか目にしたことがない、遥か昔、ご先祖様が暮らしていたとされる場所。そこにあったらしい”自然”。
ノモスには鮮やかな色も、花の香りも、甘い蜜も、樹々のざわめきも、やわらかな風もなかった。惑星の中核には惑星コンピューター『カリス』があり、表層で暮らす人々の生活を管理している。三つの機械衛星、第一衛星のアグライア、第二衛星のエウプロシュネ、第三衛星のタレイアがそれを補佐。第一衛星は太陽のように昼を照らし、第二衛星が月のように夜を告げる役割もあった。そして第三衛星はいつも闇のなかで影のように支援に徹している。
透明なドームの天井の向こう側に見える第二衛星の輝きは、ピュシスで見る生き生きとした月の美しさとは比べるべくもない。まるでこちらの世界が偽物で、ピュシスのなかこそが真実であるような感覚がふと脳裏を過ったが、すぐにそれを振り払う。
冠に触れてネットワークから情報を呼び出すと、網膜に文字列が投影される。明日の学校の授業内容を確認。それから遅い夕食をとる。灰色のもっちりとした球。粘土のよう。実際、ノモス周辺の惑星から採取した土や鉱物を、栄養満点な可食物質に変換しているらしかった。手に取って、口に運ぶ。味はないので自分で設定。冠から脳へ味覚情報の信号が送られて、脳が味を錯覚、僅かな塩味が感じられるようになる。二口目は甘味強め、更に疑似水分と食感を設定してみる。噛むと、サク、サク、と疑似咀嚼音まで感じる。けれど、ピュシスで味わったリンゴのみずみずしさには遠く及ばない。
ピュシスには抗いがたい魅力があった。ピュシスをアンインストールして、あの世界を堪能する権利を放棄するプレイヤーもいるということが、リヒュには信じられなかった。ピュシスが非合法ソフトという事実を加味してもだ。
誰がこのゲームを作ったのかは謎。いつの間にか自身の端末の片隅に居ついていた。惑星コンピューターはピュシスを危険なソフトと判断し、所持者には重い罰を科している。しかし、その一方でピュシスはカリスにとって不可視であり、いまだどのようなものであるかすら把握していないようだった。冠によってノモスに住む全人類の情報をモニターしているにも関わらず、摘発された者はごく僅か。プレイヤーであるリヒュは、ピュシスのなかで出会う無数のプレイヤーに対して、それが少なすぎることを知っていた。捜査の手が及びそうになった場合、それから逃れるためピュシス自体が意思を持っているかのように自動アンインストールされるという噂もまことしやかに流れていたが、その真偽のほどは分からない。そんな事態にならないように注意を払わなくてはならないと、リヒュは考える。アンインストールされても、再び現れるという話もあれば、永久に失われて手に入らないという話もあった。
ノモスの裁きへの畏れはあれど、ピュシスは楽園であり、手放しがたい宝であった。ピュシスにおいて命力という値がゼロになると、キャラクターの消滅と同時にピュシス自体がアンインストールされてしまう。プレイヤーは仮初の肉体を失わないように奮起し、切磋琢磨し、ピュシスでの己の居場所を見つけ、享楽にふけった。
「ねえ、リヒュ。ロロシー見なかった?」
メョコの声に、机に突っ伏していたリヒュは顔を上げた。昨日のピュシスでの出来事がたたってか体が重い。存在しない尻尾がつっているような感覚がする。全てオンライン授業にすれば登校の煩わしさがなくなり、もう少し眠る時間が確保できるのにと、惑星コンピューターの反対を押し切って対面授業を残そうとしている顔もよく知らない政治家たちに不満の暗雲が湧き出した。政治家たちの主張によると、推し進められている人間から機械への代替化による摩擦で職にあぶれた者の仕事を確保する目的と、年々増加するエネルギー消費を少しでも抑えてこの機械惑星の恒久的な維持を目指す、という正当な理由があるらしかったが、そんなことはリヒュの知ったことではなかった。それに惑星コンピューターは、仕事が必要なら用意することは可能であるし、エネルギー消費についての政治家たちの考えは杞憂であり、対応策はそう遠くない未来にカリス自身で導き出すので問題はないと判断していた。
「……えっと」
頭脳が目まぐるしく働きはじめる。メョコは最近派手な化粧をするようになった。そのキラキラ光るアイメイクを眺めながらリヒュは、ロロシーになにか用事があるらしい、居場所は知らないがそれを正直に言うとメョコのことだから自分に頼みかねない、そうなると面倒だ、ということを瞬時に考えた。
「向こうで見たような気がするなあ」
薄い爪先を教室の外へ向けると、廊下を数体のオートマタが大荷物を運んで横切っていく。メョコは指し示された場所ではなくリヒュの顔をじっと見つめていた。
「嘘ついてるでしょ。私には分かるんだからね」
眉を顰め、咎めるように口を尖らせる。リヒュはどうしてバレたんだろうかと訝しく思いながら、観念して両手を掲げた。
「いや、ごめん。僕は知らないんだ。他の人に聞いてくれ」
教室を見回す。昼休憩。皆ゆるやかに思い思いの時間を過ごしていた。後ろの窓際では黙々と食事。廊下側の二人と、左右後方にいる生徒たちは、全員が椅子に背中を預け、目も合わせていないが、オープンチャットで会話を弾ませている。学校内では完全な公開状態でしかチャットは許されていない。主にカンニング対策。他の生徒たちも冠を使って、なにがしかの操作をしている。
冠というのは輪っか型の個人端末。ノモスの人々はすべからく、これを頭に装着して、電子ネットワークと繋がっている。人間の脳の働きを外部からモニターして、読み取り、逆に情報を送りこんだりもできる。その形状と、自分の意思で感覚器官をも操作できる機能から、誰もが自分自身という体にとっての王であり、自己を自由自在に操れるのだ、という意味を込めて冠と呼ばれている。
大抵の者は眠る時すら冠を外すことはない。生まれて程なくしてからずっと装着しているものなので、外すことに恐怖を感じるという声も多数あり、特にその感情が根深い者は冠の周りの髪の毛だけ微妙に濃くなっているのですぐに分かった。散髪で髪を切るときに冠を外すのを嫌っているのだ。
「ねえ」
メョコの瞳が人懐っこく、くりくりと動いた。リヒュは身構えたが、その後に続いた言葉は想像していたものではなかった。
「最近、近所がうるさいのなんのって。朝と夕方。ノイズキャンセル機能をふと切ってみたら、びっくりしちゃった。騒音よ、あれは」
ロロシーのことなど忘れてしまったかのような、打って変わっての世間話にリヒュは面食らったが、肘をついて、適当な相槌を交えながら耳を傾ける。
「それでさ、どこから聞こえてくるんだろう、って探したの。結局、はっきりした場所は分からなかったんだけど、上階の方で誰か叫んでるのよ。第一衛星が沈むのと、昇りはじめるのに合わせて聞こえるから、第一衛星に、おはよう、とか、おやすみ、とか挨拶でもしてるのかとも思ったけど、意味わかんないよね」
「誰か中央に通報しないの?」
「まあ、ノイズとして処理すれば聞こえないから、みんな気にしないのかも」
「ふうん。なんでノイキャン切ったりしたのさ」
リヒュの何気ない質問にメョコは戸惑ったように口を閉じて、
「なんでだろうね?」
と、曖昧な返答をした。そうして首を捻るメョコをリヒュが眺めていると、まもなく次の授業の時間であることがリマインド通知された。リヒュが腰を上げようとした瞬間に、ロロシーが教室にやってきて、
「次は体育なのでロッカールームで着替えてから校庭に行ってください」
と、口頭で伝達事項を告げた。ぱらぱらと席から離れた生徒たちが、一塊の波になって教室から流れ出す。リヒュは一旦、腰を落ち着けて、その流れがゆるやかになるのを待った。メョコはロロシーに小走りに近づいて声をかけている。リヒュの耳には雑踏に混じって、「なくしちゃったんだよぉ」という泣き言と、「またですか?」という呆れたようでいて、ふんわりと包み込むような優しい声が漏れ聞こえてきた。
「お願いっ! 元データの複製じゃないと先生にバレちゃうよ。もう一回送って」
「データの検索はしたんですか」
「したけど、名前変えちゃってたの。だから分かんなくなっちゃって」
「どうしてそんなことを……」
「その時は、そうした方が綺麗に整頓できると思ったんだもん」
「あのですね。わたくしが先生からお預かりしている元データを複製したとしても履歴が残るんです。その時間を見れば、すぐに不正は暴かれてしまいます」
「そんなぁ」
縋りつくような視線を向けられると、
「大丈夫。わたくしが一緒に先生にデータの再送許可を頼んであげます。きちんとお話すれば、怒られたりしません」
と、ロロシーは長髪をふわりとなびかせて、メョコを励ました。すると、たちまちメョコは元気を取り戻して「うん!」と大きく頷くと「じゃあ後でね。連絡する」と、ロロシーの元を離れて、自席に置いていた鞄を手に取ると、慌ただしくリヒュの席にやってきた。
「ごめん。待たした?」
約束などしていないが、メョコのなかではリヒュと一緒に次の授業に向かうことが決定事項になっているようだった。こうした図太いところが羨ましい、とリヒュは思いながら、ふたり並んで教室を出た。
校庭は角ばった校舎に三方を囲まれて、固いゴムのような感触の地面が敷いてある殺風景な灰色。空いた一方は灰色のフェンスが張られており、その向こう側には、灰色の道を行き交う灰色の人々や灰色の乗り物が見える。きっと匂いも灰色に違いないと、リヒュは考える。
まずは一ヵ所に集まって準備運動。学校指定の運動着も灰色。生徒たちが円形に並び、教師が指示する動きを真似て体をほぐす。風はないがだだっ広い校庭に出た瞬間から、リヒュの心には今にも走り出したい衝動が芽生えていた。しかし、ここはピュシスの平原ではないんだ、ということを自分に言い聞かせて、なんとか抑え込む。
横に体を曲げたり、捻ったりした後、ぴょんぴょんと跳ねる。両手を大きく開いたり、閉じたり。それが終わると前屈。リヒュの隣にいたルルィは体が非常に固く、腰を直角に曲げるのもつらいというように呻いていた。
リヒュが、ひょい、と立った状態から地面に手をつけると、横で見ていたルルィは驚愕の表情を浮かべて「柔らかすぎだろ……」と思わずこぼした。更に前に体を倒して、膝と胸がぴたりと合うと、ルルィは驚きを通り越して「大丈夫か?」と心配しはじめた。
「まあね。全然平気」
リヒュは特に誇るでもなく答えて、すぐに身を起こす。肉体をうまく扱えるようになっているという自覚。ピュシスをプレイするようになってから、日毎その思いは強くなっていた。以前より身体のしなやかさが増し、視力や聴力、嗅覚といった感覚も鋭くなっている気がした。カリスはこういったことを危険と判断したのかもしれないと、リヒュは思った。
ピュシスは確実に現実世界に影響を及ぼしている。今この場に集まっている生徒のなかにもリヒュのような柔軟性を発揮している者が何人もいる。手を軽く握るようにして顔を撫でるような仕草をしている生徒はピュシスではネコ科なのかもしれない。棒のように立ち尽くしている生徒は植物族かもしれない。いや、逆という可能性もある。ピュシスでの姿をプレイヤーは選択不可能。初回ログイン時に自動的に決定される。現実世界での性格などを加味して与えられた姿なのかもしれない。そんな分析をしながら、あまり目立つことをするべきではないと、リヒュは己を戒めた。
ランニング。間違っても四足走行なんてしてはいけない。スタート時に地面に手をついてしまい、うっかり転んでしまったという風に誤魔化しながら走り出した生徒がいたのを、リヒュは見逃さなかった。ああいった隙を見せていたら、いつかカリスに見つかって、ピュシスプレイヤーとして裁かれてしまうだろう。そんなことを考えながら校庭を数周走っていると、目の前で周回遅れのメョコが足をもつれさせて転び、地面にへばりついたまま顔を上げた。リヒュは追いついて助け起こそうとしたが、その前に先を走っていたロロシーが手を差し伸べる。
怪我はなさそうだったが「痛覚を消したいよー。なんで無理なの」と、メョコは頬を膨らませて、いじけながら冠を操作した。横をリヒュが走り抜くと「あっ、待って」と、追いかけようとしたが、また転んでしまって、再びロロシーに世話を焼いてもらうことになる。
皆が走り終わると、球技をすることになった。校庭にコートが描かれるが、それは冠が視覚に干渉して見せかけているだけで、実際に線が引かれているわけではない。リヒュはボールも疑似的なものでいいのではないかと思ったが、筋肉関連の感覚操作は予期せぬバグが発生した場合に大きな怪我に繋がるということで、推奨されていなかった。ゴールの枠も宙に描かれている。ハンドボールのような競技だが、運動が不得手な生徒も参加しやすいようにと、そこまで厳密なルールは設定されていない。二チームに分かれてボールを取り合い、キーパーが守る相手のゴールに入れるというだけの簡単な決まりだけがあった。得点は冠が自動的に計算してくれる。
チーム分けの後、試合開始。参加人数から溢れた生徒はコートを取り囲んで観戦。センターサークルに投げ上げられたボールをチームメイトが取って、すぐ後ろにいたリヒュにパス。受け取ったリヒュが相手のゴールに向かってドリブルすると、長身でがっしりした体つきのギーミーミが立ちはだかった。リヒュはチラリと覗いたギーミーミの歯の切っ先が鋭く尖っていたように見えて、急に嫌な予感がした。
パスできないかと視線を走らせる。良い場所にチームメイトがいたが、それは準備運動の時にリヒュがネコ科プレイヤーではないかと疑っていた生徒であり、ボールを見て涎を垂らさんばかりだった。
これはいけないと思って、別方向にパスを回す。そこにはチームメイトのプパタンが立っており、ボールが胸のなかに飛び込んでいったが、彼女はそれを掴むことなく、頭上のドームの向こうに浮かぶ第一衛星の輝きを眺めていた。体にぶつかり、跳ね返されてから一拍置いて「いたい……」という鈍い呟きがこぼれる。
転げ落ちたボールを獰猛さを感じさせる動作でギーミーミが拾い上げようとしたが、その瞬間、細い手が横から伸びてきて、するりとボールをかっさらった。ロロシーだ。ルルィが正面を塞ぐがあっけなく脇を潜られてしまう。ロロシーが敵の間を縫ってコートを駆け抜ける姿は、ゆっくり走っているのではないかと勘違いしてしまいそうなほど優美だった。しかし、それでいて全力で追いかけるギーミーミを完全に振り切っている。長い髪が尾を引いて、それを捕まえようとギーミーミが手を伸ばすが届かない。見学している生徒たちに交じっているメョコが「がんばれぇ」と気の抜けそうな声援を送っている。
ゴールに向かってボールが投げ放たれる。放物線ではなく、まっすぐにボールが飛ぶ。キーパーのゴャラームが小さな体で踏ん張る。両手が大きく広げられて、ゴールを守るという点では優秀な構えだったが、自身の体については全くの無防備といってよかった。顔面の中央、鼻でボールを受けとめると、そのままばったりと後ろに倒れてしまう。
場が騒然とした。ロロシーが駆け寄り、ギーミーミもそれに続く。ゴャラームの顔が覗き込まれるが、「うーん」と唸り声が発せられると、ややあって無事を知らせるように仰向けのまま手が掲げられた。傍にいた二人がその手を片方ずつ取って、ゴャラームを起き上がらせる。
教師は慌てた様子で冠から情報を読み取って、生徒の無事を確かめた。それから「大丈夫か」と口頭での確認が行われる。「大丈夫です」と穏やかにゴャラームが返答したが、その鼻から一筋の血がとろりと流れた。
数名が目を逸らし、数名が凝視する。灰色を彩る一筋の紅。命の雫。きっと血をまじまじと見つめているのはピュシスプレイヤーに違いないと、リヒュは己も血に惹きつけられながら思った。
教師が連絡して、医療用オートマタがすぐさま校庭にやってくる。精確な動作で血を拭い、消毒。薬を患部に塗布。ゴャラームは鼻に違和感があるというように目を寄せて顔を顰めたが、オートマタは苦情は受け付けないというように、役割を終えるとさっさと帰っていった。
その後、キーパーを別の生徒に交代して試合を続行。リヒュは四角いコートのなかを動き回りながら、こんな線で区切られていない広大な土地を駆け抜けたいと、心の底から願い続けていた。